事件前夜

主に映画の感想を書いていきます。

デヴィッド・ゴードン・グリーン『ハロウィン KILLS』

なぜブギーマンは何度も甦り、ハロウィンの悲劇は繰り返されるのか

ジョン・カーペンターによる1978年のホラー・クラシック『ハロウィン』の40年後を舞台にした2018年版『ハロウィン』は、全米公開初週で7600万ドル以上の興行収入を稼ぐヒットとなった。その結果、監督のデヴィッド・ゴードン・グリーンが希望していた3部作構想についてもGOサインが出て、この続編『ハロウィン KILLS』の公開とあいなった訳だ。1作目の成功により、制作陣には創作上のより大きな自由が与えられたという。ジェイミー・リー・カーティス演じるローリー・ストロードだけでなく、リンジー・ウォレス、マリオン・チェンバース、ブラケット保安官など、1978年版に登場したオリジナルキャラクターが再集結する、という今作の趣向は、製作陣のファン心理が反映されたものに違いない。更に言えば、今作は2018年版『ハロウィン』で描かれた事件の直後から始まるが、これは1981年に作られた『ハロウィンⅡ』に倣ったものだろう。
『ハロウィンⅡ』も1作目の直後、ブギーマンを撃退したローリーが病院に搬送されたところから物語が始まっていた。ローリーが病院のベッドで眠っている間に、ブギーマンが病院関係者をブチ殺しまくるという、前作とは趣向の異なる展開が見どころで、最後には驚愕の真相が明かされる。『ハロウィン KILLS』でも、前作で大怪我を負ったローリーが病院に収容され、その間にブギーマンが大暴れする、という基本的なプロットは変わらない。しかし、最終的にはローリーとブギーマンの一騎打ちへと収束していく『ハロウィンⅡ』とは異なり、今作ではブギーマンの復活によってパニック状態に陥るハドンフィールドの町そのものにスポットが当てられ、変則的なディザスター・ムービーへと舵を切っていく。
ハドンフィールドの住人たちは自らの身を守る為に自警団を組織し、ブギーマンの捜索を始めるものの、次々と住人が殺されていくのを目の当たりにし冷静さを失っていく。疑心暗鬼に駆られた彼らは、やがて無関係な男をブギーマンと決めつけなぶり殺すに至るのだが、ここにはもはや、鬼畜の如き殺人鬼と恐怖に怯える善良な人々、という構図が成立しない。猜疑心に駆られた人々の恐怖が伝播し、新たな恐怖が生み出され、憎しみだけが増幅していく。それはジョン・カーペンターが『遊星からの物体X』や『ゼイリブ』で描いたアメリカ社会の縮図でもあるだろう。
リブート版1作目は、オリジナル版の空気感を現代に蘇らせる事に成功していたが、それに続く2作目では、トランプ政権と新型コロナウイルスが浮き彫りにしたアメリカ社会の抱える闇をスラッシャー・ホラーのプロットに落とし込み、なぜホラー映画は作られるのか、なぜホラー映画のモンスターは何度でも甦るのか、と問いかける自己言及的な作品に仕上がった。正直言うと、眼高手低というか独自の色を出そうとした途端にデヴィッド・ゴードン・グリーンの演出の弱さが浮き彫りとなり、散漫な印象の残る作品となってしまったが、ホラー映画のマスターピースから新たな物語を紡ぎ出そうというその心意気は買う。3部作の掉尾を飾る『Halloween Ends』がどの様な展開を見せるか、期待して待ちたい。

 

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前作の直後から幕を開ける、正当続編。監督をリック・ローゼンタールに任せてはいるものの、カーペンター自身が脚本を手掛けただけあって、なかなかの完成度。

