事件前夜

主に映画の感想を書いていきます。

アダム・ウィンガード『ゴジラvsコング』

世界は、ついに怪獣プロレスのリングと化した

レジェンダリー・エンターテインメントとワーナー・ブラザース・ピクチャーズの共同製作による「モンスターバースシリーズ」も、ゴジラキングコングが対決する本作でいよいよ大団円を迎える事となった。好調な興行成績を受けてシリーズの継続も検討されているらしいが、とりあえずは一区切りといったところだろう。比較的キャリアの浅い若手監督を抜擢し続けてきた本シリーズだが、特に『GODZILLA ゴジラ』のギャレス・エドワーズと『キングコング: 髑髏島の巨神』のジョーダン・ヴォート=ロバーツはオリジナル版はもちろんクラシックな怪獣映画に最大限の敬意を払いつつ、見事にハリウッド製エンタメ映画に仕上げた手腕が高く評価された。この2作については迫力あるモンスターバトルもさる事ながら、人間ドラマのパートについても手堅くまとめられ、そのバランスの良さが成功した要因だったと思う。
ところが、マイケル・ドハティによるシリーズ3作目『ゴジラ キング・オブ・モンスターズ』ではド派手なアクションシーンに重きを置くあまり、人間ドラマの完成度が大きく低下し、大味な怪獣プロレスものに変貌してしまう。詳しくは、以前に私が書いた感想を読んで頂きたいのだが、登場人物がいきあたりばったりに行動し、たまたまそれが功を奏する、というご都合主義的な展開がひたすら続くのだ。もちろん、我が国のゴジラだって同じ様な道を辿ってきたので致し方ない面もあるのだが、ダラダラしたドラマパートのせいで、全体を通してテンポが悪くなっていたのは否めない。
アダム・ウィンガードがメガホンを取ったシリーズ第4作『ゴジラvsコング』はその反省からだろう、もはやドラマパートなど存在しないも同然の開き直った作りになっている。とにかく、キングコングゴジラが大暴れすればいいんだろ、と言わんばかりに、怪獣たちの大乱闘シーンが映画の大半を占め、その場つなぎに人間たちの無意味な行動と無意味な会話が挿入されていく。確かに、前作にも登場したマディソン・ラッセルを含め、登場人物たちはそれぞれの思惑に従って行動するのだが、物事の優先順位がおかしいというか、なぜ今そんな事をする必要があるんだ?と疑問に思う事ばかりである。怪獣が街中で大暴れしている最中に、巨大企業の陰謀を暴いてネット配信しようとするとか、そんなのもうちょっと落ち着いてからやればいいだろうに。
確かに、東宝が1962年に公開した『キングコング対ゴジラ』だって、めちゃくちゃいい加減な映画である。しかし、それでも人間と怪獣たちの関わり方というか、怪獣が出没する社会のすがたがコメディタッチではあっても丁寧に描かれていた。『ゴジラvsコング』の場合、地底世界とかサイバネティクスとか色々と凝った設定を盛り込んだ割りに、そこで生活する人間たちの生活が全く描かれていないので、世界観がものすごくぼやけてしまっている。前作では怪獣プロレスを中心に据えながら、それでも人間と自然の関係、親と子の関係を何とか描こうとしていた。その語り口は非常に不器用で映画のテンポを悪くしただけだったかもしれないが、本作ではもはやその意思すら感じられない。要するに、ここで描かれた世界は、怪獣プロレスのリングに過ぎないのだ。

この人間描写に対する淡白さが怪獣映画としてはまだしも、パニック映画としての本作の面白さを大きく損なっている。怪獣から逃げ惑う人々の姿を見ても、巣を壊された蟻を見ているのと同じだから、何の感情も湧いてこない。最後の最後に〇〇〇〇〇が登場する場面は非常に興奮したし(デザインについては大いに不満が残るが)、これがやりたかったが為のあの設定だったのか、というのも理解できたが、それにしたってもう少し見応えのあるドラマを用意できなかったのだろうか。テンポが良くなった分、何の引っ掛かりもなく終わってしまう、非常に印象の薄い映画になってしまった。白目をむき出しにした小栗旬の顔だけは強烈なインパクトがあったが。

 

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 ゴジラシリーズの第3作で初めてのカラー作品。キングコングの権利を所有していたRKO社とのライセンス提携により作られた。ゴジラシリーズが娯楽映画に大きく舵を切ったのは本作からなので、今回のリメイクの方向性も間違ってはいないのだが…

