事件前夜

主に映画の感想を書いていきます。

ロヘナ・ゲラ『あなたの名前を呼べたなら』

「んもう!この2人付き合っちゃえば良いのに!」

と、観客全員がやきもきしてしまう程、本作の主人公ラトナとアシュヴィルはお似合いのカップルである。しかし、2人の関係はなかなか進展しない。もちろん、想いを寄せ合う男女の恋が様々な障害によって簡単に成就しないのは恋愛映画のお決まりで、だからこそ観客は劇中の人物に感情移入し、最終的な決着ーそれがハッピーエンドであろうとなかろうとーにカタルシスを覚えるのだが、インドを舞台にした本作では、その障害は極めて困難で複雑なものとなっている。故に、本作は恋愛映画のフォーマットをなぞりつつ、大規模な経済発展を遂げたインドが未だに抱える歪みを露わにする。

では、その障害とはどの様なものなのか。単に、主人とメイドの身分違いの恋、というだけではない。その程度であれば、『プリティ・ウーマン』などいくらでも先行作がある。資産家と娼婦が結ばれるという方が主人とメイドより障壁は高いぐらいだろう。

ただ、こうしたシンデレラストーリーは結局、社会的に高い階層(主人=資産家)が低い階層(メイド=娼婦)を受け入れるか否かにかかっている。いくらジュリア・ロバーツが魅力的な女性であっても、リチャード・ギアが薔薇の花束を持って訪れなければ、物語は成立しない。昨今、我が国で量産されているティーン向け(スクール・カースト)ラブストーリー、例えば非モテ女子がイケメン男子と結ばれる、といった作品群も同様の構造を有している事が分かるだろう。つまり、シンデレラは王子様から声が掛かるのを待ち続けているのである。

しかし、『あなたの名前が呼べたなら』の主人公ラトナは、こうした王子様からの求愛を受ける訳にはいかないのだ。インドにおいては法的、宗教的な根拠が与えられた身分制度が確立していたが故に、制度が廃止された現在も、根強い差別が残っている。ヴァルナと呼ばれる身分制度と、そこから自生したジャーティと呼ばれる地縁集団の掟に縛られたラトナは、19歳で結婚し、数ヶ月後に夫に先立たれ未亡人となった。生まれ育った村の因習により、彼女は別の男性と再婚する事ができない。自由を剥奪され、夫の親族の所有物となったラトナはメイドの給金から夫の親族へ仕送りを続け、私の人生はもう終わった、と自嘲する。

そして、アメリカの自由思想を享受してきたアシュヴィルですら、彼女の苦悩に応える事ができない。なぜなら、ラトナのメイドとしての労働や下層民としての暮らしを看過し、享受してきたからこそ、彼を含むムンバイ富裕層の暮らしは成り立っているからだ。だから、ファッション・デザイナーを志すラトナが、高級ブティックに入った途端、警備員を呼ばれ追い出されてしまうのは当然なのだ。ムンバイ富裕層にとって、ラトナは商品の消費者ではなく商品そのものなのである。

この様に、ラトナを囲う2重3重の障壁は、インドの社会構造と強く結び付き、その経済発展をも支えている。こうした矛盾を抱えたまま、王子様とシンデレラが結ばれる事はないだろう。その呪縛から逃れる為に、ラトナはアシュヴィルを「旦那様」ではなく「アシュヴィル」と名前で呼ぶ。それはささやかだが、自らを軛から解き放ち、失われた尊厳を回復する為の、とても大切な一歩なのかもしれない。

大塚隆史『ONE PIECE STAMPEDE』

私は、『ワンピース』という漫画を読んだ事がない。アニメすらちゃんと観た記憶もない。登場人物の名前も、主人公のルフィしか知らない。要するに、この映画を観る資格など無い人間なのだが、小学5年生の息子に付き合って観に行く事になった。

どうやら本作は過去のエピソードに登場したキャラクターが一堂に会して強大な敵と戦うという、『アベンジャーズ』の様なストーリーになっていて、ファンにとっては感涙ものの作品らしい。

