事件前夜

主に映画の感想を書いていきます。

イ・ビョンホン『エクストリーム・ジョブ』

いやいや、とにかく楽しい映画だった。解散寸前のうだつの上がらない麻薬捜査班が、麻薬組織への潜入調査の為に、近所のフライドチキン屋を買い取り(この時点で既におかしいのだが)目くらましに商売を始めたは良いが、思いのほか店が繁盛して捜査どころではなくなってしまう、というアイデアだけでも最高なのだが、次々と繰り出されるギャグのどれもレベルが高く、私が鑑賞した映画館の中は最後まで笑いが絶えなかった。
人気ドラマ『ブレイキング・バッド』あたりが元ネタなのだろうが、そこからよくこんな馬鹿々々しい話をひねり出したものだ。押し寄せる客の対応に忙殺されているうちに、捜査班の面々にチキン屋としての自覚が生まれていく展開は、まさに捧腹絶倒ものである。しかし、実はこの点こそが本作のミソであって、彼らがチキン屋の仕事に没頭するとひょんな事から捜査が進展し、そこで職務を思い出して捜査を再開するや否や、間抜けなアクシデントが起こってまた振り出しに戻ってしまう、という構成になっている。要するに、彼らがチキン屋である時は捜査が進み、逆に麻薬捜査官である時は捜査が停滞する、という風に最後までボタンの掛け違ったまま、物語が進展していくのだ。だから、観客は矢継ぎ早に繰り出されるギャグに大笑いしている間に大団円に立ち会う事になる。
捜査班の面々はどれもキャラクターがしっかり立っていて、そのコントの様な掛け合いを観ている内に彼らの事をどんどん好きになってくる。だからこそ、最後のアガる展開には思わず手に汗握ってしまう。特に、『犯罪都市』や『守護教師』ではコワモテのマフィアを演じていたチン・ソンギュと、本作が商業映画初出演のコンミョンは、最後までボケ役に徹していて、それが見事にハマっていた。

2019年公開映画ベスト10

12月公開の映画を1月に入ってからも追い掛けていたので遅くなったが、2019年の個人的ベスト10を書いておく。日本での公開日が2019年の作品に限り、4Kデジタル版などのリマスター作品は除外した。
 
 
①を2019年のベスト1に挙げる人はほとんどいないと思うが、個人的には最も心を動かされた1本。ここまでトチ狂った物語に、なぜこんなにも泣かされてしまうのか。②は現代にフェリーニが蘇ったのかと驚かされた1本。キュアロンの映画はほとんど観ていないのだが、ハリウッドでエンターテインメント映画を手掛けていた監督がここまでの作品を撮ってしまうとは。イ・チャンドン久々の新作である③は、村上春樹の原作をきっちりと踏まえながらも徹頭徹尾、韓国映画として撮られている点に感心するばかり。3時間半にわたって図書館員が働く姿をただ映しているだけの④に、なぜこんなにも興奮させられるのか。観終わった後、とにかく元気になれる映画だった。ほんわかした恋愛映画かと思いきや、難解とも思えるラストに唖然とさせられる⑤、史実に基づいた犯罪実録ものかと思いきや、噴飯もののラストに爆笑させられる⑥、どちらも作り手の志の高さが窺える。ロジャー・コーマンの門下生であり、映画の見世物としての側面について誰よりも熟知しているマーティン・スコセッシが、初めて映画の興行成績に背を向けて製作した⑦は、今後の映画のあり方について再考を促す傑作。⑧は反対に、見世物としての映画に徹底してこだわった快作だった。アレクサンドル・アジャは、やはり信頼できる。⑨は深田晃司の『よこがお』と入れ替えようか最後まで迷ったが新人らしい勢いの良さを評価して。⑩は努力賞。頑張ったね。
この10本を統括したテーマとか共通点、などは全く無い。私はそういう独りよがりのでっち上げが嫌いなので。それにしても、今年は劇場での鑑賞100本を目標にしていたのに、結局未達のまま終わってしまった。気になっていたにもかかわらず見逃してしまった映画も多い。来年こそもう少し時間が取れればいいのだが…