クォン・オスン『殺人鬼から逃げる夜』

殺人鬼に追われる主人公の孤独は、聴覚障害者に対する社会的無関心と繋がっている

日本でも吉岡里帆主演でリメイクされた韓国映画『ブラインド』は交通事故で視力を失った主人公がサイコキラーに狙われるスリラーだったが、本作の主人公ギョンミは聴覚と発話に先天的な障害があり、同じ様にサイコキラーに追われる事になる。そこで思うのが、もし殺人鬼に襲われたら眼が見えないのと耳が聞こえないのと、どっちの方が大変なんだろう、という事だ。馬鹿みたいな事を訊くな、と怒られそうだが、要するに視覚障害者と聴覚障害者の抱える困難こそが、映画としてはむしろサスペンス性を高める利点となる。そこがきっちり描かれていないと単なる企画倒れに終わってしまうだろう。
『ブラインド』の主人公スアは眼が見えないという絶対的なハンディを負っている。例えば、殺人鬼がすぐ隣に立っていても彼女は気づかないのだ。その代わり、彼女は音やにおい、振動に対しては非常に敏感で、視覚以外の全ての感覚を研ぎ澄ませて襲い来る殺人鬼と対峙する。映画ではスアの感じる世界を映像として表現する為、画面が暗転し音だけが聞こえる、といったショットがしばしば挿入され、スアがにおいや振動によって人や物の存在を検知した時は、暗闇の中にぼやっとした白いシルエットが浮かび上がる、という処理がなされていた。映画とは本来「見る」ものなので、「見えない」事を表現するのは難しい。それを逆説的に視覚化している訳だ。その他にも、点字ブロックの上を介助犬に引かれて逃げるチェイスシーンなど、主人公の特性を活かした工夫もふんだんに盛り込まれており、なかなかに秀逸な作品だった。
それでは、本作はどうだろう。映画において「聞こえない」事を表現するのは簡単でその場面だけ無音にしてしまえばいい。サイレント映画を例に挙げるまでもなく、基本的に映画とは無音でも成立してしまうものなのである。逆に言えば、「聞こえない」という主人公の困難を、映画というメディアは引き受ける事ができない。本作が聴覚障害者の抱える困難をスリラーの演出に活かそうとあの手この手を使いつつ、結局は主人公ギョンミと殺人鬼ドシクの単なる追いかけっこに帰着してしまったのはそのせいだろう。例えば、ギョンミの家にドシクが忍び込む場面など、真後ろに殺人鬼が立っているのにギョンミがその存在に気づかない、という描写は聴覚障害という設定を活かしている様に見えて、実は『ブラインド』と何も変わらない。鉄扉の錠を外そうと苦闘するギョンミが、その行為によってどれだけ大きな音を立てているかが分からず、逆に自分の居所をドシクに教えてしまう、という序盤のシーンなどは、聴覚障害という主人公の特性を上手く活かしていたのに、こうした場面がほとんど無かったのは残念である。
従って、本作のサスペンスはギョンミが「聞こえない」事よりも「喋れない」事に多くを負っている。彼女は普段、手話という方法を用いて意思伝達を行う。コミュニケーションを成立させる為には送り手と受け手、両方にある程度のスキルが求められるのはいかなる言語も同じだが、危機的な状況下で都合よく手話の理解できる人物が現れる筈もない。狡知に長けたドシクの策略にはまり、ギョンミは身の危険を周囲に伝える事もかなわず、怯えながら夜の町をただ逃げ回るしかないのだ。ギョンミが陥ったこの絶望的な状況が、聴覚障害者に対する社会の無理解から生まれている事は明らかである。本作の欠点として、警察のあまりの無能ぶりがご都合主義的過ぎる、という点を挙げる人は多いだろう。私も概ね同意するが、そこには私たちの社会でいつの間にか疎外されていた人々の絶望を描きたい、という作り手の意図があった筈だ。
監督のクォン・オスンは本作の企画が生まれたきっかけについて、大声で話す人々に囲まれて静かに手話で会話する2人の聴覚障害者をカフェで見かけ、その姿に言いようのない孤独を感じたからだ、と語っている。このカフェの障害者の姿がそのまま反映されたのが、映画冒頭の飲み会の場面である事は間違いないだろう。デリカシーのかけらも無い下品なおっさんに心ない言葉を浴びせられても、ギョンミはただ笑っている事しかできない。彼らが何を言っているかギョンミには分からず、相手も何を言っても分からないと高をくくっている。その不毛なやりとりの中でも、聞こえない言葉に込められた悪意だけははっきりとギョンミに伝わり、それが彼女をより孤独な立場へと追い詰めていく。
だからこそ、ギョンミはせめてもの抵抗として、愛想笑いを浮かべながら、おっさんどもに手話で罵詈雑言を浴びせかけるのだ。その怒りはやがて、女たちを欲望のままに殺めていくドシクへと向けられる。暴力に蹂躙された弱き者たちの静かな怒りを込めて、ギョンミの手は辛辣なメッセージを描いていく。

 

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斬新な設定と堅実な演出で大ヒットとなり、中国と日本でリメイクされたシチュエーション・スリラーの佳作。「見えない」事を「見える」化する様々な工夫が凝らされている。

