事件前夜

主に映画の感想を書いていきます。

ジョーダン・ピール『アス』

ニューヨークの地下深く、幾重にも張り巡らされた下水道や廃棄された地下鉄のトンネルには、様々な理由から地上に住む事を拒否した人々が生活しており、その数は数千人にも及ぶという―

1990年代、ニューヨークタイムズの女性実習記者、ジェニファー・トスが決死の取材によって明かしたこの事実は、人々に大きな衝撃を与えた。そのルポルタージュは『モグラびと』という題名で日本でも翻訳出版されたので覚えている人もいるだろう。私たちが安寧な生活を営むその足下で、家族や財産を失った(あるいは捨てた)人々が暮らしている。それは、私たちを不安な気持ちにさせずにはおかない。いつか、自分も地下の世界へ堕ちてしまうのではないか。あるいは、地下に住む人々が地上に復讐しにやって来るのではないか―

こうした恐怖は映画の恰好のネタになる。クリストファー・ノーランダークナイトライジング』のヴィランは、まさに地下からやってきた復讐者だった。ロン・ハワード『身代金』の誘拐犯も自身を地下世界の住人になぞらえていた筈だ。有色人種でも共産主義者でも何でもいい、私たちは自分とは違う「何か」をモンスターに仕立てあげ、様々な物語を作り続けてきたのである。もちろん、ハリウッドがそうした物語の最大の供給元であった事は疑うべくもない。

ジョーダン・ピールの前作『ゲット・アウト』は、人々の排外主義的な心性をモンスターとして描いた、逆説的な傑作だった。時流にも乗ってアカデミー脚本賞まで獲得した後の新作が本作である。そのプレッシャーは並大抵のものではなかっただろうが、ジョーダン・ピールは再度ホラー映画のフォーマットを選択した。古典的なドッペルゲンガー譚をモチーフに、侵略SF的な要素を盛り込んでいる。

本作に登場するモンスターは、私たちが心の奥底に抱いている疚しさを体現した存在である。自分が今の暮らしを享受できているのは、誰かを犠牲にしたおかげではないのか。資本主義社会が公平な競争の結果として受け入れている不均衡を、神は許したもうのだろうか?その罪悪感を拭おうと、人は口先だけの「連帯」や「融和」を唱える。自分の生活に影響が無い程度に寄付をし、貧しき者に救いの手を差し伸べる。本作のエンディング、赤い服を着た人々が手を繋ぎどこまでも続いていくイメージは、とうの昔に否定した共産主義の記憶を喚起させつつ、それでもやはり私たちの似姿なのだ。

単純明快な『ゲット・アウト』に比べるとテーマはより掘り下げられ複雑になっている本作だが、その反面、ジャンル映画的な興奮には欠けるのが残念だった。また、最後のどんでん返しも含め、既視感のあるプロットやイメージがテーマの奥深さを阻害しているのは否めない。とはいえ、今後も注目すべき映画作家である事は間違いないだろう。

 

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ゲット・アウト(字幕版)
 

ジョーダン・ピールの名を一躍知らしめた傑作ホラー。現代的なテーマを盛り込みつつ、あくまでB級ホラーの恰好を保っているのも好ましい。これに比べると『アス』は最初から「良い映画」を目指してしまった様な…以前に感想を書いています。