ロバート・エガース『ライトハウス』

半人半漁の怪物も邪悪な海神も、暗く深い虚無の渦へと飲み込まれていく

17世紀のセイラム魔女裁判をモチーフにした『ウィッチ』で高い評価を得たロバート・エガース監督の2019年の作品『ライトハウス』が、ようやく我が国でも公開された。日本でも信用できるブランドとしてすっかり定着したA24製作、カンヌ映画祭でも絶賛されていた本作の公開がなぜここまで遅れたのか、その事情はよく分からないが、登場人物がウィレム・デフォーロバート・パティンソン演じる2人の灯台守だけ、しかもモノクロ撮影という本作のルックが地味すぎると敬遠されたのかもしれない。
閉ざされた空間を舞台に、恐怖や猜疑心を次第に募らせていく人々が破綻を迎える様をオカルト要素を交えつつ描いていく、という意味では、本作は『ウィッチ』から多くの要素を引き継いでいる。しかし、『ライトハウス』の湛える重苦しさ、息苦しさは前作を遥かに凌ぐ。それは、正方形に切り取られたスクリーンサイズが圧迫感を感じさせるから、という理由だけではないだろう。同じテーマを扱いながらも『ウィッチ』と『ライトハウス』は正反対のベクトルを向いている様に思うからだ。
『ウィッチ』では、17世紀のキリスト教信仰を大枠に、次いで厳格な家父長制、最後に女性の身体そのもの、という入れ子構造の閉鎖空間を設定し、アニャ・テイラー=ジョイ演じる主人公の少女が次々にその殻を食い破り、外部へ抜け出ようともがく様が描かれていた。主人公の一家が住む家のすぐ傍らには魔女が住むと言い伝えられる森があり、決して足を踏み入れてはならない、と母親は子供たちを戒めているのだが、その禁忌を破りカタストロフを呼び込む事で、少女は永遠の自由を手に入れるのである。だからこそ、ラストで描かれる不吉なサバトの場面に観客は解放感を感じる事ができたのだ。
それに対し、海に囲まれた孤島で灯台守の任にあたる『ライトハウス』の2人の主人公は、巡視船が迎えに来るまで外部へ出る事ができない。更に、4週間の勤めを終えた後に島を出る手筈だったのが、突然の嵐によって船が到着せず、島に留まる事を余儀なくされてしまう。外部への道を閉ざされた結果、彼らは否応なく自らの存在と向き合わざるを得なくなる。内から外へ、ではなく外から内へ。『ライトハウス』の灯台守たちは、暗く深い自らの深淵へと否応なく沈み込んでいく。そこには『ウィッチ』の少女にもたらされた救いなど微塵も存在しないだろう。
当初こそ、彼らの間には明確な上下関係が存在した。年老いた灯台守は若い灯台守にあらゆる雑事を押し付ける一方、灯台の灯りにはいっさい手を触れさせようとしない。その事を不満に思いながら、若い灯台守は経験豊富な老灯台守の指示に従わざるを得ないでいた。『ウィッチ』で描かれた父娘の関係性の反復とも言えるこうした支配的な構図はしかし、彼らが嵐によって孤島に閉じ込められたのをきっかけに変質し始める。老灯台守が語っていた船乗りとしての経歴が全くのでたらめだと分かり、海の男としての彼の優位性が大きく揺らぐ事になるのだ。その一方、若い灯台守もまた自らの過去を偽っていた。だから、師匠と弟子の様な彼らの関係性は全て虚偽の上に成り立っていたに過ぎない。むしろ、2人の灯台守は共に本当の自分の姿を見失った虚ろな存在であり、その意味では鏡像関係にあると言えるだろう。彼らは鏡に写った似姿によって自らの実在を確かめ合う。
ライトハウス』の灯台守たちが直面する、虚ろな鏡像―虚偽の上に虚偽を重ねて隠そうとしたその黒々とした空洞に、やがて様々な怪異が波の様に押し寄せる。ギリシャ神話の海神トリトーンや半人半漁の怪物セイレーン、更にはクトゥルフ神話の邪神ダゴンがごた混ぜになって登場し、物語の後半から本作は一気に怪奇映画としての色彩を強めていくのだが、『ウィッチ』における魔女と同じく、灯台守たちの前に姿を現す怪物や邪神が実在したのかは最後まで分からない。それは、彼らの抱える実存的な不安が生んだ幻影なのかもしれないし、彼らの心に巣くう自己愛的な欲望に対するアンビバレントな感情が顕在化したのかもしれない。
しかし、いくら未知なる怪異を呼び寄せようとも、あるいは我が身を焼き尽くす聖なる光を望もうとも空隙は遂に埋まらず、男たちはその虚ろな身体を無様に晒すしかないだろう。若い灯台守が海鳥にはらわたをついばまれる、その陰惨なラストシーンにおいて、映画はその残酷な事実を突きつける。

