事件前夜

主に映画の感想を書いていきます。

是枝裕和『ベイビー・ブローカー』

本作のあからさまな豪華さに、我が国の文化的貧困を思い知らされる

カトリーヌ・ドヌーヴジュリエット・ビノシュを招いて作られた『真実』に続き、是枝裕和の新作『ベイビー・ブローカー』は海外資本で製作された。しかも『真実』の様な合作ではなく韓国の単独製作であり、キャストやスタッフも全て韓国人だから、是枝裕和が監督と脚本、編集を務めているとはいえこれは完全に韓国映画だ。主演はもはや国際的な俳優となったソン・ガンホ。更にカン・ドンウォンぺ・ドゥナ、イ・ジウンといったスター俳優が脇を固め、撮影は『バーニング 劇場版』のホン・ギョンピョ、音楽に「イカゲーム」のチョン・ジェイルと、韓国映画としても非常に豪華な布陣である。それだけ「是枝裕和」というブランドに国際的な価値がある、という事なのだろう。
はっきり言ってしまえば、本作は是枝裕和の最高傑作と言える出来ではない。ネグレクトを題材とした映画、という意味では初期の傑作『誰も知らない』には遠く及ばず、エモーショナルなロードムービーとしては『奇跡』の方がまだ上だろう。犯罪映画としても『万引き家族』の様な奥行きに欠け、既視感のあるプロットに収まっている。いかにも韓国映画らしい、社会的なテーマを持ったエンタメ作品を意識したのだろうが、様々な要素を盛り込み過ぎた結果、どうにも焦点がボケてしまった様に思う。そこにウェットな描写が重なるので、全体がいよいよ作り物めいてくる。もちろん、いかに凄惨な現実を描いていたとしても最後に希望を提示してくれるのが是枝作品の長所だとは思うが、本作はバランスの悪さが気になった。
とはいえ、である。海外から映画監督を招き、これだけの予算を与え万全の製作体制を整えて映画を撮らせるばかりか、きっちりと作品を興行的成功に導きおまけに国際映画祭で賞まで獲らせてしまう、などという芸当が今の日本映画界にできるだろうか。はっきり言って、我が国の映画界は未だにドメスティックな価値観から抜け出せず、産業構造の改革に手を付ける事すらできていないのだ。そんな有り様で国際的な視座に立った映画製作などできる筈がない。もちろん、日本にも是枝裕和だけでなく、黒沢清濱口竜介など、国際的に評価の高い監督は存在する。しかし、彼らが世界的な名声を獲得する為に、日本の映画界は何らかの貢献をしたのだろうか。彼らを成功に導いたのはDIY的なインディーズ精神であって、日本映画界は結局、個人の才能や努力に任せる事しかできないのだ。先ほど挙げた3人の監督はいかに低予算であっても貧乏臭くならず、リッチな映画を撮る事のできる才人だと思うが、『ベイビー・ブローカー』のあからさまな豪華さは我が国の文化的貧困を思い知らされ、暗澹とさせられる。

 

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コーエン兄弟初期の快作。どちらも赤ちゃんを盗むお話、という事で。