首藤凜『ひらいて』

強引に扉をこじ開けて入り込んでくる誰かを、私たちは時に必要としている

綿矢りさの小説はデビュー作の『インストール』ぐらいしか読んでおらず、その映画版はいかにもTVマンが演出したといった感じのノリが鼻について楽しめなかったのだが、大九明子が監督した『勝手にふるえてろ』『わたしをくいとめて』は大変面白かった。『ひらいて』は綿矢りさの小説としては4回目の映画化となるが、いずれの作品も肥大した自意識に飲み込まれそうになっている女性が、傍からは異常としか思えない行為にのめり込んでいき、その過程で他者あるいは社会と折り合いを付ける術を学んでいく物語と要約できる。となれば、小説でも映画でも主人公の「いびつさ」が物語のフックになる訳で、それをいかに読者や観客に共感してもらえる様に表現するかが作家の腕の見せどころと言えるだろう。綿矢りさが多くの読者を獲得したのも、その点に長けていたからだろうし、映画版『わたしをくいとめて』のキャッチコピーが「わかりみが深すぎる!」だった事からも分かるとおり、大九明子もまた主人公の「いびつさ」に観客が共感して貰える様に様々な工夫を凝らしていた。
綿矢りさによる原作は一人称小説である。一人称の場合、「語り手=私」となるので、地の文で容易に主人公の内面に分け入る事ができる。主人公がどれだけエキセントリックに振る舞おうと、それがいかなる理由によるのかをロジカル(あくまで主人公なりに筋が通っている、というだけだが)に説明できる訳だ。それに対し、映画は小説で言うところの三人称となる。POV方式の映画ならともなく、カメラが写す映像はあくまで客観描写であり、であるが故に主人公の内面に深く立ち入る事は難しい。なぜなら、心情や感情というものは眼に見えないからだ。映像は、不可視の対象に対してあくまで無力である。だからこそ、多くの映画監督たちは演者の表情や仕草など、細やかな描写を積み重ねる事によって、不可視である筈の心理を観客に伝えてきたのであり、それこそが映画における演出というものなのだが、よくつまらない邦画で、登場人物が思っている事を何でもかんでも言葉にして喋る、みたいなのがあるでしょう。演出の下手な監督に限って、全てを台詞で説明したがり、そのせいで映画から躍動感が失われてしまうのだ。
だから、過剰な自分語りを止めようとしない『勝手にふるえてろ』の良香や『わたしをくいとめて』のみつ子は、映画にとってすこぶる都合のいい存在だった。愛情も憎悪も希望も絶望も怒りも哀しみも全部ひっくるめて台詞として表現する彼女たちは、その自己分析が徹底しているが故に逆に異常な印象を残す。過剰な語りが対話(ダイアローグ)ではなく独白(モノローグ)として発せられる点も、彼女たちの「いびつさ」を浮き上がらせるだろう。こんな風に何もかも言葉で説明してしまうと、普通なら書き割りじみた平板なキャラクターになってしまうのを、大九明子は主人公の「いびつさ」を表現する手段として逆利用し、キャラクターにはっきりとした輪郭を与えている。男子だろうが女子だろうが、この手のこじらせ系は何か行動を起こす前にあれこれと理屈をこねて頭の中でシミュレーションを繰り返し、いざ本番で予期せぬ事態が起こるとパニックに陥る、というのが常だから、彼女たちの自分語りが饒舌になればなるほど、現実との落差が浮き立ち、コメディとしての面白さが増していく仕掛けになっていた。
ところが、『ひらいて』の主人公、木村愛は良香やみつ子の様な自己をめぐる饒舌さとは無縁である。彼女を印象付けるのは他人が自分の内面を覗く事を頑として拒否する様な不愛想さと寡黙さだからだ。愛はクラスメイトの西村たとえに恋心を抱きながら、自分の気持ちを伝えられずにいる。その意味では、良香やみつ子と同じ境遇に立っているとも言えるが、彼女は脳内で妄想を膨らませたり、シミュレーションを繰り返したりする代わりに、不可解なほどに突発的な衝動に身を委ねてしまう。
西村たとえは新藤美雪という同級生と交際を続けており、たとえの大学進学に合わせて二人で上京しよう、と将来を約束していた。周囲には隠したまま交際を続ける二人にとって、校内で取れる唯一のコミュニケーションは美雪がたとえの机の中に忍ばせる手紙だけが、愛がたまたまその手紙を見つけてしまった時から、事態は急転していく。たとえに自らの好意を告白する傍ら、美雪と同性愛的な関係を結ぶ愛の行動に、私たちは戸惑うしかない。確かに、その一貫性の無い行動こそが、綿矢作品ではおなじみの「いびつさ」の証ではあるだろう。しかし、『インストール』や『勝手にふるえてろ』『わたしをくいとめて』といった作品とは異なり、本作はその「いびつさ」がいかなるロジックによるものなのか劇中では説明されないので、最後まで主人公に全く共感できない人もいるかもしれない。監督の首藤凜が「愛って特殊な時期の狭い層にしか響かないキャラクターなのかもしれない」とインタビューで答えているのも、それを指しているのだろう。
人によって本作の受け取り方は様々だと思うが、私はこの木村愛という少女を衝き動かしているのは、「自分が他人にとって何の意味もない事」への怒りなのではないか、と思う。本作は、西村たとえと新藤美雪の純愛物語としても捉える事ができ、その観点からすると愛は全くの脇役、というかその他大勢のクラスメイトにしか過ぎない。はっきり言ってしまえば、たとえと美雪の物語にとって、木村愛という存在は本来不要だった筈である。しかし、愛はその支離滅裂としか思えない行為によって、たとえと美雪の間に分け入り、強引に居場所を確保しようとする。愛がたとえに対し「好きになってくれないなら嫌われた方がいい」と訴えるのも、恋人たちの物語に自分の存在を刻みつけようとする欲望の表れだ。かくして、静かに愛を育んでいた、たとえと美雪の関係性は木村愛という存在によって決定的に変質してしまう。
結果的に、たとえと美雪の物語の中で愛がどの様な役割を果たしたのかは様々な解釈が可能だろう。二人の仲を引き裂こうとした敵役と考える事もできるし、この奇妙な三角関係に友情を見出す事も可能である。いずれにせよ、たとえと美雪の紡ぐ物語において愛は重要な位置を占める事となった。『インストール』『勝手にふるえてろ』『わたしをくいとめて』を、主人公が他者を受け入れていく物語だったと解釈するなら、『ひらいて』は閉じた関係性を強引に押し開く他者の暴力性を、一人の少女の姿を通して描いたのだとも言える。それはいかにもはた迷惑な話ではあるが、一概に悪い事だとは言い切れない。強引に扉をこじ開けて家に入り込んでくる他者を、私たちの人生は時に必要とするからだ。