 

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ウィッチ(字幕版)

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  • アニヤ・テイラー=ジョイ
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ロバート・エガース監督の長編デビュー作。魔女狩りというオカルト的なモチーフを使いながら、親子関係の破綻を描くという意味では『エクソシスト』にもテイストが近い。

ジョン・クラシンスキー『クワイエット・プレイス 破られた沈黙』

前作の世界観が大きく拡張され、ポストアポカリプスものとしての性格が強まった第2作

私は前作について「ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!!」の「サイレント図書館」とやっている事は同じ、と書いた。眼が見えない代わりに聴覚が異常発達したエイリアンに地球が侵略されている、というのが作品の核となるアイデアである。主人公一家は音を立てない様に細心の注意を払って暮らしているものの、素足に釘がぶっ刺さって声が出そうになるとか、子供のおもちゃから電子音が鳴りだすとか、様々なアクシデントが襲い掛かり、その度に危険にさらされてしまう。プロットは基本的にこの繰り返しなのだが、ホラー映画として恐怖を盛り上げる「静から動」への場面転換が、「無音から騒音」というサウンド面での演出と完全にリンクしているのが作品の肝なのである。このシンプルかつ工夫に満ちた構成が評判を呼び、前作は国内外でスマッシュヒットとなった。
そのヒットを受けて予算も大幅にアップしたのだろう、3年ぶりに公開された続編では限定された空間を舞台にした前作とうって変わり、廃工場や波止場、孤島など多彩なシチュエーションが用意されている。また、主人公一家以外に生き残った人々との交流が描かれる事で、よりポストアポカリプスものとしての性格が強まり、物語の背景や舞台設定の輪郭がはっきりした。要するに『ウォーキング・デッド』っぽくなったので、ここからいくらでも続編やスピンオフ作品が作れそうだ。当然、連続ドラマ化も期待できるかもしれない。
作品の規模がスケールアップしたものの、監督ジョン・クラシンスキーの確かな演出力は今回も健在である。その実力は「DAY1」と題された今作のプロローグ、エイリアンが地球に攻め込んできた、そもそものはじまりの日を描くシーンで大いに発揮されている。緊張感と恐怖感が思う存分に味わえるこの場面でのパニック演出は素晴らしく、スティーヴン・スピルバーグの『宇宙戦争』に匹敵すると言っても過言ではない。ただ、このシーンの出来が良すぎるせいでその後の展開が見劣りするというか、そもそもこれは脚本の責任でもあるだが、多くのシーンが前作の焼き直しに見えてしまう。例えば、エイリアンに追われたマーカスが窯の中に逃げ込んだところ、ロックが掛かってしまい窒息しそうになるというのは前作のサイロ内でのエピソードそっくりだし、スプリンクラーを使ったエイリアンへのかく乱作戦も前作の花火と同じである。最後の最後、リーガンがエイリアンを倒す方法もほとんど変わり映えがしない。
前作で描かれた世界観を引き継ぐかたちで続編が作られているので、ある程度は展開が似てしまうのも仕方がないだろう。ただ、本作で初めて導入されたポストアポカリプス的な要素―生き残った人々が形成するコミュニティや暴徒化した集団などの描写が十分ではないので、どうも更なるシリーズ化への橋渡し的な、中途半端な印象を受けてしまう。後から思い返してみると、こうした世界観を拡張する要素が導入されたにもかかわらず、この続編はびっくりするぐらいこじんまりした話なのである。『バイオハザード』のポール・W・S・アンダーソンミラ・ジョヴォヴィッチの様に、ジョン・クラシンスキーとエミリー・ブラント夫妻が『クワイエット・プレイス』ユニバースをこれから拡張していくつもりなのかは分からないが、次作以降はこれまで語られてきた「家族の物語」からの脱却が必要となるのは間違いない。

 

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侵略ものホラーとしてスマッシュヒットを果たした前作。エミリー・ブラントの見せ場はこちらの方が多いかもしれない。以前に感想も書きました。