マッテオ・ガローネ『ドッグマン』

主人公のおっさんがエスパー伊藤にすごく似てるなあ!というのが第一印象。馬鹿々々しい事を真剣にやる、好きな芸人だったのに…病気に負けず頑張ってほしい。映画と関係ないけど…
で、その気の弱そうなおっさん、マルチェロは寂れた海辺の町で犬のトリミングサロンを営んでいるが、昔からの悪友シモーネに強盗の手伝いや麻薬の手配などを無理強いされ、下働きの様にこき使われている。マルチェロはシモーネの誘いを何度も断ろうとするものの、いつも押し切られて損な役割を押し付けられてしまう。この男は「生まれながらの子分肌」なのだ。『ドラえもん』のスネ夫みたいなものである。すると、シモーネはジャイアンという事になるだろうか。他人には無差別に暴力を振るうが母親だけが唯一の弱点、というのもジャイアンと同じだ。マッテオ・ガローネは『ドラえもん』を読んでいたのだろうか?
マルチェロ自身は真面目なドッグトリマーとして、近所でもそれなりの信頼を得ているのだが、シモーネの強引な誘いを断り切れなかったばかりに、遂には全てを失ってしまう。この破滅の過程に至る、ほとんど狂気とも思えるマルチェロの従順ぶりが本作の見どころのひとつだろう。その姿はまるで忠犬ハチ公の様だ、と犬に例えるのも芸が無いが、とにかく彼はシモーネによって完全に調教されてしまっているのだ。この様な一方的な支配関係を描いた作品としては、埼玉愛犬家連続殺人事件に材を取った、園子温冷たい熱帯魚』が思い出されるが、『冷たい熱帯魚』同様に本作でも終盤に至り、この支配関係が一気に逆転する様な展開が起きる。
要するに、気の弱そうなおっさんがとことん酷い目に遭った挙句、ブチ切れて極端な暴力に走る、という意味では『冷たい熱帯魚』も『ドッグマン』もサム・ペキンパーわらの犬』のバリエーションのひとつと言える。しかし、主人公が逆襲する段になると観客も鬱屈した展開から解放され、大なり小なりのカタルシスを覚えるのがこの手の映画の常だが、それに対し本作の場合は少々趣が異なる。確かに、マルチェロは突発的な衝動によってシモーネに対する復讐計画を実行するのだが、『わらの犬』や『冷たい熱帯魚』の様に暴力をきっかけに人格が一変する訳でもなく、最初から最後まで気の弱いおっさんのままなのである。そもそも、彼の復讐計画そのものがこの手の映画としては物足りないというか、非常に微温的な内容なのだ。
従って、本作で印象に残るのは主人公マルチェロの一貫した変わらなさであろう。妻と離婚し、娘ともたまにしか会えなくなった彼は、犬だけが唯一の慰めだった。彼の心を支配していたのは、他者と関係性を取り結びたいという欲求である。彼が周囲に振り向ける愛想の良さも、シモーネに尻尾を振り続ける卑屈な態度も、全て心の底に抱えていた孤独から発しているのだ。
しかし、本作のラストシーンが示すのは彼が暴力によって取り戻したものなど何ひとつ無い、という残酷な事実である。マルチェロは、友の亡骸を抱えたまま、ただ呆然と佇むしかない。本作は、ただただ後味の悪い復讐劇として、ラース・フォン・トリアードッグヴィル』を思い出させる。

 

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わらの犬  HDリマスター版 [Blu-ray]

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「ブチ切れもの」映画の手本となった名作。ちなみにタイトルは『老子』から採った言葉で、映画に犬は出ません。出てくるのは猫です。

 

冷たい熱帯魚

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園子温の最高傑作だと思います。パッケージ写真からも『わらの犬』を意識しているのは一目瞭然。

ルイス・オルテガ『永遠に僕のもの』

この映画の一番の見どころは、やはり主演のロレンソ・フェロの魅力、という事になるのだろうか。個人的には、身体つきが全然締まってなくて、ぽっちゃり体形なのが良いね。何かこう、ムチムチしてて触りたくなる。
その主人公カルリートスは、盗癖があり同性愛者的な雰囲気を漂わせた青年で、ジャン・ジュネをイメージさせるキャラクターである。ブエノスアイレスで実際に起きた事件を下敷きにして、『泥棒日記』みたいな映画を作りたかったのかもしれない。
従って、映画自体は犯罪実録ものみたいなリアリティを重視したタッチではなく、もっと抽象性の高い、詩的なイメージの連なりで構成されている。オッサンの短パンからはみ出した金玉のアップとか、銃で胸を打たれた後も平気な顔で家中をウロウロした挙句、便器にじっと座ってるオッサンとか、頻繁に挿入されるよく分からないシーンが面白かった。映画の終盤で主人公が読む新聞記事が「養子仲介業者、毛を剃った猿を人間と称して斡旋!」というめちゃくちゃな内容で、しかもそれがどう考えても映画とは何も関係がない。素晴らしい。
もちろん、ポスターにある様ないかにも美少年映画、みたいなシーンもたくさんあるので、そちら方面の期待にもそぐわない出来だ。ただそういったシーンは、社会規範を無視した少年に堕天使的な聖性を見出す、という既存のイメージに頼りすぎている気もする。