 

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綿矢りさ作品、女子高生が主人公という意味では本作が最も近いと思うのだが、登校拒否中の女子高生が小学生とエロチャットのバイトを始める、という原作のプロットを額面通りに受け取っている為か、ものすごく下品な演出になっている。男性監督に綿矢作品は難しいのかもしれない。

ニア・ダコスタ『キャンディマン』

キャンディマンはアメリカの負の歴史が産み落としたアンチ・ヒーローなのだ

ここ最近、80年代から90年代にかけてのホラー映画のリメイク、リブート作品が続いているが、いよいよ『キャンディマン』ときた。クライヴ・バーカーが製作総指揮を務めた1992年のオリジナル版は当時としては珍しい都市伝説をモチーフにしたホラーで、右手に鉤爪を取り付けた殺人鬼、キャンディマンの異様なキャラクターが人気を博した。1995年に公開された3作目があまりにヒドい出来だった為、以降はシリーズが途絶えていたのだが…
その『キャンディマン』を現代に蘇らせたのは、伝説のTVシリーズトワイライト・ゾーン』のリブートも手掛けたジョーダン・ピール。今回は監督を俊英ニア・ダコスタに任せ、自身は製作総指揮と共同脚本を担当している。「ジョーダン・ピールが関わってるって事は、どうせまた黒人差別がどうとか説教臭い話なんじゃないの?」と思う向きもあるだろうし、まあ実際その通りなのだが、しかし、実はオリジナル版にも人種問題や黒人奴隷の歴史は描かれていたのである。物語の舞台となるカブリニ・グリーン・ホームズはシカゴに実在した公営住宅で、1950年から1960年にかけて23棟3,000戸のアパートが建設された。シカゴ住宅局の福祉政策の目玉として進められたこの公営住宅群は、老朽化が進むにつれ貧困層の住むゲットーと化してしまう。オリジナル版の主人公ヘレン・ライルは、キャンディマンの伝説を調査する為にカブリニ・グリーンを訪れるのだが、それらのシーンでは荒廃したアパートやそこに住む貧困黒人層の姿がはっきりと映し出されていた。都市伝説の伝搬は民俗学社会学の研究対象となるが、1992年版『キャンディマン』はアメリカの負の歴史を反映させたホラー映画だったのである。
膨れ上がる管理コストと頻発する犯罪に手を焼いたシカゴ住宅局は、1995年から住民の立ち退きと建物の取り壊しを進め、2011年には全てのアパートが取り壊された。かつて公営住宅の存在したカブリニ・グリーン地区はダウンタウンが近い事もあって再開発が進み、現在では高層ビルや商業施設が立ち並ぶ一等地となっている。オリジナル版が公開されてから30年という月日が流れ、シカゴという街も、そこに住む黒人たちの暮らしも大きく変わった。その変化を、ジョーダン・ピールは本作でどの様に描いているだろうか。
主人公アンソニーは、カブリニ・グリーン地区に建てられた高級コンドミニアムに恋人ブリアンナと同棲している。彼はヴィジュアルアーティストとして成功する事を夢見ており、アートキュレーターとして活動するブリアンナも、彼の才能を信じて陰になり日向になりサポートに努めていた。この設定から分かるとおり、彼らはもはやオリジナル版でのカブリニ・グリーン・ホームズの住人とは異なり、シカゴで豊かな生活を送り、更なる成功を目指すミドルクラスに属しているのだ。