しかし、私にはもちろんほぼ全員が初見である。必要以上にアクの強いキャラクターが次々と登場するが、何の思い入れも無いのでただ網膜の上を通り過ぎるだけである。ただ、誰がどう見ても勝新太郎田中邦衛にしか見えないキャラクターが出てきた時はびっくりした。しかも、勝新の方は明らかに座頭市みたいな格好をしている。これは、一体どういう事なのだろうか?別にその後、大映東映やくざ映画にオマージュを捧げたシーンがある訳でもない。スクリーンを見つめる子供たちはどう思っているのか?後で息子に訊いてみたが、「はあ?」と不得要領な顔をされただけだった。

という訳で、本作について書く事はもう何も無い。もちろん、これは私が悪いのだろうが、それにしたって私と同じ様な立場の親御さんも沢山いる訳で、もう少しその辺に気配りがあってもいいんじゃないかと思う。いや、もしかすると、さっきの勝新田中邦衛が私の様な人間に対するサービスなのだろうか?ますます、本作の立ち位置が分からなくなった。

後、主人公と敵がガチンコの殴り合いをしている最中、いちいち相手に向かって説教をするのは何なのだろう。誰も一人では生きられないとか、そんな甘い考えじゃ生きていけないとか…そういうのはいらないと思うけどなあ。主人公がさっきまでボコボコにされていた敵に逆転勝ちをする過程でのロジックが無く、結局は正しい考えを持っている人間が強い、みたいな平板な価値観しか感じられないんだよね。世の中、そんなに甘いもんじゃないよ!現実には、やりたい放題で私腹を肥やす安倍みたいな奴が一国の総理大臣にまで上り詰めてるんだから!庶民がどうあがいたって巨大な権力を持った奴に踏み潰されるのがオチなんだ。そうした理不尽さに打ち勝つ為には、全く非合理で正しさのかけらも無い暴力が必要だという事をもっと子供たちに教えた方がいい。

深田晃司『よこがお』

池松壮亮が『だれかの木琴』に続き、年上の女に誘惑される美容師役を演じている。これは、どういう事なのだろう?深田晃司監督が『だれかの木琴』を観て自作に取り入れたのか?あるいは、年上の女に誘惑される美容師といえば池松壮亮、というのが日本映画界の共通認識なのだろうか?

まあ、それはともかく横顔という言葉には額面通りの意味の他に、「ある人の一般には知られていない側面」という比喩的な意味もある。ご覧になった方々は、この比喩的な意味で本作のタイトル『よこがお』を捉えているかもしれない。しかし、重要なのはやはり、この映画には人の横顔ばかりが映される、という事なのではないだろうか?

私達が誰かの横顔を見る時、その人物とは正対していない筈である。目と目を合わせる事なく、一方的な視線を送る私と、その視線を無視、あるいは拒否するあなた。自分に向けられた視線を受け止め、相手に視線を返す事から他者との交流が始まるとするなら、横顔とはそうしたコミュニケーションの不在を象徴しているのである。

ならば、本作の会話場面において切り返しという手法が慎重に取り除かれているのも納得できるだろう。二人の人間が向かい合っている場面を一人ずつ別々に撮影し、会話の進行に合わせて繋ぎ合わせる切り返しショットは、別撮りされた2人がまるで見つめ合って話しているかの様に、存在しない筈の視線をねつ造する。他者とのコミュニケーションの不可能性を描くこの映画とは、齟齬を来す演出法だと言える。

映画の冒頭から、美容室の鏡を通して視線を送り合う筒井真理子池松壮亮は、やがて筒井真理子池松壮亮の部屋をストーカー的に観察する、という不健全な視線の関係を経て、遂には一夜を共にする事になるのだが、その別れの場面で男を見つめる筒井真理子を正面から映したショットの後、池松壮亮は切り返しショットの成立を恐れるかの様に、背を向けてしまうのである。他者と視線を交わしあう事への恐れ。筒井真理子に同性愛的な親しみを抱く市川実日子ですら、それは同じである。喫茶店筒井真理子に語学を教わっている彼女は、いつの間にか筒井真理子の隣に席を移し、正対する位置関係から逃れようとする。その結果、対面の席で2人の視線を受け止める事になった小川未祐は、まるでその罰であるかの様に、須藤連のガラス越しの視線に絡め取られてしまうのだ。