何か面白そうな映画ある?(2019年9月前半)

あるよ。という訳で、9月前半に公開される注目作をご紹介。『アストラル・チェイン』が面白すぎて時間が…
 

快作『ゲット・アウト』のジョーダン・ピールの新作ホラー。とある家族の前に自分たちとそっくりの家族が突然現れるという、何となくシャラマンっぽい謎めいた設定。予告編だけで期待度MAXだったのだが、批評家筋の評判はあまり芳しくないらしい。それもシャラマンっぽいな。

 

田中征爾『メランコリック』

『アス』とは反対に観た人の評判がえらく高いのが本作。インディーズ映画としては破格の大ヒットとなった『カメラを止めるな!』に続けるか。いよいよ大阪でも公開されるので楽しみ。
 
スコット・クーパー『荒野の誓い』

『ゴールデン・リバー』の記憶もまだ新しい中、またウエスタン・ノワールに期待作が登場。スコット・クーパーの映画は今まで観た事がないんだけど、予習がてら『ブラック・スキャンダル』ぐらい観ておくか。設定がイーストウッドの『アウトロー』っぽい。
 
アダム・リフキン『ラスト・ムービースター』

トランザム7000』や『ロンゲスト・ヤード』で一世を風靡し(日本では全く人気無いが…)、『ブギーナイツ』ではアカデミー賞助演男優賞にもノミネートされたバート・レイノルズ最後の主演作品。何かA24っぽいな、と思ったらやっぱりA24製作だった。
 
まあ、こんなとこです。9月後半も続々と話題作が公開される模様。時間と金が圧倒的に足りない。

クエンティン・タランティーノ『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』

クエンティン・タランティーノが描いたハリウッド内幕もの、という事で話題の本作だが(世間的にはレオナルド・ディカプリオブラッド・ピットの共演、という事で話題なのかもしれない)、個人的にタランティーノはいつでも「映画についての映画」を撮ってきた、と思っている。その事は後で述べるとして、本作では1969年のハリウッドを舞台に、価値観の変動に大きく揺れ動く巨大映画産業の姿を描いている。
1950年代におけるスターシステムの崩壊や、マッカーシズムへの協力によって、その栄華に陰りが見え始めていたハリウッドは、60年代に入ると一般家庭へのTVの普及もあって、凋落の一途を辿っていく。ヒッピー文化の隆盛やベトナム戦争への反対運動など、社会が大きな変革を迎えていた時代に、ハリウッドの作る娯楽大作があまりに時代錯誤なものと見なされていた面もあるだろう。そして、新しい世代によるインディペンデントな低予算映画、いわゆる「アメリカン・ニューシネマ」が時代を席巻しようとしていた(『俺たちに明日はない』の公開は1967年)1969年の8月9日、その後のハリウッドに暗い影を落とす事件が起こる。チャールズ・マンソン率いるカルト集団が起こした、シャロン・テート殺害事件である。
とまあ、これぐらいの予備知識があればこの映画は十分に楽しめる筈だが、もうひとつ付け加えておくと、シャロン・テート事件は「アメリカン・ニューシネマ」を端緒とする、ハリウッド転換期の負の側面という見方もできる。狂ったヒッピー集団が、まだキャリアは浅かったとはいえハリウッドの人気女優を殺害した事、また彼らが数々の名作西部劇を生み出してきたスパーン映画牧場を根城にしていた事は、ハリウッドに舞台を移した「父殺し」の呪われた変種とも言えるからだ。
タランティーノが「アメリカン・ニューシネマ」以降の低予算映画、特にロジャー・コーマンが製作したエクスプロテーション映画に深い造詣を持っている事は誰もが認めるところである。映画史に残る名作だけでなく、泡沫の様に消えていったZ級映画についても該博な知識を持っている彼は、現代の映画作家において有数のシネフィルだと言えよう。彼の膨大な映画体験を以てすれば、過去のジャンル映画を再生産する事など幾らでもできる事は、本作に挿入された作中作の数々を観れば明らかである。
しかし、タランティーノはこれまで、その様なストレートなジャンル映画を撮ってこなかった。むしろ、撮れなかったと言うべきだろうか。過去の先行作品を大量に享受してきたからこそ、あらゆる創作物は既に作られてしまっている、という意識が作家自身を縛る。だから、タランティーノの映画はいつでも、いかにもB級映画然としたビジュアルや設定にもかかわらず、非常に屈折した複雑なものにならざるを得ない。『キル・ビル』における異常なまでの時間操作や『デス・プルーフ in グラインドハウス』の著しくバランスを欠いた構成も、ジャンル映画の枠組みを明らかに逸脱している。