クレイグ・ガレスピー『クルエラ』

髪の毛を黒と白に染め分けたクルエラはモードの破壊者なのか

『ヴェノム』やら『スーサイド・スクワッド』やら、巷ではアメコミ原作のヴィラン映画が大流行だが、ディズニー・ピクチャーズもこの手のヴィランものには乗り気の様である。ここ最近のディズニー・クラシックの実写リメイクの流れにも乗り、アンジェリーナ・ジョリーが魔女を演じた『眠れる森の美女』の実写リメイク『マレフィセント』に続き、今度はエマ・ストーンを主演に迎えて『101匹わんちゃん』の敵役クルエラ・ド・ヴィルの若かりし頃を描いた映画が公開される事になった。もちろん、『101匹わんちゃん』の実写リメイクは本作が初めてではない。1997年には『101』という作品が、2001年にはその続編『102』が作られており、クルエラをグレン・クローズが演じている。著名なファッションデザイナーであるクルエラは、非常にお洒落な人物として描かれていて、本作でも実に47種類もの衣装が登場するそうだが、『101』でもシーン毎に異なる衣装を用意し、二度と同じ服は登場しないという凝りようだった。
アニメ版であろうと実写版であろうと彼女の目的は同じで、ダルメシアンの毛皮のコートを作る為に、旧友のアニタが飼う15匹のダルメシアンを誘拐しようとする。もちろん、ディズニーの作品だから子供から大人まで楽しめるファミリームービーに仕上げているが、これはなかなかイカれた設定だ。サスティナブルを標榜する現在のファッション業界ではもちろんの事、毛皮の使用が一部の動物愛護団体の主張に過ぎなかった時代でも、ダルメシアンの皮を剥いでコートを作る、というのは相当ヤバい行為だろう。自分だけ誕生会に呼ばれなかった腹いせに王女を永遠に眠らせるのとは違って、何か生々しい怖さがある。だから、クルエラはディズニー・ヴィランの中でも特に残忍なイメージが付与されていた。
ただ、本作『クルエラ』ではその様なイメージはほぼ漂白されていて、不幸な境遇で育った少女が、悪事に手を染めつつもやがて一人の女性として自立、成長する、といった―いかにも昨今のディズニーらしい―物語が展開していく。結局のところ、この手のヴィラン映画は「泥棒にも三分の理」というか、こんな悪党にもそれなりの事情があるんですよ、みたいな弁明に落ち着いてしまうものだが、本作もその範疇を出ていない。『アイ,トーニャ 史上最大のスキャンダル』のクレイグ・ガレスピーを監督に起用して、古典的名作に新しい風を吹き込もうとする試みは理解できるが、いかんせん穏当過ぎる脚本が足を引っ張り、今ひとつ抜けの悪い映画に仕上がってしまった。ここは割り切って、血みどろのエマ・ワトソンが犬を殺しまくる映画にした方が良かったのではないか。まあ、そんな映画は誰も望んでないだろうが…
とはいえ、本作にも見るべきところはある。ファッション・デザイナーとして修業中の身であるクルエラと、その師匠であり母の敵でもあるバロネスの対決を通じて、1950年代から70年代のイギリスにおけるファッション変遷史を俯瞰しようという試みだ。バロネスのイメージソースはおそらく、クリスチャン・ディオールバレンシアガなど1950年代に活躍したオートクチュールのデザイナー群だろう。時代が1960年代に移るとプレタポルテ(既製服)が登場し、例えばイヴ・サンローランの様なデザイナーが台頭し始める。貴族や一部の富裕層のものだったファッションは既製服の登場によって一般的なものとなり、上述のデザイナーの立ち上げたブランドがビッグ・メゾンへと成長していく。バロネスの経営するメゾンはまさにその雰囲気を漂わせている。
ところで、こうしたハイ・ブランドがユースカルチャーを積極的に取り入れつつ、若者たちを客層として取り込もうとするのは現在も続く流れだが、1970年代には既存の権威や体制に縛られる事を嫌った若者たちによるヒッピーカルチャーが隆盛を極め、その余波を受けてファッション業界はより大きな変革の時代を迎える事になった。衣食住の全てを自分たちで作ろういうDIYムーブメントが盛り上がる中、若者たちはデザイナーやメゾンの提案するお仕着せの衣服を嫌い、それらをより自由な発想で解体し、再構築する様になっていったのだ。そこから、破れたジーンズや穴の空いたTシャツを身にまとい、チェーンや安全ピン、スタッズで飾り立てたパンクファッションが登場し「ヴィヴィアン・ウエストウッド」の様なブランドが世界的な注目を集める様になる。
パンクファッションは、ディオールが提唱した「ニュールック」以降、図らずも女性を縛り付ける事になった「女らしさ」―優しい肩のライン、細いウエスト、裾広がりのスカートといった優美な曲線こそが女性の理想的な体形であり、ファッションはそのシルエットを演出するものだ、という固定観念からの解放であった。自らを束縛する全てを破壊しようとするクルエラがパンクファッションを身にまとうのも、だから理にかなった事ではあるだろう。映画の中盤、クルエラはバロネスが過去に作ってきたドレスをパッチワークし、全く新たな衣装を作り上げてしまう。こうしたアバンギャルドでアンシンメトリーなデザインは、コム・デ・ギャルソン川久保玲を思わせもする。1981年のパリコレクションで、コム・デ・ギャルソンヨウジヤマモトがデビューし、既成概念に捕らわれないカッティングとファッション業界ではタブーとされた黒を基調とする色使いで世界中に驚きを与えた。それは後年、「黒の衝撃」と評される事になるのだが、髪の毛を黒と白に染め分けたクルエラには、既にその萌芽を感じ取る事ができる。