本作で描かれる彼らの日常は、カブリニ・グリーンから最後のアパートが消えてから10年が経過し、シカゴに住む黒人たちの生活が向上した事実を指し示す。オリジナル版はグラフィティ・アートをホラー映画のギミックとして利用した珍しい例だったが、今や黒人たちのストリート・カルチャーはメイン・ストリームとなり、ガーナ系移民の子であるヴァージル・アブローがルイ・ヴィトンのクリエイティブ・ディレクターに就任する時代である。荒廃したアパートの壁面にスプレーで描いた落書きが美術品として認知され、批評の対象となっていく。アンソニーは、アート業界で十分な評価を受けているとは言い難いが、それでも自分が成功を目指す事を許された存在である事は疑ってもいない。
アンソニーは、展覧会に出品する新作の為に、カブリニ・グリーン地区の歴史を調べ始める。やがて、ヘレン・ライルという女性の名が浮かび上がり、キャンディマンという鉤爪の男をめぐる不吉な噂に彼はのめりこんでいく。ヘレン・ライルは都市伝説をめぐるフィールドワークの過程でキャンディマンに憑りつかれ焼死した。ヘレン自身がカブリニ・グリーンに伝わる新たな伝説となった事が、オリジナル版のラストでは示唆されていたが、リメイク版はまさに都市伝説というかたちでオリジナル版のストーリーを丸々取り込んでいる訳だ。
アンソニーが冗談半分に鏡に向かって「キャンディマン」と5回唱えた時から、周囲で異常な殺人が起き始め、やがて彼自身の肉体と精神も変調を来していく。直接的なゴア描写は少なめだが、鏡を利用したニア・ダコスタの演出はスタイリッシュで、要所ではホラー映画の勘所をきっちりと抑えている。特にハイスクールのトイレで展開するケレン味たっぷりの殺戮シーンは本作の白眉だろう。この黒人女性監督は『キャプテン・マーベル』の次回作に抜擢されたとの事、私は『キャプテン・マーベル』については、全く面白いと思えなかったが、これはかなり期待できそうだ。
ホラー映画としても水準以上の出来の本作だが、何よりも最大の特徴はオリジナル版でも描かれていた人種差別についての問題意識を拡張し、BLM運動以降のホラー映画としてアップデートしてみせた点にある。キャンディマンの出自そのものはオリジナル版でも描かれていたエピソードだが、ジョーダン・ピールはそこにアメリカ社会が目を逸らし続けてきた闇、白人たちによる黒人虐殺の歴史を重ね合わせてみせる。これはHBOで製作された連続ドラマ『ラヴクラフトカントリー 恐怖の旅路』と同様の手法で、シカゴ出身の黒人少年エメット・テイルのリンチ事件が今作でも紹介されていた(劇中でアンソニーが描く不気味な肖像画は、リサ・ウィンテントンの2012年の作品「母が息子を送り出した時と出迎えた時」にインスパイされたものか)。エメット・テイル事件はアメリカで公民権運動が勃発するきっかけとなった虐殺事件だが、こうしたアメリカの負の歴史が終わった訳でない事は、誰もが知るところだろう。確かにブラック・カルチャーは市民権を得て、裕福な暮らしを営む黒人たちは増えたのかもしれない。しかし、黒人たちに対する差別や偏見は未だにアメリカ社会の底流をなし、それがいつ陰惨な暴力を伴って噴出するかも知れないのである。アンソニーを狂気へと駆り立てた焦燥感はスランプに陥ったアーティストなら誰もが抱くものだろう。しかし、その裏側には自分の暮らしや生命が、いつ奪われるか分からない、という黒人たちの根源的な不安が根を張っている。私たちの世界は何も変わっていないし、何も終わっていないのだ。

