事件前夜

主に映画の感想を書いていきます。

ジェームズ・マンゴールド『フォードVSフェラーリ』

タイトルに偽りありというか、『フォードVSフェラーリ』というタイトルの割に、フェラーリ側についてはほとんど描かれていない。60年代後半に名車フォードGT40によってル・マン4連覇を成し遂げたフォードの苦難と栄光の道のりが本作の主題である。
映画の序盤、破産寸前のフェラーリ社を買収しようとフォード社の重役がイタリア本社を訪れるシークエンスで、レーシングカーの組み立てを全て手作業で行うフェラーリ社の製造工程が紹介される。それは冒頭場面の舞台となるフォード社の製造工場の様子とは実に対照的だ。長年受け継がれてきた美学と職人気質のこだわりによって、1台1台に愛情を込めて車を完成させていくフェラーリ社と、徹底した管理体制によってオートメーションの大量生産に特化したフォード社。本来であれば、映画の主役としては前者の方が見栄えもするし、買収交渉が不調に終わった際、フェラーリ社の会長であるエンツィオは、フォード社の車を「醜い」と嘲笑さえするのだ。
確かに、優美な曲線で構成されたフェラーリ社のレーシングカーに比べ、フォードGT40のフォルムはいかにも泥臭い。そしてドライバーであるケン・マイルズもそのエゴイスティックな性格が災いして、スポンサーからも嫌われ職にあぶれていた不器用な男である。だからこの映画は、無骨な男たちが勝ち目の無い戦いに挑む、サム・ペキンパーの西部劇の様に見えてくる。
基本的にレース映画はアクション映画の系譜に属するので、これまでもジョン・フランケンハイマーレニー・ハーリンロン・ハワードといったアクション映画を得意とする監督の手によって数多くの作品が撮られてきた。その意味で、『ナイト&デイ』や『3時10分、決断のとき』のジェームズ・マンゴールドを起用したのは正しい判断だと言える。本来は監督にブライアン・シンガーが予定されていたらしいが、まあ色々あったので仕方がない。それにしてもブライアン・シンガーは自分が降りた作品に限って高い評価を受けているので心中穏やかではないだろう。
そういう訳で、153分という上映時間の長さも含め、本作は徹頭徹尾、反時代的な映画として作られている。腕は一流だが傲慢で喧嘩っ早いドライバー、権力を振りかざし高圧的な要求を繰り返すスポンサー、その間で板挟みにあうカー・デザイナー、そしてイタリアからやって来た嫌味なライバル。梶原一騎の原作かと思うぐらい、『フォードVSフェラーリ』は、男たちの、男たちによる、男たちの為のスポ根ドラマに仕上がっているのだ。カトリーナ・バルフ演じるケンの妻、モリー・マイルズが本作唯一の女性キャラクターと言えるだろうが、その立ち位置は戦う男たちを叱咤し、奮い立たせる『あしたのジョー』の白木葉子と同じであり(『ロッキー』のエイドリアンでもいいのだが)、最終的には勝負の行く末を外から見守る事しかできない存在である。とかく世情に目配せする事を義務付けられた(しかし、誰がそんなものを義務付けたというのか?)現在のアメリカ映画の中で、本作の潔い割り切りっぷりには驚かされた。
『フォードVSフェラーリ』がここまで古典的な佇まいを貫徹し得たのは、結局この映画の主人公は車なのだ、という認識が作り手の中で共有されていたからだろう。レース場面で観客を楽しませる事ができれば映画は成立する、と言わんばかりに、本作のレースシーンは圧倒的な迫力と臨場感を有している。エンジン音やタイヤのスリップ音などサウンド面での貢献も大きく、この周到なこだわりぶりは、製作総指揮にあたったマイケル・マンの恩恵にあずかる部分も多いのではないか。3D上映を前提としながら、意外にバリエーション豊かな構図が用意されているのも好ましい。観る前の「どうせ『グランツーリスモ』のコクピットビューみたいな場面が延々と続くんだろ」という思い込みはいい意味で裏切られた。