吉田大八『騙し絵の牙』

原作のエモーショナルなドラマ性は後退し、コン・ゲームとしての面白さが際立っている

大泉洋の顔が大写しになったこの映画のポスターは、そのまま特殊詐欺被害防止啓発ポスターにも採用されている。確か『紙の月』も詐欺・横領抑止キャンペーンのポスターになっていたから、吉田大八は警察のポスターになりそうな映画が得意だと言っていい。これは冗談でも何でもなく結婚詐欺を扱った『クヒオ大佐』も撮っている訳で、人を騙したり、あるいは人を信用したり、そうした関係性からドラマを立ち上げようとしているのだと思う。
本作は、『罪の声』の映画化も記憶に新しい塩田武士による小説の映画となるが、原作は元々、大泉洋が主人公を演じる事を想定し、あて書きで書かれた、という一風変わった経緯を持つ。当然ながら、映画版の主演も大泉洋が務めているが、吉田大八は原作のプロットを活かしつつ大幅な脚色を行っているので、小説と映画では印象がかなり異なる様に思う。原作は、大手出版社の権力争いを主軸に、デジタル化の波に飲み込まれつつある出版業界がどの様に変わっていくべきか、あるいは何を守るべきなのか、というテーマを主人公の編集者、速水の姿を通じて描いている。基本的には業界内幕ものとも言うべきプロットがメインで、タイトルにある「騙し」の要素は薄い。更に、速水も単に「変わり者」で「人たらし」な―これが大泉洋のパブリックイメージに重なるのだろう―敏腕編集者としてだけでなく、父としてあるいは夫としての苦悩や小説に対する情熱を持った、血の通った人間として描かれているので、むしろヒューマンドラマとしての側面が強い小説と言えるだろう。
しかし、映画版の速水は小説版と異なり、家庭にまつわる描写が全くない。更に原作では重要な要素だった、速水が編集者を目指すきっかけとなった父親とのエピソードも完全にオミットされている。映画版の速水は小説に対する情熱など持ち合わせておらず、更にいえば編集者という仕事にもそれほど興味がある訳ではない。彼を衝き動かしているのは「面白ければいい」という信念のみであって、最終的にそれが出版物である必要すらないのだ。小説版の速水が持っていた小説や編集者に対する真摯な想いは、松岡茉優演じる同僚の高野恵(ちなみに、原作ではこの高野と速水が不倫関係にある、という設定だったがこれも映画版では削除されている)が受け継いでいる。
この様に、映画版の速水は人間性をはく奪された、非常に虚無的な男として描かれている。当然、こうした人物は原作の様なエモーショナルなドラマの主人公にはなりにくい。その代わりに小説版よりも強まったのが「騙し」の要素、コン・ゲームとしての側面だ。上述した通り、映画版の速水は人間味の薄い、何を考えているのか分からないキャラクターである。登場人物たちが互いを欺き合い、二転三転するストーリーで観客の興味を引っ張るコン・ゲームの主役にはむしろ適役だろう。本作では大泉洋の他に國村隼佐野史郎佐藤浩市といった実力派俳優たちが一癖も二癖もあるキャラクターを演じている。原作のプロットを利用しながら、権謀術数が渦巻くコン・ゲームに仕立てあげた吉田大八の手腕をまずは評価すべきだろう。
ただ、この様な改変によって主人公である速水の人物像がぼやけてしまった様にも思う。彼が「面白ければいい」というポリシーの持ち主である事は分かるが、そこに個人的なオブセッションが描かれる訳でもなく、単に台詞として語られるだけなので、全編を通じてどうも狂言回し的な役割に甘んじている様な気がする。その為、何度も繰り返される騙し合いや逆転に次ぐ逆転も、主人公の最終的な目標がぼんやりしているせいか、今ひとつノレないのである。代わりに本作のドラマパートを盛り上げるのが松岡茉優演じる高野恵で、こちらの方がひとりの人間として丁寧に描き込まれているので感情移入しやすい。もちろん、ある程度は作り手の意図した事なのだろうが、大泉洋にあて書きした小説の映画化作品で大泉洋の印象が薄いというのも皮肉な話である。
あと、本作は劇伴が非常に良い。音楽を担当したLITEというバンドを私は知らなかったので、2、3枚アルバムを聞いてみたがそれほど面白くなかった。おそらく吉田大八のディレクションが上手いのだろう。これは『羊の木』でも感じた事である。