マーティン・スコセッシ『アイリッシュマン』

マーティン・スコセッシMCU映画についてのコメントを求められ「あれはテーマパークの様なもので映画ではない」と述べた事が色々と物議をかもした様である。ジェームズ・ガンを始めとしたMCU関係者からの反発がある中、フランシス・フォード・コッポラはあくまでスコセッシを擁護しMCU映画について「ひどいものだ」と、更に手厳しい評価を下していた。しかし、スコセッシとコッポラのMCU映画批判は、少々論点がずれている様にも思う。コッポラが作品の質を問題にしているのに対し、スコセッシは作品の質を不問に付す様な、興行体系そのものについて疑問を呈しているからだ。
既に、MCU映画は個々の作品について出来不出来が問われる段階にはない。観客が気にしているのは、自分の観ている映画がマーベル・シネマティック・ユニバースという、「大きな物語」の中でどの様な位置を占めるのか、という点だけだからだ。もちろん、製作陣は映画単体としての質を向上しようと懸命な努力を続けているのだろうが、それとは全く別の問題なのである。スコセッシがMCU映画をテーマパークに近い、と述べているのは、この意味で正しい。例えば、ディズニーランドにおいて、各アトラクションの出来不出来が問題にされる事はない。それは、ディズニーが提示する「大きな物語」を構成するひとつのピースとして消費されるだけだからだ。
俳優陣の自然な老いを表現する為に、VFXによる映像加工を採用した本作は、製作費が大幅に膨らんだ為にNetflixに資金提供を仰ぐ事となった。その契約上、映画館での上映はごく短期間に限られ、Netflixによるストリーミング配信が主な公開手段となる。その分、映画館の回転率を考慮しなくて済む為、スコセッシは上映時間3時間半の大作を作り上げる事ができた。既存の映画館がテーマ―パークのアトラクションに変貌した現在(4DX上映などはその最たる例である)、こうしたサブスクリプションサービスがスコセッシやコッポラの考える「映画」の受け皿となっていくのだろうか。色々と考えさせられる事態である。
さて、膨大な製作費と3時間半という上映時間をつぎ込み、1975年のジミー・ホッファ失踪事件を軸に、キューバ革命ジョン・F・ケネディ暗殺、ウォーターゲート事件など、これまで何度も映画化されてきた史実を織り込みながら、1950年代から続くアメリカの影の歴史を描く『アイリッシュマン』は、それではMCUに匹敵する様な「大きな物語」を私たちにもたらしてくれたのだろうか。そうではない。スコセッシが描いたのは、時代に翻弄されながらも自らの道を切り開くべく闘い続けた一人の男の末路、というあくまで「小さな物語」なのである。
ロバート・デ・ニーロ演ずるフランク・シーランが、全米トラック運転手組合の委員長ジミー・ホッファとマフィアのボスであるラッセル・バッファリーノに取り入り、一介のトラック運転手からアメリカ社会に影から大きな影響を与える人物にまで成り上がっていく様を、スコセッシは緩急自在に語っていく。膨大な量の情報を詰め込みながら、最後まで圧倒的なスピードで突っ走る『ウルフ・オブ・ウォールストリート』などと比べれば、円熟の極みに達した様なゆったりとした語り口ではあるものの、そこかしこに映画的滋味が含まれており、決して観客を飽きさせる事がない。特に感慨深いのは、ラストシーンを含め、映画の要所に挿入される「半開きのドア」のショットである。たったこれだけの道具立てで、スコセッシはフランク・シーランが生涯で何を得て、何を失ったのかをはっきりと示している。
こうした細部の積み重ねによって、『アイリッシュマン』はアメリカが辿ってきた血と暴力の歴史をフランク・シーラン個人の物語へと収斂させていくのだ。虚構が単一のそれとして強度を保ち得ず、単数から複数へ、ねつ造された関係性によって繋がり「大きな物語」を復活させようとしている現代において、マーティン・スコセッシの複数から単数へと向かう孤独な歩みを、決して見逃すべきではない。