現代において、50年代や60年代に作られた作品群が持っていた単純明解さにたどり着く事は不可能である。クエンティン・タランティーノは、ドン・シーゲルロバート・アルドリッチではないのだ。その諦念が彼に迂遠な回り道を選択させ、作品の上映時間はいたずらに引き延ばされていく。これは、タランティーノの才能の欠如を示すものではもちろんない。むしろ、タランティーノの様な屈折や衒いとは無縁に、過去の娯楽映画のコピーを楽しげに量産し続ける、ロバート・ロドリゲスの様な映画監督たちと彼を決定的に分ける美点である。
さて、長々と本作に直接関係のない事を書いてきたのは、この映画の内容について突っ込んだ事を言おうとするとどうしてもネタバレになってしまうからなのだが、とりあえず本作は『イングロリアス・バスターズ』『ジャンゴ 繋がれざる者』と3部作を為す、というかこの2作をくっつけだだけじゃねえか、という気もするが、上記2作を未見の方はあわせてご覧になるとより楽しめるのではないだろうか。話題の共演について触れておくと、レオナルド・ディカプリオ演ずるハリウッド俳優、リック・ダルトンの造形が非常に素晴らしかった。クエンティン・タランティーノドン・シーゲルロバート・アルドリッチではない、と先ほど書いたが、それに倣うとするなら、リック・ダルトンスティーブ・マックイーンにもクリント・イーストウッドにもなれなかった男である。彼のマカロニウエスタン初主演作の監督が『荒野の用心棒』のセルジオ・レオーネではなく『続・荒野の用心棒』のセルジオ・コルブッチというのがまた泣ける。また、ディカプリオに負けず劣らず、ブラッド・ピット演じるクリフ・ブースも良かった。『イングロリアス・バスターズ』ではなぜ主演に据えたのか疑問に思うぐらいにぞんざいな扱いだったが、本作はブラッド・ピットのキャリアの中でもベスト・アクトと言ってもいいぐらいの輝きを見せる。特に、クリフ・ブースがスパーン映画牧場を訪れる緊張感あふれたシーンは、まさに良質の西部劇そのものである。

 

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これがまたとんでもない映画でね…この作品ではゲッベルス体制下のドイツ国策映画のパロディを作中作として取り込んでいます。