ミシェル・フランコ『ニューオーダー』

暴力はやがて、見慣れた秩序へ変わっていく

昨今、某宗教団体と政権与党の癒着が明るみに出てメディアでは連日大騒ぎの様である。そのきっかけは私の住む奈良県で起きた元首相暗殺事件だった訳だが、現在容疑者とされている男は旅客機をハイジャックしたり、毒ガスを散布したりもせず、たった1人の要人を抹殺しただけで世間の空気を一変させてしまった。その意味で、この事件は我が国で(実行犯の意図を超えて)最も成功したテロルのひとつという事ができるだろう。
テロルの成功は現在の国家権力に対する不信や不満が醸成されている事を前提とする。だからこそ、本来は殺人者である筈の実行犯に対し、多くの人々から同情や共感が寄せられるのだ。3.11以降、我が国の政治に対する信頼が失墜したまま、政権与党は大衆との関係性を改善する機会を逸し続けてきた。これまでは総理大臣に全ての責任を押し付け、首をすげ替える事で大衆の眼を逸らす事ができたのだが、もはやその様な小手先の手段ではごまかされない程、大衆は絶望しているのである。人々の絶望や不安がやがて、暴力による現状変更を正当化させる。メキシコ出身のミシェル・フランコの新作『ニューオーダー』は、まさにその暴力が社会を変容させていく様を描いた1作だ。
ところで、メキシコでは71年間にわたって制度的革命党(PRI)の一党支配体制が維持されてきた、という歴史がある。その支配体制が揺らぐきっかけとなったのが、現職の大統領が麻薬カルテルに関わっていた、というスキャンダルだった。現在の日本も当時のメキシコとほぼ同じ状況に陥っている訳で、今回の事件は我が国の今後の政治状況を一変させる可能性すらある。
しかし、こうした暴力による革命が国家権力を打倒し、新しい価値観に基づく世界を切り開く事などあり得るのだろうか。ミシェル・フランコははっきりと否定する。『ニューオーダー』が恐ろしいのは、大衆の怒りや絶望が大きなうねりとなり暴力へと転じていく、という点にあるのではない。ここで描かれているのは、いかに非道な殺人や略奪が起きようとも、その混乱はやがて既存の権力の下へと収斂していき、進んでその支配や統治を受け入れていく、という事実なのだ。そこでは「新たな秩序」など生まれる筈もなく、見慣れた秩序の似姿が再生産されるに過ぎない。愚かな大衆がいつかその事に気づくまで、新たな権力による支配は続くだろう。
ミシェル・フランコはこれまで、家族を題材に採り、ふとした事をきっかけに世界が崩壊し地獄へと一変する物語を綴ってきた。『ニューオーダー』では題材を家族から国家にまで拡大しているが、そのペシミスティックな作風は健在である。

ホン・サンス『あなたの顔の前に』

過去にも未来にも繋がらない、今この瞬間を生きる

ホン・サンスの映画には脚本が無いと聞く。俳優たちには撮影日の朝に台本が渡され、一日の撮影が終わるとその台本は回収される。例えば、予め撮りたい映像や物語が確固としてあり、俳優の演技や撮影場所といった諸条件がそれらを完全に表現できる様になるまで、妥協なく時間をかけて撮影する、といったタイプの監督とはホン・サンスは正反対のタイプと言えるだろう。1年に2、3作という近年の多作ぶりは当然こうした撮り方に由来しているに違いない。
しかし、だからといってホン・サンスが何もヴィジョンを持たずに映画を作っている訳ではない。彼の映画は結末が決まらないまま書き始めた小説の様である。登場人物たちは用意された物語の結末に向かって収斂されていくのではなく、どこに行き着くか分からない時間の中で、微かな戸惑いと共にただその瞬間を生き始める。だから映画はその瞬間ごとの「生」を記録しさえすればいい。


「私の顔の前にある全ては神の恵みです。過去もなく明日もなく、今、この瞬間だけが天国なのです」


イ・ヘヨン演じるサンオクの告白はホン・サンスの映画作りそのものについての告白でもある。数年ぶりにアメリカから帰国した彼女は、渡米した目的や帰国した理由を妹のジェウォンに問われるが、明確に答えようとはしない。渡米の目的はサンオクの「過去」へと、帰国の理由は彼女の「明日」へと繋がる言葉であり、それを口にすれば最後「今、この瞬間」を生きるという「神の恵み」が失われてしまうからだ。その時、映画は映画である事をやめ、お仕着せの物語へと堕してしまうだろう。12分もの長回しで撮られたサンオクと映画監督ソンの会話シーンは、彼らが生きる時間のずれを顕わにする。過去も未来もなく、今を生きようとする女と、過去の蓄積が現在であり未来へと繋がっていくと信じる男の、絶望的なすれ違い。一緒に短編映画を撮ろうという彼らの夢は、最初から不可能である事を約束されていた。