 

あわせて観るならこの作品

 

グッドフェローズ (字幕版)

グッドフェローズ (字幕版)

  • 発売日: 2013/11/26
  • メディア: Prime Video
 

スコセッシの代表作であり、ギャング映画の金字塔。今作と時代的にも重なる部分があります。

 

Once Upon a Time in America (字幕版)

Once Upon a Time in America (字幕版)

  • メディア: Prime Video
 

ロバート・デニーロ主演の裏アメリカ史を描いた映画といえば、やはりこの作品は外せない。後年、アメリカ映画に接近していったセルジオ・レオーネの傑作。

ジェイク・カスダン『ジュマンジ/ネクスト・レベル』

f:id:news23:20200114155445j:plain

https://www.jumanji.jp/

1995年公開のオリジナル版『ジュマンジ』は、コマの止まったマスに書かれた事が実際に起こってしまう、呪われたボードゲームが巻き起こす騒動を描いた楽しい映画だった。虚構が現実を侵食する、という意味で、オリジナル版は『ポケモンGO』の様なAR(拡張現実)ゲームの登場を先取りしていた、と言えるかもしれない。
それに対し、2017年に公開されたリブート版『ジュマンジ/ウェルカム・トゥ・ジャングル』では、ボードゲームからTVゲームに進化し、プレイヤーは全員ゲームの世界へ否応なく吸い込まれてしまう。つまり、AR(拡張現実)からVR(仮想現実)へとゲームの内容が変わった訳だ。
ARからVRへ、という変化がゲームにとって進化なのかは分からない。実際、一時は話題になったVRゲームも、高額な本体機器や専用ゲームのクオリティのバラツキがネックとなり、なかなか普及が進まないでいるし、逆に『ポケモンGO』や『ドラゴンクエストウォーク』の様なARゲームの方が多くの支持を得ているからだ。映画としても、全く架空の世界を描いたリブート版より、現実世界に猿とかサイの大群が登場するオリジナル版の方が(特撮技術の時代的限界はさておき)面白いビジュアルを実現していた様に思う。
ただ、リブート版の主眼は、そこには無いのである。ゲームの世界に取り込まれた主人公たちは、現実そのままの姿ではなくゲーム開始時に選んだキャラクターへと変貌している。気弱なオタク青年はマッチョな冒険家に、SNSで自撮り画像をアップするリア獣女子は、チビでデブの中年男に、コミュ症気味の陰キャ女子はセクシーな女格闘家に、マッチョなアメフト選手はひ弱な動物学者に、という風に彼らは本来のパーソナリティをはく奪され、ゲームの設定に準じたロール(役割)を演じる羽目になるのだ。
このアイデアが、ネットワーク社会における匿名的なコミュニケーションに着想を得た事はすぐにお分かりだろう。例えば、MMOなどのオンラインゲームではゲーム開始時に自分の好きなアバターを選択、あるいは作成できるものが多い。そこでは、女が男に、老人が子供に、ひ弱なオタク青年がゴリゴリのマッチョに変身する事ができるのであって、仮想世界の中でプレイヤーは新たな自分として生きる事が可能となる。
そして『ジュマンジ/ウェルカム・トゥ・ジャングル』では、この経験こそが主人公たちを大きく成長させる事になるのだ。元々持っていた(と、思い込んでいる)パーソナリティを失い、全く別の人物として生きる事で、いつの間にか築いていた偏見や思い込みから解放され、自身や他者への新たな眼差しを獲得する。これこそ、実はオリジナル版『ジュマンジ』も持っていたテーマであり、リブート版はその志を受け継ぎ、TVゲームというフォーマットを利用してよりはっきりと描いている。例えゲームであろうと、その中で得た知識や経験、何かを成し遂げた自信は無駄ではないのだ。それは、現実の自分を変革する因子となり、心や身体に刻み込まれる。眼が悪くなるだの、頭が悪くなるだのといった無理解と戦いながら、いつの間にか中年ゲーマーとなった私には、これはなかなかに刺さるメッセージであった。
リブート版第2作目について語るスペースが無くなってしまった。続編は新たなキャラクターやステージが追加され、またジョブチェンジのシステムまで取り入れられた為、ゲームは更に複雑さを増し、主人公たちが繰り広げるドタバタ劇は更に混迷を極める。前作ほどの新鮮さは無いが、まあ順当な続編といったところだろう。TVゲームだって、この程度の追加要素でいくらでも続編を作ってきたのだし。それと、前作のラストで処分した筈のジュマンジを主人公がこっそり持ち帰っていて、里帰りした際にそれを起動させてしまう、という導入部にはゲーマーとして唸らされた。つまりこれ、久しぶりにレトロゲームをプレイしてみたくなる、ゲーマー心理というやつでしょう。昔ハマったゲームをまた遊ぶ事で、あの頃の自分に戻れるかもしれない、というのも非常によく分かる。この主人公の行動が不自然だというやつは、ミニスーファミメガドラミニも買った事がないのだろう。俺はどちらも持っている。