 

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モダン・ホラーの雄として様々なジャンルで活躍したクライヴ・バーカー制作の都市伝説ホラー。オリジナル版には人種差別の他、アカデミズムにおける女性差別まで描かれていた。なかなかに先進的な作品だったのだ。

ドゥニ・ヴィルヌーヴ『DUNE/デューン 砂の惑星』

ドゥニ・ヴィルヌーヴの作りだすビジュアルには枯淡とでも言うべき味わいがある

まさか、今頃になって『デューン』の再映画化が果たされるとは…人間、長生きはするものだ。アレハンドロ・ホドロフスキーによる映画化企画が頓挫し、デヴィッド・リンチが監督を務めた1984年版も散々な出来に終わった事で、フランク・ハーバートによる大河SF小説デューン』は、ハリウッドにとって呪われた作品となった。その意味で、『ブレードランナー』の続編を作るという、そもそも企画した奴の頭がおかしいとしか思えない無茶ぶりを、曲がりなりにも形にしたドゥニ・ヴィルヌーヴぐらいしか本作の監督は務まらなかっただろう。
これまで『デューン』の映画化が上手くいかなかったのは、あまりにも長大かつ壮大な原作の物語を1本の映画のシナリオにまとめきれなかった、という点に尽きる。ホドロフスキーの構想では上映時間が10時間にも及んだと言うし、デヴィッド・リンチ版もラフカットでは4時間あったものを強引に2時間に編集して公開された為に何だかよく分からないストーリーと、グロテスクな映像が延々と続く代物となり、興行的にも大コケする事になった。『ロード・オブ・ザ・リング』など、最近は長大な原作を映画化するにあたって最初から分作を前提にして制作される事も多くなったが、それだって1作目がコケれば計画の変更を余儀なくされる訳で、映画というのは基本的に長い物語を描くのに不向きなジャンルなのである。だから、今『デューン』を映像化するなら、サブスクリプション・サービスの連続ドラマとして作った方が良いのではないかと思うのだが、ハリウッドはまだあきらめてなかった訳だ。幸い、二部作を予定していたドゥニ・ヴィルヌーヴ版も、この1作目がヒットした事で無事に続編の製作が決定したらしい。
私は、デヴィッド・リンチ監督版を以前に観ているが、内容についてはすっかり忘れていたので、比較をする為この機会に見直してみた。分作を前提としたヴィルヌーヴ版と137分に原作小説のストーリーを全て詰め込んだリンチ版では、当然、後者の方が駆け足の展開になる筈だ。実際、ヴィルヌーヴ版が155分使って語った物語を、リンチ版は90分ぐらいで片づけているのだが、そのパートについて言えば、ほとんど同じ内容である。両監督の演出技法の違いから155分と90分という時間の差が生まれているが、別にリンチ版がエピソードをはしょっている訳ではない。だから、リンチ版が駆け足になるのはその後なのである。何しろドゥニ・ヴィルヌーヴがもう1本映画が作れると考えている内容を、デヴィッド・リンチは残りの40分ぐらいで済ませてしまうのだ。従って、リンチ版は終盤から異常なスピードでエピソードが消化されていく事になる。もちろん、これはデヴィッド・リンチに最終編集権が無く、4時間分のフィルムを2時間まで切り詰められた事も原因なのだろう。ただ、このちぐはぐなペース配分が映画に妙な魅力を与えているのも確かだ。
ドゥニ・ヴィルヌーヴは、リンチ版の様な性急さとは無縁である。彼は終始、スタティックな空間に登場人物を点景の如く配置し、厳かで緩やかな時間の流れを隅々までいき渡らせていく。サイケデリックでカオスな造形を指向したホドロフスキー、グロテスクでフリーキーなデザインに淫するリンチと異なり、ヴィルヌーヴの作り出すビジュアルには寂寞とした侘しさがあり、それは『複製された男』や『メッセージ』といった過去作でも大いに発揮されていたが、本作の舞台である砂漠の風景は『ブレードランナー2049』の後半で主人公が訪れる、廃墟となったラスベガスを彷彿とさせる。時間の移り変わりによって様々に表情を変える砂漠の風景の美しさが、本作の見どころとなっている事は間違いない。そこには枯淡とでも言うべき美学が感じられる筈だ。
身も蓋もない言い方をしてしまえば、アレハンドロ・ホドロフスキーデヴィッド・リンチドゥニ・ヴィルヌーヴも、奇を衒った映像でハッタリをかますのが得意な作家である。それでも作り手の資質によってここまで印象の異なった映画になる、というのは映画という総合芸術の幅の広さを窺えて面白い。例えば、敵役であるウラディーミル・ハルコンネン男爵が反重力装置によって宙に浮かび上がるシーンなどをとっても、ヴィルヌーヴ版とリンチ版ではテイストが全く違う。スタイリッシュな空間設計と独特の間を追及するヴィルヌーヴに対し、リンチの演出はいかにもB級映画風の、キッチュな出鱈目さを前面に押し出している。先ほど書いた様に、ヴィルヌーヴ版とリンチ版ではメインとなるストーリーがほぼ同じなので、両者の作風の違いを見比べるには最適だろう。ホドロフスキー監督版が企画され、挫折する過程を追ったドキュメンタリー『ホドロフスキーのDUNE』と合わせてご覧頂く事をお勧めしたい。

 

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ホドロフスキーを始め、絵コンテを担当したメビウス、キャラクターデザインを手がけたH・R・ギーガー、特殊効果を担当するダン・オバノンなどのインタビューで構成されるドキュメンタリー。この作品が完成していれば、現在のSF映画史は書き代わっていただろう、と思わせてくれる。

 

デューン (字幕版)

デューン (字幕版)

  • カイル・マクマクラン
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上映時間を半分に削った為に生じた説明不足を補う為だろう、この映画はとにかく台詞が多い。ナレーションやモノローグがバンバン挿入され何でもかんでも説明してくれるので、些か話の流れが掴みづらいヴィルヌーヴ版のサブテキストとしても最適。

 