タイカ・ワイティティ『ジョジョ・ラビット』

第2次世界大戦下のドイツを舞台に、ヒトラーユーゲントに所属する少年ジョジョの日常を、ポップに、コミカルに描いた本作は、賛否の分かれそうな作風でありながら、アカデミー賞候補にノミネートされるなど概ね高い評価を受けている様である。では、その賛否が分かれそうな点がどこなのかといえば、そもそもナチス政権化のドイツをポップに、コミカルに描く事が許されるのか、という問題である。
もちろん、戦後80年が経過し、人々は先の大戦をある程度は相対化して観る事が可能になった。ナチスを題材にしたふざけた映画など、これまで大量に作られている。ナチスが殺人兵器として恐竜を蘇らせたり、あるいはモンスターや人造人間を作ったり、クエティン・タランティーノの『イングロリアス・バスターズ』という、歴史的事実を平然と引っ繰り返した怪作も記憶に新しい。しかし、そうした作品においても、基本的にヒトラーは悪い奴、ナチスは残虐な殺人集団、という設定は常に守られていた。本作はその最低ラインすら超えてしまっているのだ。
生粋のナチス信者で、ヒトラーユーゲントにも入団している主人公ジョジョにとって、アドルフ・ヒトラーは神格化された憧れの存在であると共に、日常生活の様々な局面で助言を与えてくれる、イマジナリー・フレンドとして存在する。羨望と親しみ、このふたつの感情の対象として思い浮かぶのはやはりアイドル、という事になるだろうか。それをあからさまに示しているのが、冒頭のタイトルバックである。ビートルズの曲に合わせて、ヒトラーの演説やナチスの行進に熱狂するドイツ国民の姿が映し出されるこの場面では、世界的なアイドルであるビートルズヒトラーナチスを同一視し、「萌え」の対象として描く事を高らかに宣言する。確かに、良識ある方々は眉を顰めるかもしれない。
しかし、このふざけた映像はふざけたなりに、当時のドイツのある側面を正確に言い当てているのではないだろうか。どの様な独裁者であれ、国民の熱狂的な支持を得る過程で「萌え」の要素が生まれてくるのは当然だからだ。私たちは小泉政権民主党ブームの際に同様の体験をしている筈である。
「萌え」をフェティッシュな欲望の発露と考えるなら、その対象には何らかの代替としての役割が課されている筈である。例えば、私たちがアイドルに萌えるのは、そこに(決して存在しない)理想化された異性を見出しているからだ。それは「妹」「兄」「息子」「恋人」と、個人によって様々な形態を取るだろうが、現実には存在しないものを恐れ、かつ惹かれてやまない矛盾した感情が、こうした欲望を突き動かしてているのは同じである。