ホン・サンス『イントロダクション』

何者にもなれない自分、何ももたらさなかった時間

ホン・サンスの監督第25作『イントロダクション』と第26作『あなたの顔の前に』が日本で同時公開された。
『イントロダクション』は上映時間66分と短い作品だが、美しいモノクロームの映像で撮られた青年ヨンホの物語は、私たちの胸を激しく揺さぶる。ドラマティックな展開が待ち受けている訳ではない。ソウルとベルリンという2つの都市を舞台に、人々の何でもない会話が泡の様に生まれては消えていく。それは私たちが雑踏の中で立ち止まり、耳をそばだてていれば聞こえてきそうな、けれどもやっぱりホン・サンス作品の中でしか存在しない言葉たちの連なりで、リアルな様でいて現実感の希薄な、この不思議な感触がホン・サンスの映画の魅力なのだろう。
劇中、主人公のヨンホは3回だけ女を抱きしめる。その3度の抱擁を本作は3幕構成で描いていく訳だが、抱擁はヨンホと女たちが久方ぶりの再開を果たした際になされるものの、そこから男と女のドラマが展開する訳でもなく、むしろその様なドラマの消失点として機能している筈だ。男と女が抱き合った瞬間、それまで存在した活発な会話が織りなす豊かな時間は消え失せ、奇妙な不安を伴った沈黙が彼らを支配する。やがて、その抱擁も空から降り注ぐ雪や打ち寄せる波の中に消えてしまうだろう。何者にもなれない自分、何ももたらさなかった時間。その哀しみをイントロダクションとして、私たちの人生の愛しさが語られていく。

ジャック・オーディアール『パリ13区』

性愛を信じる事のできない私たちに必要なもの

ブログの更新をサボっている内に、観た映画の内容をどんどん忘れてしまう。そもそも、このブログは映画の感想を備忘録的に記述しておこうと始めたものなのに、これでは本末転倒である。
本作の内容もほとんど覚えていない…が、鑑賞後は非常に好ましい印象を抱いた様に思う。ジャック・オーディアール作品というと幾つかの作品をちょこちょこフォローしているぐらいだが、ノワールの形を借りて何か新しい物語を生み出そうとしている作家、という印象である。フィルモグラフィの中では『預言者』や『ディーバンの闘い』がいかにもフレンチ・ノワール的な雰囲気を湛えているのだが、そこで語られる物語はノワールという括りでは捉えきれない過剰さ(あるいは欠落?)を抱えていた。聴覚障害のOLが犯罪に巻き込まれる『リード・マイ・リップス』など、ノワールとして観ると異常な構成である。おそらくは、このいびつさがオーディアール作品の持ち味で、比較的オーソドックスな西部劇として撮られた前作『ゴールデン・リバー』はだから、彼の中でも例外的な作品なのだと思う。
伝統的なアメリカ映画を模した『ゴールデン・リバー』と打って変わり、本作『パリ13区』はフランス映画らしい、軽やかな群像劇に仕上がっている。孤独を抱えた男女がパリの街を彷徨い、やがてもたらされる偶然の出会いが彼らを傷つけ、また慰撫していく。めまぐるしく変化する人々の関係性を的確かに捉えていくその手際は、恋愛映画の名手エリック・ロメールを想起させ、本作は実際に『モード家の一夜』へオマージュを捧げているそうなのだが、私は未見なので判断がつかない。もう1作、オマージュ元としてウディ・アレンの『マンハッタン』も挙げられているがこれも未見…しかも、ついこないだまでサブスクで配信されていたのにモタモタしている内に配信終了になってしまった。映像系のサブスクリクション・サービスでは毎月、夥しい量の映画が見放題の対象となり、入れ替わる様に大量の作品がリストから消えていく。貧乏性の私は配信終了になる前にできるだけの作品を観ておこうと常にチェックしているのだがとても追いつけるものではなく、こうやって大事な作品を見逃してしまう。配信スケジュールを確認し、消えていく作品の詳細を調べ観ておいた方がいいかどうか判断する…そんな事を毎日繰り返していれば、もう映画館に出かけている暇などない。果たしてこれば、豊かな文化的体験と言えるのだろうか。
そんな事はどうでもいい。いかにもフランス映画的な佇まいの本作はしかし、日系アメリカ人の作家エイドリアン・トミネのグラフィック・ノベルを原作としている。私は原作を未読なので、共同脚本として参加した『燃ゆる女の肖像』セリーヌ・シアマや『アヴァ』のレア・ミシウスがどの様な翻案を行ったのか引き比べる事ができない。しかし、これはやはり現代のフランスに相応しい物語だと思った。高層ビルと中華街が隣接するパリ13区を舞台に繰り広げられる、3人の女と1人の男による出会いと別れの物語は、性愛という行為を通じて、人種、性別、あるいはリアルとバーチャルといった境界を人々が乗り越え、新たな絆を結んでいく姿を描いている。ただ、この映画では性愛というものを肯定的に捉えているばかりではない。性愛とは本来、人と人を隔てる障壁を溶かし、肉体のみならず精神的な合一へと導いていく行為の筈だ。しかし、余りにも安直な「性」が溢れ返る現代において、私たちは性愛が持つ可能性を純粋に信じる事ができない。そうした私たちの失望や疑念を反映する様に、『パリ13区』で描かれる性愛は人々を結びつけるだけではなく、怒りや拒絶、支配欲といったネガティブな感情に裏打ちされたものだったりする。
では、私たちは複雑に絡み合った関係性の糸の中から、いかにして他人と結びつき、融合を果たしていけばいいのか。その時、性愛がもたらす効果とはどの様なものなのか。『預言者』でも『ディーバンの闘い』でもジャック・オーディアールは、凄惨な暴力を通過した果てに主人公が新たな連帯を見出すという物語を用意していた。他者との交わりの中でしか私たちは自分自身を見出す事ができない。その繋がりのあるべきかたちを探そうと、齢70を過ぎたジャック・オーディアールは精力的に新たな物語を生み出し続けている。