リドリー・スコット『最後の決闘裁判』

真実を「藪の中」から引きずり出せ

83歳になっても相変わらず旺盛な創作意欲を見せるリドリー・スコットの新作は、百年戦争に揺れる14世紀のフランスを舞台に実際に行われた決闘裁判の顛末を描いた、いわゆるコスチューム・プレイものである。当時のフランスでも既に決闘は禁じられていたが、刑事事件においては貴族の男性に限り、相手に決闘裁判を申し込む権利が認められていたという。戦争が長引き、黒死病が猛威をふるっていた当時、神の名の下、真実を賭けて男たちが殺し合う決闘裁判は一世一代の見物でもあったろう。決闘当日の人々の興奮と熱狂は本作の冒頭でも描かれている。
そもそもの発端は1386年、騎士ジャンの妻マルグリットが、夫の旧友ル・グリに強姦されたと法廷に訴え出たところから始まる。当時の法典でも強姦は重罪であり、極刑に値する罪だった。しかし、性犯罪の被害者が法に訴えても、その主張が認められる事が難しいのは昔も今も変わらない。裁判では性行為を強要されたとする原告と合意に基づくものだったとする被告の言い分が真っ向から対立し、真実の行方を決闘裁判に委ねざるを得なくなる。決闘裁判では勝者の主張が真実と認められ、敗者は絞首台へ送られ有罪を宣告される(もちろん、決闘に負けた時点で死んでいる訳だが)。原告が負けた場合は、訴えそのものが虚偽であったと判断され、その罰として妻のマルグリットすら火あぶりの刑に処せられるのだ。
しかしながら、本作はこの決闘の行方にスポットを当てた、いわゆる歴史活劇ではない。もちろん、『グラディエーター』のリドリー・スコットらしい迫力のあるアクション描写は盛り込まれているものの、決闘場面は映画の冒頭と最終盤だけに限られ、大半は先述した強姦事件の顛末が語られていく。その語り口こそが本作最大の特徴で、ジャン(被害者の夫)、ル・グリ(容疑者)、マルグリット(被害者)の順に視点をリレーし、ひとつの事件を語り直していく構成になっているのだ。誰もが指摘する通り、この一風変わった手法は黒澤明の『羅生門』をあからさまに意識したものだが、しかし、本作と『羅生門』では決定的に異なる点がある。
ある殺人事件をめぐって、犯人と被害者夫婦が順繰りに検非違使の前で証言していく『羅生門』の面白さのひとつは、事件の構図が証言によって次々と様変わりしていく点にある。原作となった芥川龍之介の短篇小説「藪の中」は、その意味でアントニー・バークリーの『毒入りチョコレート事件』に先んじた「多重解決ミステリー」の嚆矢とも評されているのだが、しかし映画の冒頭で志村喬が「わからねえ、さっぱりわからねえ」と呟いていたとおり、『羅生門』ではミステリーの様に名探偵が登場し絶対的な真実を示してくれる訳ではない。むしろ強調されているのは現実というのものの不確かさなのだ。事件を語る人々が何を暴き、何を隠したか。それぞれの証言は人が心に隠し持つ愛憎や欲望を反映し、それを受けて現実は可塑的に変化していく。「藪の中」のプロットをなぞりながら、映画『羅生門』は芥川龍之介の同題小説が描いた人間のエゴイズムというテーマに辿り着くのである。
翻って、『最後の決闘裁判』はどうだろうか。確かに、本作も『羅生門』と同じ三幕構成を有し、それぞれに「ジャン・ド・カルージュの真実」「ジャック・ル・グリの真実」「マルグリット・ド・カルージュの真実」という標題が付されてもいる。「ジャン・ド・カルージュの真実」と「ジャック・ル・グリの真実」では、古くからの友人であるジャンとル・グリが互いをどう思っていたのかが併記され、またマルグリットに対するそれぞれの心情も描かれ、その食い違いが『羅生門』的なテーマを想起させもするのだが、しかし、三幕の最後を飾る「マルグリット・ド・カルージュの真実」の標題のすぐ後に「真実」という言葉が浮き上がる事からも分かるとおり、ひとつの事象を三つの立場から繰り返し語る事で事実を相対化し、真相を「藪の中」へと追いやる『羅生門』に対して、『最後の決闘裁判』はあくまでマルグリットの視点から語られる物語こそが唯一絶対の真実であると主張するのだ。
ジャンにとってこの決闘は、自らの「資産」である妻が他人に奪われた事への報復であり、騎士としての誇りを取り戻す闘いであった。逆にル・グリにとっては事件がマルグリットが主張する様な強姦などではなく、あくまで「不幸な恋愛」に過ぎなかった事を証明する手段である。原告と被告、立場は異なれどここに共通しているのは性的暴行を受けたマルグリット当人の視点が完全に欠けている事だ。この一方的な態度は『羅生門』の金沢武弘と多襄丸にも共有されていたが、多襄丸に犯された真砂の中に悪女的な加害者性を見出した『羅生門』と異なり、『最後の決闘裁判』はあくまでマルグリットの被害者性を際立たせる。彼女が直面したのは、女が男に所有され、子供を生むという役割を一方的に押し付けられ、己自身の意思と才覚で生きていく可能性を奪われていた時代に、全ての女たちが見舞われた筈の悲劇なのだ。
要するに、本作は14世紀の史実を#MeToo以降にハリウッドが獲得した価値観によって解釈したものであり、当時を生きた人々の思想や価値観を忠実に再現した訳ではない(もちろん、そんな事は不可能な話だが)。例えば、当時は今よりも信仰心が強かっただろうから、実際のマルグリットは決闘裁判がもたらした結果を神の思し召しとして素直に受け入れていたかもしれない。だから、本作は史劇というよりもあくまで現代を生きる私たちに向けられたアクチュアルな一作として、例えば『プロミシング・ヤング・ウーマン』などと同列に扱われるべき映画である。ラストシーンで見せるマルグリットの虚ろな眼差しは、現代を生きる女性たちの絶望を向けられている、というのは考え過ぎだろうか。

 

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フェミニズムという観点からハリウッド映画史を概観する時、リドリー・スコットとい監督は案外重要な位置を占めるのではないだろうか。『テルマ&ルイーズ』はシスターフッド映画の嚆矢とも言える作品だが、例えば『エイリアン』を「妊娠」と「出産」という役割から女性を解放した映画として観る事も可能だろう。

 

