事件前夜

主に映画の感想を書いていきます。

セリーヌ・シアマ『燃ゆる女の肖像』

監督と女優の、画家とモデルの、そして映画と私たちの、幾重にも折り重なる視線のドラマ

セリーヌ・シアマ、というと27歳の時に撮ったデビュー作『水の中のつぼみ』が劇場公開されたものの、その後の監督作については日本ではなぜかソフト化もされていない。おそらく、フィルモグラフィの中で最も有名なのは、脚本で参加したストップモーション・アニメぼくの名前はズッキーニ』という事になるだろう。これはこれで感涙必至の傑作なのだが、本作『燃ゆる女の肖像』は、セリーヌ・シアマ監督の新たな代表作となるに違いない。それぐらいに素晴らしい映画である。
本作の舞台となる18世紀のフランスは「女性の時代」とも言われる。パリでは知識や教養のある女性たちの主催するサロンがさかんに行われ、そこで交わされる政治や社会的な意見は男性たちにも影響を与えたという(こうした女性たちによるグループをイギリスでは「Bluestocking Society」と呼んだ。日本の婦人運動に大きな貢献を果たした文芸雑誌「青鞜」はこの和訳)。そうした流れの中、肖像画のブームによって描き手の需要が高まっていた事も相まり、フランスでは女性の肖像画家が数多く誕生した。有名なのは、マリー・アントワネットの宮廷画家として活躍した、エリザベト・ヴィジェ・ルブランだろう。ただ、彼女の様に美術史に名を残した画家はほとんど存在せず、時代の流れと共に忘れ去られていった。
実際、男性中心的社会の中で女性画家が名声を得るのは容易い事ではなかったろう。先述のヴィジェにしても、フランス王立絵画彫刻アカデミーへの入会を当初は拒否され、マリー・アントワネットの力添えによってようやく実現したとされる(ヴィジェについては、本当は男性が彼女の絵を描いている、といった根も葉もない噂が流れた事もあるらしく、それを思わせるエピソードが本作の終盤にも用意されている)。だからこそ、当時の女性たちは身を引き裂かれる様な苦しみを味わったに違いない。学問や芸術の興隆によって知的好奇心や独立心を心の中で育ませながら、現実的には男性に従属して生きていかねばならない、という矛盾。『燃ゆる女の肖像』は架空の登場人物の姿を通し、当時を生きた女たちの苦悩や喜びを生々しく描いている。もちろん、それは現代の女性たちにも共有されている感情でもあろう。
ところで、マリー・アントワネットが当時としては異端だった女性の肖像画家をなぜそこまで重用したのか、その理由を推し量る事はできないが、しかし彼女は女性の眼を通して描かれる事で、初めて自分自身を獲得したのだと言える。夫であるルイ16世を始め、男性からの視線に晒され続ける事を運命付けられたフランス王妃にとって、エリザベト・ヴィジェ・ルブランの手になる肖像画は、鏡に映った姿よりも正確に己を表していると思えたに違いない。しかし、これは画家の方にも当てはまる事ではないか。ヴィジェは王妃の肖像画に反映させるかたちで自分自身を描いていたとも言えるからだ。つまり、画家とそのモデルによる「見る⇔見られる」という関係は交換可能なものなのである。
当然ながら、これは極めて映画的な主題である。私たちはスクリーン越しに俳優の姿を見ているが、逆に俳優たちはカメラを通してスクリーンを前に座る観客の姿を見ているとも言えるからだ。例えば、前述した『水の中のつぼみ』でも、シンクロナイズドスイミング選手であるフロリアーヌを観客席から見つめていた少女マリーが、物語が進むに従ってプールサイドから、プールの中から、といった風に徐々に距離を詰めていき、やがて同じベッドで眠る様になる、というかたちで、見る対象との距離の変化によって二人の少女が接近していく様を表していた。このフロリアーヌ役を務めていたのが、本作でエロイーズ役を演じるアデル・エネルである。しかし、『水の中のつぼみ』の彼女は、スポーツ選手として見られる事に徹しており、自分が一方で見る存在でもある事に意識的ではない。だからこそ、彼女はマリーの想いに気づく事ができず、自らのセクシャリティにも最後まで無自覚なままなのだ。つまり、他者からの視線(こんな風に見られている)の集積が自らを形作るのではなく、他者に送る視線(こんな風に見ている)にこそ、自らが宿っているのである。実際、『水の中のつぼみ』においては、フロリアーヌとマリーの会話場面で切り返しショットが使われる事はほとんど稀で、他者を真正面から見据える機会の少なさが二人の破局を招いたと言えるだろう。

それとは対称的に、基本的にはワンショットの息の長い映像で形作られながらも、会話場面では律義に切り返しショットが多用される『燃ゆる女の肖像』では、エロイーズは画家マリアンヌの視線を一身に浴びつつも、逆に視線を投げ返す事で自らの存在の輪郭を鮮明にしていく。ジェンダーの鎖を断ち切る事ができず、男性からの視線を欲した『水の中のつぼみ』のフロリアーヌとは異なり、エロイーズは既に男性からの視線が無くとも、その存在を世界に刻み付ける事ができる。本作において男性の存在が限りなく希薄なのは、既にこの世界では男性からの眼差しを必要としていないからである。
いささかゴシップめいた話だが、監督のセリーヌ・シアマとエロイーズ役のアデル・エネルは長らく続いていたパートナー関係を近頃解消した。本作の脚本はその別離の後、監督がアデル・エネルに新境地をひらいて欲しいとの想いからあて書きしたものだという。シアマはこう語っている。

 

「私は“ミューズ”という概念に終止符を打ちました。互いの創造性で新たな描き方をしています。私たちの現場にはミューズはいません。私たちはお互いに刺激を与える協力者という関係でした」

 

画家に創造的なインスピレーションを与える役割を課された、一方的に見られる存在としてのミューズ。セリーヌ・シアマはそうした関係性を棄却し、アデル・エネルが自らの視線を獲得する契機として本作を用意したと言えるだろう。あまりにも印象的なラストシーンで、マリアンヌの視線を横顔で受け止めながら決して見返そうとはしないエロイーズが、果たしてどこを見ているのか。それはセリーヌ・シアマですら蝕知する事のできない未知の世界であり、アデル・エネルが手に入れた可能性なのである。監督と女優の、画家とモデルの、そして映画と私たちの、幾重にも折り重なる視線のドラマとして『燃ゆる女の肖像』は複雑な輝きを放っている。

 

あわせて観るならこの作品

 

水の中のつぼみ [レンタル落ち]

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セリーヌ・シアマの監督デビュー作。主人公の少女マリーが意中のシンクロ選手に投げ掛ける視線に、監督の女優に対する眼差しが投影されているという見方もできるだろう。 

 

午後8時の訪問者(字幕版)

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  • 発売日: 2017/10/06
  • メディア: Prime Video
 

ついでに、以前に感想を書いたアデル・エネル主演作を。ここでも監視カメラを通して「見る⇔見られる」というモチーフが描かれている。監督は名匠ダルデンヌ兄弟。