 

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パリのランデブー

パリのランデブー

  • クララ・ベラール
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モード家の一夜』は未見なので、同じエリック・ロメール作品のこちらを。偶然の出会いが人間関係を決定的に変質させてしまう悲喜劇を軽快なタッチで描く。

ジョセフ・コシンスキー『トップガン マーヴェリック』

トム・クルーズの顔にはアメリカ映画の歴史が皺として刻み込まれている

今は亡きトニー・スコット出世作トップガン』が公開されたのが1986年、何と36年ぶりの続編である。私でなくとも今さらそんなもん作ってどうするんだ?と思った方は多いだろう。前作に思い入れのある方ほど、不安を抱いたのではないか。しかし、案に相違して『トップガン マーヴェリック』は、よく出来た続編といった枠を超え、近年のハリウッド映画を代表する傑作に仕上がった。相変わらず、プロデューサーとしてのトム・クルーズの眼識の高さには恐れ入るが、今作の成功は『オブリビオン』でタッグを組んだジョセフ・コシンスキーに監督を任せた事が大きいのではないか。自身のグラフィックノベルを映画化した『オブビリオン』は、あまりにルックばかりを優先した結果、映画的な興趣に乏しく感心しなかったが、山火事の消火活動に奮闘する消防部隊の姿を描いた『オンリー・ザ・ブレイブ』では泥臭くも野暮ったい男たちのドラマを正面から描いていて、なかなかの出来栄えだった。どことなくヨーロッパ志向の感じられる監督だが、実はこの手のいなたいアメリカ映画の方が向いているのではないか…と思っていたところに『トップガン マーヴェリック』である。
トム・クルーズ主演のエンターテインメント映画からあか抜けなさや野暮ったさを感じ取るというのもおかしな話だが、結局この作品が観客に感動を与えたのは愚直とでも言うべき熱意なのではないか。はっきり言って、前作『トップガン』はお話としては大した事のない、というより内容なんて何も無い映画だった。この作品が多くの人々に受け入れられたのは、キメキメの映像にイカした音楽が重なるビデオ・クリップ風の作りがMTV全盛の時代にマッチしたからであって、社会的なテーマや感動的なドラマが用意されていた訳ではない。確かに、主人公マーヴェリックの親友グースの死が作品の中心に置かれ、その死に責任を感じる天才パイロットの苦悩が描かれてはいるものの、それはあくまで映画を成立させる為に用意された物語に過ぎなかった。まさか『トップガン』のストーリーに本気で感動した者がいたとも思えないが(いたらすいません)、『トップガン マーヴェリック』には本気で感動するのである。しかも、その相乗効果だろうか、前作についても「あれはあれでいい話だったのかも…」と思えてしまうから不思議だ。
では、その感動はどの様にしてもたらされているのか。それは続編の作り手達がトニー・スコットによる前作をひとつのテキストとして徹底的に読み込み参照するところから始めているからだ。『トップガン』の映像をフラッシュバック的に挿入しつつ、ジョセフ・コシンスキーは前作のエピソードや名シーンを新たな映像技術を駆使して変奏する。本作に出演しているほとんどの俳優たちは、『トップガン』が公開された1986年には生まれてもいなかった若者たちだ。しかし、過去に根差し、新たな物語を生み出そうとする作り手たちの歴史感覚によって、俳優たちは『トップガン』の世界を生きる者としてその存在をフィルムに定着させる。もちろん、その中心にいるのは36年もの歳月を刻み付けたトム・クルーズヴァル・キルマーだろう。苦み走った彼らの表情には、紆余曲折を辿りながら未だしぶとく生き延び、また生まれ変わろうとするアメリカ映画の強靭さが体現されている様に思う。