キャリー・ジョージ・フクナガ『007/ノー・タイム・トゥ・ダイ』

本作は確かにジェームズ・ボンドの物語だが、ボンド映画とは言えない

当初は2020年2月に公開予定だったこの映画、新型コロナウイルスの影響で何度も延期され、ようやく陽の目を見たのが何と2021年の10月である。当然、映画はとっくに完成していたので、映画館では1年以上にわたって公開日未定の予告編が流れ続ける、という異常事態に陥っていた。ソニー・ピクチャーズに代わって、国際配給権を獲得したユニバーサル・ピクチャーズとしては世界的大ヒットを期待していただろうし、中途半端な規模で公開をしたくなかった、というのも分かる。それにしたって、あれだけ予告編ばかり見せられると些か食傷気味になるのも仕方がない。私などいつの間にか本編を観た気になっていたので、公開が決定したと知って驚いたぐらいだ。そういえば現在、映画館で流れている予告編の最後には、主演のダニエル・クレイグから日本の観客に向けたコメントが付け加えられているが、それが変に薄暗い部屋の中で撮られた映像で、心なしかクレイグの顔色も悪い。もしかすると、彼はユニバーサル社に拉致監禁され、これからもジェームズ・ボンドを演じる様に強迫されているのではないか?
それはともかく、本作は2006年の『007/カジノ・ロワイヤル』から続いてきたダイニエル・クレイグ主演の「ジェームズ・ボンド」シリーズ最終作となる。本来は前作『007/スペクター』でクレイグは降板する予定だったが、映画会社の説得により1作に限り続投する事となった。何となく、初代ジェームズ・ボンド役だったショーン・コネリーが1作だけ復帰したシリーズ第7作『007/ダイヤモンドは永遠に』を思い出させるが、そういえばMI6を引退し恋人と車に乗って走り去る『007/スペクター』のラストがシリーズ第6作『女王陛下の007』に似ていたのも何やら符牒めいたものを感じさせる。とはいえ、あくまで軽妙洒脱なスパイ映画を目指した『007/ダイヤモンドは永遠に』と、重厚長大な作風を目指した本作では方向性は全く異なるのだが。
で、本作の評価はまさにそこに掛かっているのではないかと思う。ダニエル・クレイグの主演最終作にして、これまでの集大成という役目を背負った本作は、小粋な会話と破天荒なアイデア、ド派手なアクションを売りにしてきたボンド映画のフォーマットを逸脱し、ひとりの苦悩する人間としてジェームズ・ボンドを描いている。物語が後半に進むに従ってストーリーは陰鬱さを増し、スパイ映画的な要素は後景に退き(ボンドもののどこがスパイ映画なんだ、と言われればそれまでだが)、ボンドとヒロインのマドレーヌ、そして悪役のサフィンが織りなす奇妙な人間ドラマへと移行していく。もちろん、ダニエル・クレイグが主演を務める様になってから、ボンドの内面描写に重きを置く傾向は度々見られはしたが、本作ではそれがボンド映画としてのバランスを崩すまでに拡大しているのだ。従って、本作の予告編を見て「うひょーこれは面白そう!」と思った方は、十分にご注意いただきたい。実は、本作のボンド映画としての面白さは予告編で紹介されたシーンでほぼ尽きており、しかもそれが映画の前半に集中しているのだ。えちえちなドレスを着た アナ・デ・アルマスがアサルトライフルをぶっ放す姿には皆が心を躍らせたと思うが、彼女の出演シーンは少なく、早々に物語から退場してしまう。そして、中盤から終盤に掛けては辛気臭い人間ドラマがひたすら続く。
更に言えば、そのドラマパートも非常に抽象的で分かりにくいのだ。それはひとえに悪役サフィンの掘り下げが足りてないせいだろう。「スペクター」傘下のミスター・ホワイトに家族を殺害された過去を持つ彼は、恣意的にターゲットを選択して殺害できる細菌兵器(この兵器を作ったのが実はMI6だった、というのは最後までモヤモヤする点だった)を使って「スペクター」構成員を皆殺しにしてしまう。確かに、やってる事はすごいのだが、肝心のサフィンのキャラクターが変なお面を被ってスカしているだけで、その凄惨な過去についても具体的な描写がほとんど無いので恐ろしさが今ひとつ伝わって来ないのである。だから、サフィンとボンド、マドレーヌのねじれた関係性も非常に曖昧で飲み込みづらい。サフィンという悪の存在がボンドやマドレーヌの内面に深く食い込み、それが彼らの離別を決定づける、というのが本作のプロットの肝要なのに、その過程が最後まで上手く描けていない様に思った。
という訳で、何か文句ばかり書き連ねてしまったが、これが2020年の2月に公開されていれば十分に満足できていたかも知れない。何しろ実際に作品に触れるまでに何十回と予告編を見てきたので、こちらの期待が膨れ上がってしまった面もあるだろう。ジェームズ・ボンドの有終の美を飾りたいあまり、力が入り過ぎて空回りした部分は否めないが、それでも2006年から私たちを楽しませ続けてくれたダニエル・クレイグを始めとする製作陣には感謝しかない。

 

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前作から引き続き登場するキャラクターも多いので、せめてこれぐらいは観ておいた方がいいかと。