実は、筒井真理子市川実日子を切り返しショットで捉えたシーンが皆無という訳ではない。しかし、その代表的な場面である夜の公園でのシーンにおいて、市川実日子の顔は逆光によって黒く塗り潰されている。その時、彼女がどんな表情をしていたのか。もし、筒井真理子がそれを知る事ができていたのなら、自身を待ち受ける過酷な運命から逃れられたのかもしれない。

デビッド・リーチ『ワイルド・スピード/スーパーコンボ』

シリーズ累計興収5,000億円を突破した、『ワイルド・スピード』シリーズ初のスピンオフ作品。あくまでカーアクションをメインに据えている本編に対し、本作はドゥエイン・ジョンソンとジェイソン・ステイサムという毛色の異なるアクションスターそれぞれに見せ場を用意した、ハイブリッドな格闘アクションがメインである。その意味で、『アトミック・ブロンド』のエクストリームなアクション演出で名を挙げたデヴィッド・リーチに監督を任せたのは正解と言えるだろう。

本編は残り2作で完結と予告されているが、こうした番外編の登場はシリーズの延命を図りたいという、作り手側の事情を感じさせる。『スター・ウォーズ』やMCUに比肩するコンテンツになった本シリーズを、そう簡単に終わらせる訳にはいかないのだろう。シリーズ出演者の中にはシリーズが拡張されていく事で正統続編の製作が遅れる事を懸念し、本作の製作発表時にネガティブな感情を持つ者もいた様だ。ただ、本作は全くの番外編という訳でもなく、本編で描き込み不足だった部分を補完する役割も果たしている。

本編ヴィン・ディーゼル演じるドミニク・トレッドに代わり、本作では元FBI捜査官ホブスと元MI6の情報員デッカード・ショウの2人がW主演を務める。しかし、ホブスはともかく、このショウというキャラクターについてはシリーズファンほど割り切れないものを感じている筈だ。シリーズ7作目にして最高傑作『ワイルド・スピード SKY MISSION』で最強最悪の敵として初登場した彼は、ドミニクと激しい死闘を繰り広げるも、次作の『ワイルド・スピード ICE BREAK』では拍子抜けする程あっさりとドミニクの仲間に加わってしまう。まだその事も十分に納得してないのに番外編の主役まで任せられるとは…ファンが戸惑うのも仕方がない。

もちろん、過去作で敵対していた人物をドミニク・トレットが脈絡なく仲間に迎え入れ、彼自身を家父長とするファミリーをどんどん拡大させていくのは本シリーズの特徴であり、ここまでの大ヒットとなった要因のひとつでもある。そのご都合主義的な説得力の無さを、これまではヴィン・ディーゼル=ドミニクの「人柄の良さ」だけで乗り切ってきた。「まあ、ドミニクさんがそう言うなら仕方ないか」みたいな感じである。しかし、このショウに限っては『ワイルド・スピード SKY MISSION』において、ハンという人気メンバーを殺害しているという点が引っ掛かり、どうもモヤモヤした気持ちが拭えないのだ。「いくらドミニクさんでも、こればっかりはねえ」と愚痴のひとつも言いたくなる。

それを受けてだろうか、本作ではショウが複雑な家庭の問題を抱えており、生来は優しい人間である事を全編にわたってアピールしている。ドミニクだけでなくショウの「人柄の良さ」で押し切ろうとしている訳だ。この補足(というより、単なる言い訳だが)はある程度成功していると言えるだろう。おそらく、本編次回作では「ドミニクさんもああ言ってるし、ショウって人も案外いい人らしいし、まっ仕方ないか」という風に、ファンも受け入れてくれるのではないか。

ただ、本作のSF的な設定は本編にどの様な影響を及ぼすのだろう。確かに、『ワイルド・スピード』シリーズは追うごとに荒唐無稽の度合いを増しており、『ワイルド・スピード ICE BREAK』でも「ハッカーってこんなに何でもできるのだろうか…」と思ったものだが、本作の設定はもはや一線を超えている。いくらスピンオフといってもその世界観は共有している訳で、ここまでくれば本編にもそれなりのスケールの敵、何だったら宇宙から飛来したエイリアンとか太古から蘇ったモンスターぐらい出さないとショボく見えてしまうと思うのだが…エイリアンに車が運転できるかどうかはともかく。