フロリアン・ゼレール『ファーザー』

錯綜し破綻したヒッチコック的語り口が垣間見せる、認知症患者の見る世界

私の母は、死の数か月前から認知症の兆候があらわれ始めていた。既に他界した筈の父が家にやってくる、と私に電話を掛けてくる様になったのはいつ頃からだろうか。当初は、父が既に死んでいる事、母も葬儀に立ち会った事を説いて聞かせると納得していたのだが、段々と電話を掛けてくる回数も多くなり、常軌を逸した話を繰り返す様になった。公営住宅の5階に住んでいるのに誰かが窓から覗いていると怯え、父が夜中にやってきて財布から金を盗んでいくと交番に駆け込む。認知症の家族に対する接し方として、本人の妄想や幻覚を頭ごなしに否定するのは孤立感を深め良くない、と聞いたので、私も母の訴えにできるだけ話を合わせる様に務めていたのだが、さすがに「小人ぐらいの大きさになった父親が、ドアの郵便受けから入り込んでくる」などという話をどうやって受け入れたらいいのか分からない。次第に私も苛立ちが募り喧嘩をする回数も増え、そろそろ施設に入れる事も検討し始めていた矢先、もともと心臓の弱かった母は不意にこの世を去った。母の遺体の傍らには、夫婦関係についてのレクチャー本が置かれていた。彼女が死の直前どの様な世界を見ていたのか、私には分からない。
オリヴィア・コールマン演じるアンが父の住むロンドンの家を訪れる場面から、『ファーザー』は始まる。アンソニー・ホプキンス演じる父親アンソニーは、自分が認知症である事を認めようとせず、アンの手配した介護人を次々と追い出していた。3人目の介護人を追い払った理由をアンが訪ねると、その介護人には盗癖があり、大事にしていた腕時計を盗まれた、などと嘯く。もちろん、これは彼の被害妄想に過ぎず、腕時計はちゃんと家の中にあった。アンは自分が恋人と一緒にパリへ移り住む事、介護人を受け入れられないのなら、施設に入ってもらうしかない事を父親に告げる―この冒頭場面は、「難病もの」の映画の出だしとしては順当と言っていい。普通であれば、ここから父親の病状の進行や、介護に追われる娘の苦悩、徐々に移ろっていく親子関係、などが描かれていく筈だが、本作はここから思いがけない展開を見せていく。
アンソニーはある日、家の中で見知らぬ男がソファに座って新聞を読んでいるのを目撃する。男は、自分はアンの夫であり、ここは自分たちの家で逆にアンソニーの方こそ居候なのだ、と主張して譲らない。しかし、アンは数年前に離婚し、新しく出来た恋人とパリへ行くのだと、ついこの間父親に聞かせたではないか―困惑し自分の記憶を疑い始めるアンソニーの前に、買い出しから帰ってきたアンが姿を現すが、それは父が知っている娘とは似ても似つかない全くの別人だった―
まるでヒッチコックの映画じみた展開だが、もちろん本作は『白い恐怖』の様な記憶喪失をテーマにしたサスペンスではない。アンソニーの周りにいる人たちは次々と顔を変え、その時々で話す内容も変わりアンソニーを不安と混乱に陥れる。映画としてのプロットも時系列がめちゃくちゃに入れ替えられ、同じ場面がループしたりもするので、観客である私たちもまるで迷宮に迷い込んだかの様な感覚を味わう。しかし、この不可解な現象はサスペンス映画の「謎」とは異なり、最後に「真相」が用意されている訳ではない。
さらに本作が面白いのはプロットに限らず、被写体を写すカメラも現実と妄想を区別していない点にある。例えば、本作ではアンソニーの娘アンを、オリヴィア・コールマンオリヴィア・ウィリアムズという2人の女優が演じている。ある日突然、見知った筈の人が赤の他人に見えてしまう認知症患者の症状を再現する為の演出だが、カメラはオリヴィア・コールマンオリヴィア・ウィリアムズを全く同列に扱っている為、どちらが現実でどちらが妄想か、という判断が観客にもできない。例えば、アンソニーの目線に立った主観ショットでは女優A、その他の客観ショットでは女優B、という風にはっきりと使い分けされていれば、観客も女優Bこそが本当の娘の姿で、それが認知症の父には女優Aに見えるんだな、と容易に納得できる。しかし、『ファーザー』では、主観ショットと客観ショットの別なく、同じ登場人物を異なる俳優が、あるいは異なる登場人物を同じ俳優が演じているので、首尾一貫したプロットを求める観客はいよいよ混乱してしまうのだ。
これを小説で例えるなら、物語の「語り手」だけでなく「地の文」すらも信用できない、という事になる訳で、完全な反則である。よく言われる「信用できない語り手」とは、物語内の固有の人格を持った登場人物が担わなければならない。無色透明な「地の文」は「語り手」になる事はできないからだ。従って、本作は「難病もの」の映画のごとく、私たちの考える「正常」を担保に、認知症の「異常」を語ろうとしているのではない。むしろ、その「異常」をプロットや語り口に積極的に取り込む事で、認知症患者の見る世界を観客に体感させようとする。
この錯綜し破綻した世界で観客をナビゲートしてくれるのが、アンソニー・ホプキンスによる見事な演技だろう。彼は、不思議の国に迷い込んだアリスの様に、あるいは入り組んだ謎に取り組む名探偵の様に、身の回りで起こる不可解な事象に立ち向かい、混乱に満ちた世界から逃れ出ようとする。もちろん、最初に述べたとおり、本作には「謎」や「真相」などというものは存在せず、全てはアンソニーの精神が反映されたものに過ぎない。その事実に向き合わざるを得なくなった時、彼が見せる痛切な表情は私たちの胸を打つ。本作でのアンソニー・ホプキンスの演技が評価されたのは、何も認知症患者の真似が上手かったから、という訳ではない。彼は1人の人間として、この混乱した世界を生き抜き、闘い、そして敗れ去ったのだ。私たちが目撃したのは、その悲痛な闘いの記録なのである。