 

あわせて観るならこの作品

 

ジュマンジ (字幕版)

ジュマンジ (字幕版)

  • 発売日: 2013/11/26
  • メディア: Prime Video
 

今見るとさすがに特撮はショボイが、ロビン・ウィリアムスの怪演も含めて楽しめる1作。

 

ジュマンジ/ウェルカム・トゥ・ジャングル (字幕版)

ジュマンジ/ウェルカム・トゥ・ジャングル (字幕版)

  • 発売日: 2018/05/25
  • メディア: Prime Video
 

どうせつまらん焼き直しだろ、という大方の予想を跳ね返し、オリジナル版を大幅にアップデートした一作。オリジナル版を観ていた人へのサービスも盛り込まれている。

ジャファル・パナヒ『ある女優の不在』

家族からの反対にあい、女優への夢を絶たれた少女が将来を悲観し、洞窟内で首吊り自殺を図るまでの動画を突然送り付けられた人気女優ジャファリと映画監督のパナヒが、少女の行く末を案じ、その顛末を調べる為にイラン北西部のサラン村へと向けて車を走らせていると、その前方に曲がりくねった狭い道が現れる。たまたま通り掛かった老人によれば、山岳上にあるこの道は2台の車がすれ違う広さが無い為に、車が道を通る場合は事前にクラクションを鳴らし、互いに合図を送りあう決まりになっているという。クラクションはその鳴らす回数や長さによって、符牒の様に意味を変えるので、予めルールを理解していないと相手のドライバーに自分の意思を伝える事ができない。初めて村を訪れようとするジャファリとパナヒは、偶然に出会った老人が教えてくれなければ、村に辿り着く事すらできなかっただろう。映画は、このシーンだけで女優と監督が向かおうとしている村がいかに排他的な場所であるかを簡潔に指し示す。
だから、マルズィエという名の女優志望の少女の前に立ち塞がるのも、やはりこの道なのである。この村で車を使うのは、農作物や家畜をトラックで運ぶ男たちだけであり、女として生を受けた者はこのクラクションによる符牒を生涯知る事がない。彼女たちは男たちの許しを得て、他所の村へ嫁ぎに行く時ぐらいしか、この道を通って村を出る事ができないのだ。マルズィエが夢見る、進学や女優への道の為に、男たちが符牒を教える筈もない。
山岳部を走る曲がりくねった狭い道がマルズィエにとって未来への道であるとするなら、村に蟄居するかつての大女優シャールザードにとって、その道は過去へと通ずるのだろう。イラン革命後に一切の演技を禁じられた彼女は、今や村の中で白眼視される存在として日々を送っている。シャールザードが曲がりくねった狭い道を通って首都テヘランに戻り、再び女優に返り咲く事は現在のイランでは不可能なのだ。
過去、そして未来への道を絶たれた女たちの狭間で、女優として現在を生きるジャファリだけがその道を行き来する事ができる。しかし、それは永遠に保証された権利なのだろうか。結局はそれも、男たちの許しによって与えられた、期限付きの特権ではないのだろうか。
ジャファル・パナヒは師キアロスタミから受け継いだ長回し撮影によってイランの現在をゆっくりと写し取りながら、そこに過去と未来という時制を重ね合わせ多層的な空間を生み出している。そこから浮かび上がってくるのは、表現する事を禁じられた女たちが、一方的に押し付けられた運命に抗おうとする、懸命の身振りである。本作に登場する3人の女優のうち、ジャファリとマルズィエが実名で登場するのに対し、国に演技を禁じられたシャールザードには代役が立てられ、映画の中でもその姿がはっきりと映し出される事はない。その事実は、女優としての彼女の不在を示しているのだろうか。しかし、彼女が自ら書いた詩を劇中で朗読する時、私たちは彼女の実在をはっきりと感じとった筈なのである。

