事件前夜

主に映画の感想を書いていきます。

今泉力哉『窓辺にて』

過去と未来のあいだから、一歩だけ足を踏み出す事

ここ最近の今泉作品というとやはり『街の上で』が白眉だと思うのだが、若手俳優を揃えどちらかというとインディーズ映画的な佇まいだった同作に比べると、最新作『窓辺にて』は稲垣吾郎玉城ティナといった有名俳優を起用している事もあり、もう少しメジャー指向の作品に仕上がっている様に思う。ミニマルな演出法は相変わらずだが、プロット的には派手めな展開が用意され、登場人物の性格設定もいささかエキセントリックな趣がある。
とはいえ、いかにも今泉力哉らしい特異な作風は健在だ。世間では恋愛映画の名手と称される彼の作品はしかし、主人公をめぐる恋愛の成就がある種のサスペンス性を伴って語られる通常の恋愛映画とはまるで違う。今泉作品で中心的な主題となるのは、「恋愛」という事件が起きる前、あるいは終わった後の間延びした時間なのである。そこでは、何かが起きる予感と、何かが終わった余韻が反響しあう、「あいだ」の空間であり、そこで主人公たちはいくつもの予感と余韻に貫かれながら、一見すると取りとめのない会話をただ重ねていく。
その様な観点から本作を観てみよう。主人公の市川茂巳は妻で編集者の紗衣が担当の売れっ子作家、荒川円と浮気していると知りながら、その事を妻にも言い出せず、また怒りの感情すら抱かない自分に不信を覚えている。なぜ、自分は妻の不貞に対して怒れないのか。妻を愛していないという事なのか。自分には普通の人間なら持っている筈の感情が欠落しているのか。茂巳が己の不可解な内面を探求していく過程と、高校生作家の久保留亜に誘われるかたちで始まった小説「ラ・フランス」のモデル探しが重ね合わされていく、というのが本作のメインプロットである。
言ってしまえば、茂巳は自らの生について判断を保留し続ける事で何かと何かの「あいだ」に留まり続けようとする男なのだ。彼が紗衣の浮気を知りつつ何ら行動を起こさないのも、それが夫婦関係の終焉という決定的な事態を引き起こすからである。彼は昔の恋人をモデルにした小説集を出版した事があり、文壇ではそれなりの評価を受けたにもかかわらず、その一作きりで書くのをやめてしまった。劇中で彼自身の口から明かされる様に、書くという行為が対象を過去にしてしまう、というのがその理由である。紗衣との生活を題材に小説を書くと何かが終わってしまう。その不吉な予感を前に、茂巳はただ立ちすくんでいる。
紗衣が荒川と関係を持つようになったのも、おそらくはそのせいだろう。彼女は茂巳と一緒に過去と未来の「あいだ」に閉じこもる事を嫌った。それが決定的な終わりを招く事であったとしても、紗衣は誰かに書かれる事によって現在の自分に別れを告げ、新たな自分を呼び込まねばならない。その為に、彼女は荒川という作家を必要としたのだ。
市川茂巳という「書かない作家」の周辺に久保留亜と荒川円という「書き続ける作家」を配置した理由は明瞭である。現在の自分を過去へと送り出し新しい自分を迎え入れる事。ガラスコップを通した光の反射の様にかたちを変えていく自分を、そして他者を受け入れる事。書くという行為をめぐる三者三様の振る舞いが、過去と未来の「あいだ」で足をすくませる私たちの背中をそっと押してくれる。

 

あわせて観るならこの作品

 

以前に感想も書いたこの作品では、妻の不倫現場を目撃した俳優を物語の主人公に据え、彼が哀しみという感情を取り戻す過程を「生きる事」と「演じる事」を重ね合わせる事で描いていた。