 

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若年性アルツハイマーを発症した言語学者の姿を演いた一作。ジュリアン・ムーアはこの作品でアカデミー主演女優賞を受賞した訳で、やはりこの手の役は賞を獲りやすい、というところもあるのだろう。

ジェリー・ロスウェル『僕が跳びはねる理由』

世界の複雑さを複雑さとして受け止める事―自閉症スペクトラムが気づかせてくれる美しさ

例えば「自閉症的」といった言葉がからも分かるとおり、自閉症スペクトラムとその患者については他者とのコミュニケーションを拒否し、孤独を好む社会不適応者というイメージが旧来から流布されてきた。言語による意思伝達が困難であり、不可解な行動を繰り返す彼らを奇異と恐れの眼でもって扱ってきた、というのが私たちの社会の実態だったろう。
重度の自閉症者である東田直樹が13歳の時に著したエッセイ『自閉症の僕が飛び跳ねる理由』は、だから多くの人に驚きと共に迎えられた。東田は、一見すると理解不能自閉症者たちの言動にもれっきとした理由があり、それは私たちと同じく喜びや悲しみ、不安や怒りといった感情から導き出されているのだ、という事を緻密な自己分析と豊かな感性によって解きほぐしていたからだ。いったいなぜ、自閉症者たちは、所かまわず奇声を発したり、床に頭を打ち付けたり、同じ事を飽きずに繰り返したりするのか?彼らがいつも表情に乏しく他人に対しよそよそしいのはなぜなのか?『自閉症の僕が飛び跳ねる理由』を英訳し、この映画版にも出演しているデイヴィッド・ミッチェルによれば、それは「頭の中の編集者が、何もいわずに出て行ってしまった」からだという。私たちは普段、感覚器官を通じて得られる外部からの膨大な情報―物の色、かたち、味、手触り、音、温度、気温、時間などを順序よく並び変え、記憶と照らし合わせ、時には統合、分割し、ひとつの秩序だった体系に編集する事で受容している。しかし、その編集能力が失われてしまったらどうなるだろうか。ありとあらゆる情報が一斉に押し寄せ、その圧倒的な量と質に脳の処理が追いつかずパニックを起こしてしまうに違いない。自閉症スペクトラムは、個人が世界の複雑さに太刀打ちする能力を奪ってしまう。しかも、発話能力に障害を来しているが為に、その苦しみ他者と分かち合う事も出来ない。自閉症者は孤独が好きなのではなく、孤独にならざるを得ないのである。
東田直樹の著作を読むと、自閉症者たちは世界の複雑さに敗北したのではなく、私たちとは全く異なる方法で闘い続けているのだ、という事が理解できる。時間や物体、空間の把握の仕方が私たちとまるで違う彼らは、だからこそalternativeな戦略で世界に対抗しているのだ。そこから、彼らだけが感じ取れる世界の別の側面、新たな美しさが垣間見えてくる。東田直樹の思考は、自閉症スペクトラムを通じて世界の新たな可能性を探ろうという点にまで射程を伸ばしている。『自閉症の僕が飛び跳ねる理由』が世界30ヵ国で出版され、中国語からマケドニア語まで24言語にわたって翻訳される大ヒットとなったのは、単なる興味本位や同情などではない。自閉症ではない私たちがよりよく生きる為のヒントもそこに記されていたからだ。