イ・サングン『EXIT イグジット』

韓国で観客動員940万人の大ヒットを記録した本作、ジャンルとしては高層ビルを舞台にしたディザスター・ムービー、という事になるだろうか。まあ、この手の映画は昔から色々ある訳です。『タワーリングインフェルノ』とか、最近では『スカスクレイパー』など、高層ビルで起きた大規模火災が事件の発端となる作品が多いと思うが、本作では火の代わりにテロによる有毒ガスが主人公に襲い掛かる。このガスは比重が軽く、時間が経つとどんどん上昇してくるので、自ずと主人公たちは高いところ、高いところへと登り続けねばならない。そこにサスペンスが生まれる訳だ。もちろん、火だって同じ特性を持っているのだから、基本的な構造はこれまでの火災系ディザスター・ムービーと同じと言って良いだろう。監督、脚本を手掛けるイ・サングンは、そこにひとひねり、ふたひねりを加えていく。
本作は、主人公のカップルを元山岳部員に設定する事で『クリフハンガー』の様な山岳アクションを都会のビル群の中で展開させていく。また、舞台を1棟の高層ビルに限定せず、複数の高層ビルの屋上を渡り歩いて逃げなければならない、という物語上の仕掛けを施し、垂直方向への移動のみならず、水平方向へのパルクール・アクション要素を無理なく導入している。こうした工夫が、映画に立体的な奥行きをもたらし、ありがちなディザスター・ムービーにフレッシュな魅力を与えているのだ。物語そのものは、女にモテない、就職先も決まらない筋肉バカが、失恋相手の女性と力を合わせて困難に立ち向かう事で、ヒーロー性を獲得していく、という非常に分かりやすいものになっているのだが、『スカイスクレイパー』のドゥエイン・ジョンソンや『クリフハンガー』のシルベスター・スタローンの様な筋骨隆々のアクション・スターではなく、チョ・ジョンソクとユナ(ex.少女時代)という、普通っぽいキャストを起用しているので、2人の恋愛模様も含めて、観客は大いに親近感を持って物語に接する事ができる。大ヒットも当然の結果だろう。
個人的に感心したのは、劇中におけるドローンの使い方である。映画の中にドローンが登場する事自体は、今では珍しくもなくなったが、それではドローンを物語上どの様に活かしていくか、という点になると映画界は未だに模範解答を出せていない様に思う。そんな中、本作ではドローンに2つの役割を与えている。ひとつはカメラとして、もうひとつは主人公を助ける小道具としてのそれである。
先に挙げた『スカイスクレイパー』では、家族を救う為に高層ビルを登る主人公の姿がTVで生中継され、衆人の注目を集め熱狂させていく。この様な劇場型アクション映画は数多く存在するが、本作ではTVカメラの代わりにドローンのカメラが主人公を追い、ネットの動画配信によって中継されていくのである。確かに、この方が現代的な設定であるだろうし、そもそも危険の多い災害現場では、TVカメラよりドローンの方が撮影に適してもいるだろう。そして、主人公が絶体絶命のピンチに陥った瞬間、1台のドローンがカメラという立場を超え、積極的に事態に介入する事で主人公を窮地から救う事になる。この展開には、思わず胸が熱くなった。このドローンを操作していたのが誰なのか、劇中では明らかにされない。無数に存在する動画配信者の誰かなのだろう。カメラのこちら側と向こう側で、見知らぬ者同士が意思を疎通し繋がり合う。ネットワーク社会における匿名的なコミュニケーションの有り様をアクション映画のプロットに取り込んだ本作は、そのキーとなるドローンの活かし方という意味でも、凡百の映画とは一線を画す。実に巧みな脚本である。
それにしても、私も色々と韓国映画を観てきたが、映画の中で古希の祝いのパーティが開かれると、災害が起きたりヤクザが乱入してきたり、だいたいロクな事にならない。韓国人は古希の祝いに何か不吉な臭いでも感じ取っているのだろうか。