 

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トニー・スコット出世作であり、トム・クルーズを一躍スターダムに押し上げた大ヒット作。いかにも80年代的な軽薄さを感じる作品であるが、トニー・スコットはこの路線を押し進め、やがてとんでもない境地に辿り着くのであった。

樋口真嗣『シン・ウルトラマン』

全てが引用と模倣で組み立てられた批評無用の異様なリメイク

この作品、企画と脚本を務めた庵野秀明の名前ばかりが喧伝されているが、あくまで監督としてクレジットされているのは樋口真嗣である。『シン・ゴジラ』では庵野秀明が総監督と脚本を、樋口真嗣が監督と特技監督を受け持っていた。この製作体制の変化はいかなる理由によるものだろうか。庵野秀明はこの後、単独監督作『シン・仮面ライダー』の公開が控えているので、スケジュール的な問題なのかもしれない。しかし、樋口真嗣の監督した実写映画はすこぶる評判が悪い。だから本作の出来にも大いに不安を抱いていたのだが…
結論から言えば、まあこんなもんじゃないの、という感じである。『シン・ゴジラ』と同じく、一篇をポリティカルな寓話に見立てるという目論みはある程度成功しているのではないか。庵野秀明の手になる脚本は、原作のエピソードを繋ぎ合わせつつ長編映画として独自の物語を生み出していて、テレビシリーズの再編集として作られた劇場版『長篇怪獣映画ウルトラマン』的な作りである。ただ、なめショットやアップの多用など、演出そのものは円谷一よりも実相寺昭雄に近い。奇抜な構図やスタイリッシュな映像美など、実相寺作品が庵野秀明に与えた影響は大きいのではないかと思うが、まあそれはそれとして、異常に細かいカット割りと台詞の情報量の多さ、詰め込み過ぎの物語は『シン・ゴジラ』ゆずりで、このあたりに庵野&樋口コンビの作家性を見出す事も可能かもしれない。要するにそれは、オタクが自分の好きな映画やアニメについて語り始めると知らず知らず早口になるのと同じようなもので、自分の語りたい事、表現したい事が多すぎるが故に語り口が前のめりで性急になってしまう。子供っぽいと言えばこれほど子供っぽい作品もない訳だが、年代的にオタク第一世代に区分される彼らの無邪気さがこの「シン・ジャパン・ヒーローズ・ユニバース」連作に奇妙な高揚感を与えているのも事実である。
だからといって、この作品の高揚感に引っ張られて作品内容を真剣に考察したり、オリジナルと比較して酷評したりする事にあまり意味はない。本作は『シン・ゴジラ』以上に過去作品からの引用や模倣が盛り込まれ、ほとんどそれだけで作られていると言ってもいい、ハイコンテクストな作品だからだ。従って、長澤まさみ演じる浅見弘子が気合を入れる時に自分や他人のお尻を叩くシーンをポリコレ的な観点から批判しても「あれは安野モヨコの漫画『働きマン』のキャラクター設定を借りている訳で…」と反論されるだろうし、長澤まさみが巨大化するシーンをセクハラだと問題視しても「あれは1958年のSF映画『妖怪巨大女』から続く、巨大女ものへのオマージュで…」と弁解されて終わってしまう。何から何まで映画を構成する全てに作り手たちの意図が反映されているから、突っ込みどころを探しても徒労に終わるだけである。唯一、米津玄師の主題歌だけは笑ってもいいかもしれないが。

 

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予習がてらオリジナル版もチェックしたいけどTVシリーズを全て観る時間がない、という方は劇場公開された再編集版がおすすめ。