それでは、主人公ジョジョにとってヒトラーは何を代替しているのか。言わずもがな、それは数年前から行方知れずとなっている彼の父親である。軍人であったジョジョの父親は、突然戦地から姿を消した後、音信不通となっている。周りからは逃亡兵として臆病者扱いされ、嘲笑の対象ともなっているのだが、ジョジョは父親の逃亡、あるいは死を受け入れる事ができない。父親は必ずどこかで勇敢に戦っている筈だ、という願望と、父親の不在、という否定できない現実。この相反する感情の板挟みになったジョジョが生み出したのが、イマジナリー・フレンドとしてのヒトラーだと言えよう。ヒトラーは少年が困難に直面したり、落ち込んだりした時に必ず姿を現し、父親の様に助言を与え勇気付けてくれる。実のところ、ジョジョの実生活においてこのヒトラーはほとんど役に立っておらず、余計なアドバイスをして逆に事態を悪化させるばかりなのだが、それはヒトラージョジョの内面が生み出した虚構の存在に過ぎず、少年自身の能力の反映でしかない事を示しているだろう。とはいえ、この情けなくも優しい友人がそばに居てくれる限り、ジョジョは父親の不在を「暗点化」し、精神の均衡を保つ事ができる。虚構のヒトラーは、非力で気弱な少年が戦時下のドイツという過酷な環境で生き残る為の自己防衛の手段として存在するのだ。
この様に、ヒトラーナチスを一人の少年のフィルターを通して描く事で、『ジョジョ・ラビット』は先述の倫理的な課題をクリアしている様に見える。いくら劇中でヒトラーナチス将校をユーモラスに、好ましい人物として描こうとも、それらが少年の妄想、潜在的願望の投影であるなら、全てが現実のモラルの通用しないファンタジーなのだと言い訳する事ができる。そして、全世界から非難されるべき悪逆非道な輩でも、それを心から必要とする人々がかつて存在した事もまた、厳然たる事実なのだ。
映画の中盤、ナチスの眼を逃れてジョジョの家に隠れ潜んでいたユダヤ人の少女エルサの登場によって、ジョジョヒトラーの関係性は揺らぎ始める。ジョジョはエルサに恋愛感情を抱き、彼女の存在を通報せよと主張するヒトラーと衝突し始めるのだ。エルサという実在する欲望の対象を発見し、己の欠落を埋める新たな術を手に入れた少年は、やがて虚構の友人に永遠の別れを告げる様になるだろう。
それを、主人公ジョジョの人間的成長と言い表す事はできるかもしれないが、だからといって、臆病だった少年が銃を持って連合国軍と戦ったり、逆にナチスに逆らって少女を救ったり、といった展開はこの映画には用意されていない。映画の終盤、連合国軍が進行する市街を彼はただ子兎の様に逃げ回るだけだ。しかし、それこそジョジョが虚構と決別し現実と対峙した何よりの証なのではないか。彼が今まで生きてきた世界は、戦時下の特殊なイデオロギーが支配する虚構に過ぎなかった。そこでは、戦争がもたらす死が、血飛沫や恐怖が隠蔽され、ただただ勇ましい美辞麗句が人々を駆り立てる。身体的リアリティを徹底的に欠いているが故に、人々は逃げる事を臆病者の卑劣な行為だと思い込む。ジョジョは死をもたらす圧倒的な現実に直面する事で、初めて逃げる、という自由を獲得し得たのである。あらゆる事が許される世界、あらゆる場所へ逃げる事ができる世界が到来する事への期待を胸に、やがて少年と少女は不器用なダンスを踊り始めるだろう。