 

あわせて観るならこの作品

 

クリフハンガー (字幕版)

クリフハンガー (字幕版)

  • 発売日: 2014/11/01
  • メディア: Prime Video
 

シルベスター・スタローンと 『ダイハード2』のレニー・ハーリンがタッグを組んだ山岳アクション映画。脚本は大味だが、ダイナミックな空撮を取り入れた空間設計は、CG全盛の今ではなかなか味わえない臨場感がある。

 

スカイスクレイパー (字幕版)

スカイスクレイパー (字幕版)

  • 発売日: 2019/01/23
  • メディア: Prime Video
 

ドゥエイン・ジョンソン主演のディザスター・ムービー。こちらもかなりいい加減な脚本。ディザスター・ムービーに冤罪サスペンスの要素を盛り込んだはいいが、結局どっちつかずの話になってしまっている。

片瀬須直『この世界の(さらにいくつもの)片隅に』

こうの史代の原作を絵、ストーリーにとどまらず、その空気感までをもほぼ完璧に再現し、高い評価を受けた映画版『この世界の片隅に』だが、私は原作は読んでいたもののそちらの方は未見であった為、この改訂版の公開を楽しみにしていた。今回の記事を書くにあたり、遅ればせながら前作を観賞したところ、本作では遊女リンさんの挿話を中心に約30分のシーンが追加されている。『この世界の片隅に』の素晴らしさについては既に多くの人が語っているので、私は最新版に追加された要素を中心に感想を書いてみたい(以下、映画版『この世界の片隅に』を通常版、『この世界の(さらにいくつもの)片隅に』を最新版と呼ぶ)。

広島から呉に嫁いできた主人公すずと、呉の遊郭で働くリンさんとの出会いは『この世界の片隅に』という作品において重要な意味を持っていたが、通常版では上映時間等の都合もあったのか、そのあたりのエピソードがかなり省略されていた。その為、作中でのリンさんの扱いがいささか中途半端なまま終わっていた感がある。製作陣も忸怩たるものがあったのだろう、最新版では原作に沿った形でかなりの量のエピソードが追加され、作品世界の奥行きが更に増している。

それでは、すずとリンさんの挿話は物語上どの様な役割を果たしていたのか。ひとつは、夫である周作とリンさんの過去を知ってしまった事により、すずの心に疑いと嫉妬が芽生える過程を描く事で、物語に豊かな情緒性をもたらしていた点である。通常版では、この描写がすっぽり抜け落ちていた為、すずと周作夫婦の関係性がいささか幼く見えていた事は否定できない。最新版のアップデートによって、初めてすずは一人の女として成熟し、懊悩する事となった。本作の恋愛映画としての側面を補強するかの様に、すずの初恋(?)の人、水原との幼少時のエピソードがより細やかに描かれている事も見逃せない。