さて、本作は、その『自閉症の僕が飛び跳ねる理由(Reason I Jump)』からインスパイアされた自閉症スペクトラムをめぐるドキュメンタリーである。東田直樹の言葉が引用され、子供の頃の東田を思わせるイメージ映像がインサートされるものの、作家本人が出演している訳ではない。ただ、前述のデイヴィッド・ミッチェルが自ら出演し、自閉症者の子供を持つ親の立場から、東田直樹の思想の重要性を説いている。それらにナビゲートされるかたちで描かれるのは、イギリス、インド、アメリカ、シエラレオネなど世界各国に住む自閉症者とその家族の姿だ。スペクトラムという言葉が示すとおり、ひと口に自閉症と言ってもその症状は様々で、一括りにする事はできない。当然、国によって自閉症に対する理解の度合いも異なるだろう。自ずから、その困難の度合いも違いが生じる。それぞれの自閉症者たちの人となりや内に秘めた想い、自身の内面を表現する手段も当然まちまちで、本作は丹念な取材によって、国、社会、人など多様な側面から自閉症スペクトラムをめぐる問題を探っていく。
私たちはいつだって言葉に囚われている。だからこそ、東田直樹は自分の考えを理解してもらう為に本を書いた。当然ながら、この映画もまた数多くの言葉に溢れている。東田直樹の著作に書かれた言葉、デイヴィッド・ミッチェルの言葉、自閉症者の親たちの言葉、自閉症者が文字盤やキーボードを通して発する言葉。しかし、本作はそうした言葉たち以上に、映像と音響が雄弁に自閉症者たちの生きる世界について教えてくれる。揺れるカーテンの襞、回転するタイヤのホイールや扇風機の羽根、空から勢いよく落ちてくる雹や窓を伝う雨だれが、通常では考えられない程の接写で映し出され、それらの立てる音がまるでASMRの様に強調されスピーカーから鳴り響く。映画でも引用される東田直樹の言葉をここで幾つか参照してみよう。

 

「みんなは物を見るとき、まず全体を見て、部分を見ているように思います。しかし僕たちは、最初に部分が目にとびこんできます。その後、徐々に全体が分かるのです。」


「気になる音を聞き続けたら、自分が今どこにいるのかわからなくなる感じなのです。その時には地面が揺れて、周りの景色が自分を襲って来るような恐怖があります。」

 

物のかたちや音について、彼らが私たちといかに異なる捉え方をしているかが分かる。物をぼんやりとした全体ではなく、細部の集合として把握する事。記憶や経験の蓄積によって枠組みを設定し、そこに世界を当てはめようとする私たちに比べて、記憶や経験の蓄積という観念がない彼らは、世界の複雑さを複雑さそのものとして受け止めようとするのだ。自身が捉えた世界のかたち、あるいは音の美しさについて東田は言う。

 

「僕は時々、こんなに美しい世界を、みんなは知らないなんてかわいそうだと思います。それほど僕たちの見ている世界は魅惑的で、すばらしいものなのです。」

 

本作はその特異なカメラワークと音響処理によって、世界の新たな美しさを垣間見せてくれる。その美しさに気づく事が、私たちにとって何よりも大切な事なのだ。