 

あわせて観るならこの作品

 

 『ワイルド・スピード』シリーズは1作目から順を追って観るのがお勧め。登場人物がどんどん増大し(もちろん、バランスを取る為に退場するキャラクターもいるが)、MCU並みのユニバースを形成していく過程が楽しめる。

何か面白そうな映画ある?(2019年8月前半)

あるよ。という訳で、お盆休みの間に観に行きたいと思っている映画をご紹介。

 

ロヘナ・ゲラ『あなたの名前を呼べたなら』

インドの階層社会を背景にしたラブストーリー。主人公がファッションデザイナー志望という事で衣装にも注目したい。それにしても、もうこの手の邦題は勘弁して欲しい。どこから始まったんだ?

 

イム・ジンスン『守護教師』『新感染 ファイナルエクスプレス』でゾンビを素手でぶちのめす活躍を見せたマ・ドンソクが女子高の体育教師を演じるサスペンス。とりあえず、マ・ドンソクが誰かを素手でぶちのめしてくれたらそれだけで満足する自信がある。

 

デビッド・リーチ『ワイルド・スピード/スーパーコンボ

ドウェイン・ジョンソンジェイソン・ステイサムのW主演、しかも監督が『アトミック・ブロンド』『デッドプール2』のデビッド・リーチとくれば面白くない訳がない。心配なのは、スピンオフの本作が面白すぎてこれから予定されている本編が霞んでしまう事ぐらいか。

 

ヴィム・ヴェンダース『世界の果ての鼓動』

もう、ヴェンダースの映画に何かを期待する事自体がナンセンスなのかも知れないが…ま、一応。

 

フランソワ・シマール他『サマー・オブ・84』80年代オマージュ満載の青春ホラー。私はNetflix未加入なので『ストレンジャー・シングス』を観る事ができない。だから、これで我慢する。

ナディーン・ラバキー『存在のない子供たち』

万引き家族』を観て反日映画だ何だと騒いでいた輩も、本作は素直に受け入れられるだろう。なぜなら、この映画の中で描かれているのは、彼らが実情を知る由もない(知ろうとしない)遠く離れたレバノンの貧困問題だからである。

しかし、強制帰国を恐れ、子供の存在を隠したまま不法就労を続けるエチオピア難民ラヒルの姿に、我が国の外国人技能実習生を重ねる事ができる。彼らは、家族の帯同を許されていないが故に子供が生まれた場合は帰国しなければならない。なかには勤め先から堕胎するか帰国するかの二者択一を迫られるケースもあるという。恋をし、子供を設ける。この人間にとって至極あたり前の行為すら許されていない人々は現実に存在する。貧困や宗教対立、国家間の紛争によって住む場所すら奪われた彼らは、新自由主義が席巻する資本主義の残酷なシステムに否応なく飲み込まれてしまう。これは、レバノンだけの問題ではないのである。

『存在のない子供たち』というタイトルが示す通り、主人公ゼインは親が出生届を申請しなかった為に、法的には生まれていない事になる。彼は教育すら受けさせてもらえず、幼少時より過酷な労働を強いられ、まさに労働機械=ものとして生きているのだ。その彼が、親を「自分を生んだ罪」によって両親を告発するショッキングな場面から映画は始まるが、しかし、本作はこの両親を人でなし(毒親)として糾弾するだけの映画ではない。

確かに、ゼインの両親は親としての務めを全うせず、生活の為に11歳の娘を嫁に出してしまう様な人間である。本来、親にとっての子供とは何物にも替え難い「交換不可能」な存在である筈だ。しかし、貧困に喘ぐ人々はそうした価値観すらすり減らし、やがて子供を「交換可能」な商品として消費せざるを得ない。その際、人間が本来有している筈の権利や身分など、「交換」という経済活動にとって邪魔なだけだろう。