遊郭という性的搾取の場を描く事により、戦時下において、女たちがいかなる犠牲を強いられていたかを原作では明確に示していた。それは(従軍慰安婦に象徴される様な)戦地に限った話ではなかったのだし、男が働き女が家を守る、という旧弊な価値観が未だ生き残っている事を考慮すれば、現在にまで射程を伸ばす問題でもある。しかし、その様な状況下でもすずとリンさんは対照的な存在として描かれている。

ふとした事から妊娠したと思い込んだすずは、それが勘違いである事を医者に指摘され意気消沈する。しかし、その話を聞いたリンさんはすずの落胆ぶりに全く共感できない。彼女は子供を産む事のデメリットを滔々と並べ立て、すずを白けさせてしまうのだ。これは、結婚して跡取りを生む事こそ女の役割だと教え込まれたすずと、逆に子供を産んでしまえば遊女としての価値を失ってしまうリンさんの立場の違いから生まれた齟齬であろう。子供を産む事で女としてのアイデンティティが保証されるすずと、子供を産んだ瞬間に女としてのアイデンティティを喪失するリンさん。二人は共に搾取される立場でありながら、全く逆の価値観に支配されているのだ。この様な巧みな描き分けが、フェミニズム的観点においても本作に厚みをもたらしている。最新版は、原作にあったアクチュアルな問題意識を共有する事に成功したと言えるだろう。

最後に、これは映画版に限った事ではないが、『この世界の片隅に』は決してリアリティ一辺倒の作品ではない、という事を指摘しておきたい。戦時下の市井の人々の暮らしに対する綿密な取材に基づいた真摯な眼差しと、細緻なディテール描写がこの作品の魅力である事は間違いないが、すずと周作の出会いの場面や、すずとリンさんの出会いの場面など、主に幼少時のエピソードにおいて本作には民話的な要素が少なからず取り入れられ、不可思議な空気感を醸し出している。重要なのは、こうしたファンタジックな場面が、すずが作中で描いた絵として提示されている事だ。本作には、突然タッチが手描き風になったり、それを描いている手そのものが登場したりと、メタフィクション的な技法が多く取り入れられている。時限爆弾によってすずが右手を失った後は、作品全体がまるで左手で描かれた様に歪んだ描線になる、といった凝り具合である。こうした手法が、『この世界の片隅に』という作品の虚構性をより強調する役割を果たしているのだが、ここには原作者こうの史代の覚悟が示されていると捉えるべきだろう。

同じく広島の戦禍をテーマにした『夕凪の街 桜の国』のあとがきで、こうのは当初、戦争体験者でもない自分が「ヒロシマ」の物語を描く事に葛藤があった、と告白している。そして、「まんがを描く手」が「勇気を与えてくれ」た、とも。彼女は、「はだしのゲン」の中沢啓治や「火垂るの墓」の野坂昭如の様に、戦争を自分の体験として語る事はできない。しかし、虚構として、作りものとして語る事は可能である。たとえ現実そのものではなくとも、生み出された虚構は誰かの心を動かす力を持っている。すずが描いたスイカや南の島の絵が、リンさんや病に伏せる遊女の心を慰めた様に。戦後から75年が経とうとしている現在、戦争体験者は日に日に少なくなり、記憶の風化が危ぶまれている。残された私たちに出来るのは、「現実」と共にこうした「虚構」をも後世に語り継いでいく事なのかも知れない。

 

あわせて観るならこの作品

 

この世界の片隅に

この世界の片隅に

  • 発売日: 2017/04/26
  • メディア: Prime Video
 

通常版と最新版、そして原作の全てに触れて頂きたい。再見、再読に耐え得る作品である事は保証します。