ROADKILL SUPERSTARS『サマー・オブ・84』

80年代オマージュって、君らは『スタンド・バイ・ミー』と『グーニーズ』しか観た事ないのか?ホラー映画の知識も『ポルターガイスト』どまりなの?いや、もしかすると『地獄のマッドコップ』ぐらいは観てるのかも知れないが…
まあ、そういう訳でROADKILL SUPERSTARSの新作『サマー・オブ・84』にあまりマニアックな元ネタを探しても無駄である。本作はもっと大ざっぱに、80年代の映画が何となく漂わせていた雰囲気を再現する事に焦点が当てられているからだ。そうした観点から観てみると、ジョン・カーペンターを思わせるペラペラのシンセサウンドやズームアップの多用など、いかにもそれらしい。個人的にはヒロイン役のティエラ・スコビーが気に入った。絶妙なあか抜けなさと健康的なお色気がいかにも80年代映画のヒロインっぽいのである。
ただ、純粋にジュブナイル・ホラーとして観た場合に、本作はあまりにも定型をなぞり過ぎている為、どうしても先が読めてしまう。読めてしまう、というのはプロットレベルではなく、演出面のレベルにおいてだ。例えば、ホラー映画のお約束として、フェイクとしてのサスペンス描写、というのがある。殺人鬼に追いかけられた主人公が物影に隠れていると、コツコツと足音が聞こえてくる。息を吞む主人公。不気味なBGMが不安を煽るM。やがて、足音が止まりその主が姿を現す…と、それは殺人鬼ではなく街を散歩していた近所のおっさんだった、という様な肩すかし。色んな映画でよく観るでしょう。本作はこのパターンが非常に多い。しかも、それが「話の展開的にこれはフェイクだろうな」というシーン(パトカーが追いかけてくる場面とか)で入るものだから、観ている方も興ざめしてしまう。その手の演出は、80年代に限らず今でも多用される非常にオーソドックスな手法なのだから、お約束の裏をかく様な工夫が欲しかった。
また、青春映画としての側面も持っている本作は、登場する少年少女たちのほとんどが家庭内のトラブルを抱えている、という設定になっている。例えば、主人公の両親はいつも帰りが遅く、家族そろって食事をする機会がほとんど無い。加えて、母親は料理が苦手なのだろうか、主人公が食べているのは食パンやシリアルばかりである。その他に、アルコール依存症の母親を世話する少年や、両親の喧嘩が絶えず家に居たたまれない思いを抱いている少年、降ってわいた両親の離婚話にショックを受ける少女なども登場する。もちろん、こうした家庭環境に子供たちが傷つき、互いにその傷を慰めあうシーンは用意されているのだが、それがホラー映画のプロットと有機的に結びついていないので、単なる設定以上の効果をあげていない。結局、少年たちは各々の悩みをうっちゃって、連続殺人犯探しに奔走してしまうのである。
まあ、穿った見方をすれば、各々が抱えている内面の闇を押し隠していつ終わるとも知れない狂奔に明け暮れていたのが80年代なのだ、とも言えなくもない。主人公が夢中になっているオカルトやトンデモ陰謀論があの時代に大流行したのも、不毛な狂乱に倦み疲れた人々が、その果てにある「真実=リアル」を心のどこかで追い求めていたからなのだろう。本作でも「真実=リアル」を隠ぺいする存在として地下室の扉が象徴的に登場する。主人公にとって、この扉を開けシリアルキラーの正体を暴く事と、オカルトや陰謀論を頼りに世界の秘密を解き明かす事は同じ意味を持っているのだ。
もちろん、その扉を開けたところで「真実=リアル」に到達し世界の秘密が解き明かされる事などなかったという事は、80年代を通り越し、90年代、ゼロ年代すら通過してきた私たちは経験として知っている。1度くらい殺人鬼を撃退したからといって日常という物語は終わらない。『13日の金曜日』のジェイソンや『チャイルド・プレイ』のチャッキーは何度倒されても復活し、シリーズを重ねる中でポップ・アイコンと化していった。徒花の様に咲き誇った80年代のホラー映画群は、私たちの終わりなき絶望を体現していたのである。その様な意味で、本作の苦い結末はなかなか示唆に飛んでいると言えるだろう。

 

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処刑教室(字幕版)

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現代は『Class of 1984』です。1984年は町に殺人鬼が現れたり、ブチ切れた音楽教師が不良生徒を皆殺しにしたり、大変な年だった。

