事件前夜

主に映画の感想を書いていきます。

ジャック・オーディアール『パリ13区』

性愛を信じる事のできない私たちに必要なもの

ブログの更新をサボっている内に、観た映画の内容をどんどん忘れてしまう。そもそも、このブログは映画の感想を備忘録的に記述しておこうと始めたものなのに、これでは本末転倒である。
本作の内容もほとんど覚えていない…が、鑑賞後は非常に好ましい印象を抱いた様に思う。ジャック・オーディアール作品というと幾つかの作品をちょこちょこフォローしているぐらいだが、ノワールの形を借りて何か新しい物語を生み出そうとしている作家、という印象である。フィルモグラフィの中では『預言者』や『ディーバンの闘い』がいかにもフレンチ・ノワール的な雰囲気を湛えているのだが、そこで語られる物語はノワールという括りでは捉えきれない過剰さ(あるいは欠落?)を抱えていた。聴覚障害のOLが犯罪に巻き込まれる『リード・マイ・リップス』など、ノワールとして観ると異常な構成である。おそらくは、このいびつさがオーディアール作品の持ち味で、比較的オーソドックスな西部劇として撮られた前作『ゴールデン・リバー』はだから、彼の中でも例外的な作品なのだと思う。
伝統的なアメリカ映画を模した『ゴールデン・リバー』と打って変わり、本作『パリ13区』はフランス映画らしい、軽やかな群像劇に仕上がっている。孤独を抱えた男女がパリの街を彷徨い、やがてもたらされる偶然の出会いが彼らを傷つけ、また慰撫していく。めまぐるしく変化する人々の関係性を的確かに捉えていくその手際は、恋愛映画の名手エリック・ロメールを想起させ、本作は実際に『モード家の一夜』へオマージュを捧げているそうなのだが、私は未見なので判断がつかない。もう1作、オマージュ元としてウディ・アレンの『マンハッタン』も挙げられているがこれも未見…しかも、ついこないだまでサブスクで配信されていたのにモタモタしている内に配信終了になってしまった。映像系のサブスクリクション・サービスでは毎月、夥しい量の映画が見放題の対象となり、入れ替わる様に大量の作品がリストから消えていく。貧乏性の私は配信終了になる前にできるだけの作品を観ておこうと常にチェックしているのだがとても追いつけるものではなく、こうやって大事な作品を見逃してしまう。配信スケジュールを確認し、消えていく作品の詳細を調べ観ておいた方がいいかどうか判断する…そんな事を毎日繰り返していれば、もう映画館に出かけている暇などない。果たしてこれば、豊かな文化的体験と言えるのだろうか。
そんな事はどうでもいい。いかにもフランス映画的な佇まいの本作はしかし、日系アメリカ人の作家エイドリアン・トミネのグラフィック・ノベルを原作としている。私は原作を未読なので、共同脚本として参加した『燃ゆる女の肖像』セリーヌ・シアマや『アヴァ』のレア・ミシウスがどの様な翻案を行ったのか引き比べる事ができない。しかし、これはやはり現代のフランスに相応しい物語だと思った。高層ビルと中華街が隣接するパリ13区を舞台に繰り広げられる、3人の女と1人の男による出会いと別れの物語は、性愛という行為を通じて、人種、性別、あるいはリアルとバーチャルといった境界を人々が乗り越え、新たな絆を結んでいく姿を描いている。ただ、この映画では性愛というものを肯定的に捉えているばかりではない。性愛とは本来、人と人を隔てる障壁を溶かし、肉体のみならず精神的な合一へと導いていく行為の筈だ。しかし、余りにも安直な「性」が溢れ返る現代において、私たちは性愛が持つ可能性を純粋に信じる事ができない。そうした私たちの失望や疑念を反映する様に、『パリ13区』で描かれる性愛は人々を結びつけるだけではなく、怒りや拒絶、支配欲といったネガティブな感情に裏打ちされたものだったりする。
では、私たちは複雑に絡み合った関係性の糸の中から、いかにして他人と結びつき、融合を果たしていけばいいのか。その時、性愛がもたらす効果とはどの様なものなのか。『預言者』でも『ディーバンの闘い』でもジャック・オーディアールは、凄惨な暴力を通過した果てに主人公が新たな連帯を見出すという物語を用意していた。他者との交わりの中でしか私たちは自分自身を見出す事ができない。その繋がりのあるべきかたちを探そうと、齢70を過ぎたジャック・オーディアールは精力的に新たな物語を生み出し続けている。

 

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モード家の一夜』は未見なので、同じエリック・ロメール作品のこちらを。偶然の出会いが人間関係を決定的に変質させてしまう悲喜劇を軽快なタッチで描く。