本作に登場する人身売買のディーラーが、就労ビザなど身分証明書の偽造にも手を染めているのは当然である。「交換不可能」なものを「交換可能」な商品に変え、流通させる事が彼の仕事だからだ。しかし、それこそが資本主義が本質なのではないだろうか。私たちは、「交換不可能」な筈の自然から、数多の商品を作りだし流通させてきた。ゼインの母親は子供を「神からの授かりもの」と捉え、妊娠する度に神に感謝している。彼女が抱える矛盾を、私たちも共有しているのだ。

ナディーン・ラバキーは、レバノンのストリートで暮らす人々を俳優として採用し、フィクションとノンフィクションが混ざり合った様な不思議な映画空間を作り出している。色彩の変化に乏しいレバノンの街を衣服や食物の原色で彩りつつ、光り輝く遊園地の風景を対比的に登場させるなど、色彩設計の確かさが映画に救いを与えている。

 

あわせて観るならこの作品

 

誰も知らない

誰も知らない

 

 是枝裕和作品なら『万引き家族』も良いが、こちらもお勧め。まさに「存在のない子供たち」をテーマとして扱っている。YOUのキャラクターを活かした配役がお見事。

 

 これも「存在のない子供たち」テーマと言える。子供たちの困窮した生活と対比する形で遊園地が登場するのも共通している。

ユン・ジョンビン『工作 黒金星と呼ばれた男』

ネクタイピンの裏に刻まれた言葉、「浩然の気」。孟子によると、それは正しい行いをした際に身中から発する気であり、正しく育てればやがて天地に満ちるという。つまり、個人が正義を貫徹すれば、それは世界をも変革する大きな力となる。まさに、この映画に相応しい言葉だが、しかし、この場合の正義とはいったい何なのか。国家、個人によってその価値観は異なり、人はその立場や環境によって都合のいい正義を振りかざす。逆に「浩然の気」という、絶対的な正義が存在するという考えそのものがイデオロギーの対立を生んでしまう原因なのではないか。
本作の主人公パク・ソギョンもまさに、この正義をめぐる矛盾に巻き込まれ、やがて祖国から二重スパイの嫌疑を掛けられる。身分を偽る=「ふりをする」のがスパイの任務であるならば、二重スパイとは「ふりをするふりをする」存在と言える。その時、スパイは政治的イデオロギーだけではなく、個人のアイデンティティすら揺らぎ始める筈だ。彼は二国間の正義に挟まれ帰属するべき場所すら見失い、やがて破滅する。
しかし、パク・ソギョンは決して破滅する事なく、祖国に裏切られてからも広告会社の事業主として生き延びる事に成功する。スパイ活動の為に偽装した南北間の広告事業はやがて歴史的な実現を迎え、結果的に両国間の関係改善に資する役目を果たすだろう。つまり、本作で天地に満ちる「浩然の気」とは「資本の流入」という事なのである。裏金として流通していた資本を白日の下にさらけ出し、経済活動の一環として公然(浩然)と流通させる事。マルクス主義があくまで経済学として出発した事を考えれば、本作の(資本主義的)リアリズムは資本主義国である韓国の映画として圧倒的に正しい。パク・ソギョンは本質的にそれを直観していたからこそ、北側の尋問によっても自らの正体を隠し通せたのだ。
本作には、巷のスパイ映画にある様な派手なアクションシーンや残酷な拷問シーンなどがいっさい無い。その意味で非常に地味な映画ではあるのだが、ロケ撮影などできる筈も無いピョンヤンの街並みや金正日の宮殿などを再現したシーンは、さすがに金が掛かっていると感じさせる。こうしたドライなテーマをきっちりエンターテインメントとして仕上げる手腕に、韓国映画産業の底力を感じた。金正日を含めた北側高官の描き方も非常に丁寧で、作り手の志の高さが伝わってくる。

 

あわせて観るならこの作品

 

 韓国映画界が優れたスパイ映画を作れるのは、未だに南北間の緊張関係を保持しているからなのだろうか。ならば、もはやハリウッドは冷戦時代を材に採り、過去から現在を逆照射する様な方法論でしかスパイ映画を撮り得ないだろう。本作はその成果のひとつである。