イム・ジンスン『守護教師』

「あー、むしゃくしゃする!誰でもいいからぶん殴りたいなあ!」
この国で生きていれば、誰しもこんな気持ちを抱いた経験がある筈だ。しかし、法治国家である我が国でそんな事を実行すればすぐに逮捕されてしまう。それ以前に、自分が殴り返されるかもしれないから怖くてできない。
だからこそ、私たちは映画館に行くのである。虚構の登場人物が殴ったり殴られたりするのをポップコーン片手に楽しみながら、己の暴力に対する底知れぬ衝動を解放するのだ。できれば、殴られる相手は自分が普段からムカついている、何の仕事もできないくせにこっちのミスに付け込んでネチネチ嫌味を言うクソ上司とか、そんな嫌な仕事をしてまで稼いだ金を税金という名目でむしり取って自分らは夜な夜な豪遊しているクソ政治家どもであって欲しいね!あんな奴らは生きている資格が無いから!
この映画にはそんなクソどもが次から次へと登場する。物語を追ううちに、理不尽がまかり通る世界で、絶望に打ちひしがれるしかない私たちの人生に対し怒りが湧いてくる。そんな想いを代弁するかの様に、悪人どもをぶちのめしてくれるのは、今や韓国を代表するアクションスター、マ・ドンソクだ。いいね、最高!スクリーンに彼が登場した瞬間、誰しも「ああ、この人はこれから誰かをこっぴどく殴るんだろうなあ」と予感せずにはいられない。そんな期待に応えるべく、マ・ドンソクは本作でも冒頭から飲み屋で乱闘を始めてくれる。高圧的なおっさんに腹パンを入れるこの痛快な導入部が実は物語の背景、なぜ元ボクサーである彼が女子高の体育教師に転職したのか、という説明にもなっているスマートな語り口。暴力映画とは常に暴力が物語の発端となり、暴力によって終わらなければならない。辛気臭いメッセージをだらだらのたまわって終わる映画なんてクソ喰らえ!そんな映画を観ただけで自分が成長した気になっているアホどもが集まった映画館に火をつけろ!焼け出されてくる観客に襲いかかれ!
緻密に設計された立ち回りや過激なゴア描写が盛り込まれる事の多い昨今の映画と比べ、本作のアクションはおとなしい部類に入る。マ・ドンソク演じる体育教師は、チェーンソーを振り回したり、鉄パイプで頭をカチ割ったり、そんな過剰な暴力を奮う訳ではない。元ボクサーという設定らしく、襲いかかってきた相手の攻撃を巧みにかわし、脇腹にボディーブローを入れるぐらいだ。サスペンス映画としてもひねりが効いているのか効いていないのかよく分からない展開だし、『ツイン・ピークス』みたいな謎めいた雰囲気を漂わせて始まった割に最後に明かされる真相がショボイ気もする。しかし、そんな古臭く地味な映画と言ってもいい本作にここまで興奮させられるのは、やはりマ・ドンソクが人を殴る姿に有無を言わさぬ説得力があるからだろう。彼が誰かを殴るだけで映画になる。そんな自信がスクリーンから漲っているのだ。
本作に限らず、韓国の犯罪映画には腐った政治家と汚職警官がよく登場するが、こうした設定に韓国の人々の激しい怒りが伝わってくるし、立場は違えどその怒りは私たちにも共有できるものである。だからこそ、クライマックスでマ・ドンソクが車中の悪玉をぶん殴らず、車の窓ガラスをぶち破っただけで終わったのは唯一の不満だ。ここはガラスと一緒に悪玉の顔をグチャグチャにして欲しかったのだが、マ・ドンソクとこの悪玉を隔てる窓ガラスこそが、今私達の前に立ちはだかる困難を象徴しているのかもしれない。何だそれ。

 

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マ・ドンソクも出演する、韓国産ホラー映画の快作。世界広しといえど、素手でゾンビをぶん殴れるのは彼しかいない。以前に感想を書いています。