 

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グッバイ、レーニン! (字幕版)

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  • 発売日: 2013/12/25
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第二次世界大戦終結後も、ドイツには社会主義と資本主義という二分された虚構が襲い掛かり、人々に更なる悲劇をもたらすだろう。その悲劇に新たな虚構をもって対峙しようとする少年の姿を描いた感動作。

 

ポン・ジュノ『パラサイト 半地下の家族』

ポン・ジュノという監督は、ジャンル映画のフォーマットを利用しながら、決してその枠組みの中に収まりきらない、過剰な物語を撮り続けてきた。その為、『グエムル-漢江の怪物-』や『スノーピアサー』といった、外見上エンターテインメント色の強い作品では、こちらが予想した内容と実際に語られるそれがあまりにかけ離れている為、戸惑いや困惑を覚える事がしばしばある。今回の『パラサイト 半地下の家族』は第72回カンヌ国際映画祭パルムドールを受賞した為、ちょっとアートっぽい、貧困問題をテーマにしたヒューマンドラマなのかな、と予想している人も多いだろう。ところが、本作はまたもや観客の予想を裏切り、中盤にとんでもない展開の待ち受ける、一級のエンターテインメント映画に仕上がっているのだ。意外に人を選ぶポン・ジュノ作品の中では最も分かりやすく、万人受けする作品と言えるかもしれない。
『スノーピアサー』と同じく、資本主義経済における格差問題をテーマにしていながら、『パラサイト 半地下の家族』が非常に分かりやすい作品になっているのは、『スノーピアサー』では列車の客車、という水平方向の分断によって表現されていた階級格差が、地上と地下、という垂直方向の分断に変更されている点が大きいだろう。ジョーダン・ピール『アス』の感想でも述べた様に、私たちが暮らす世界の地下に、持たざる者たちが彼らだけの世界を作り生活している、という恐怖を伴ったイメージは、多くの映画で繰り返し描かれてきた。『パラサイト 半地下の家族』もそのイメージに倣ったものだと言える。
しかし、そうはいっても一筋縄ではいかないのがポン・ジュノ作品である。本作では、様々な策を弄して大富豪の家に入り込み、他人の財力に寄生して生活する貧困一家の住む家を単なる地下ではなく半地下、と設定している点に注目すべきだろう。地下と半地下って何が違うわけ?と思われる方もいるかもしれないが、その疑問についてはこの映画のファーストショットが明確に答えている。映画は、主人公であるキム一家の住む家の窓からの景色から始まるのだが、その景色の目線がいやに低く、歩行者の足下や車のタイヤぐらいしか見えないのである。やがて、カメラが引き、その窓が家の天井付近に取り付けられた明り取りの窓からの景色であった事が分かる。つまり、彼らの住む世界は地上から完全に隔離された地下ではない。地上の世界がぎりぎり窺える様な、言葉を換えれば地上とかろうじて繋がっている様な、「あいだ」に位置している訳だ。
『スノーピアサー』で主人公たち貧困層が生活していたのは列車の最後尾車両であり、徹底した管理によって彼らが富裕層の住む先頭車両へ移動する事は許されていなかった。だからこそ、彼らは蜂起し暴力によって先頭車両を奪還しようと試みたのである。彼らが車両を移るに従って明らかになる、富裕層たちの住む車両の実態(常軌を逸するほど長大な列車には学校や病院、菜園やダンスホールなど様々な役割を担った車両が用意されている)が映画的見せ場となっていたのだが、しかし、彼らの「闘争」が身を結ぶことはない。「闘争」は、疾走する列車という閉鎖空間の中で人口過多を調整する為の手段として予め管理されていた事が映画の終盤で明かされる。厳格な階級制度とそこから生じる階級闘争も、走り続ける資本主義経済の中では必要悪としての意味しか持たない、という絶望的な世界観がそこでは描かれていた。この循環から逃れる為には、世界を動かすシステムそのものを機能不全に陥らせるしかない。だから、映画のラストで主人公たちは爆弾によって列車に風穴を開ける事で「闘争」を「逃走」に変え、雪と氷に包まれた不毛の地へと足を踏み出したのである。しかし、その果てに待ち受ける世界とはどういうものなのか、本当に彼らが資本主義経済の循環から逃れ出る事ができたのか、とうとう『スノーピアサー』という映画で示される事はなかった。それは現代の私たちが直面している、解答不能の問題だからである。
先述した様に、『パラサイト 半地下の家族』のキム一家が住む半地下は、最初から地上と繋がっている。彼らは窓から地上の様子を窺う事ができるし、場所によっては他人のWi-Fiにタダ乗りする事すら可能なのだから、『スノーピアサー』の主人公たちとは置かれた環境がまるで違う。だから、この映画は単純に『スノーピアサー』を90度回転させ、横を縦にしただけの映画ではないのだ。ドアを開ければ何の苦労も無く地上に出られるのだから、長男のギウが大富豪であるパク一家に家庭教師として招かれ、やがて家族全員を従業員として呼び寄せるのも決して無理な話ではない。キム一家は様々な策を弄し、元からの従業員をクビにする様にパク一家を仕向けて、家族全員がその後釜に座る事で寄生生活を始めていくのだが、しかし、競争者を蹴落とし、自分の地位を向上させる事こそ、私たちが生きる世界で称揚されてきた行為ではないのか。いささかそのやり口が過激であるとはいえ、キム一家はあくまで資本主義社会のルールに則って出世していくのである。
ポン・ジュノは、『スノーピアサー』とは全く異なる手段で、資本主義経済に対抗しようとしている。そこから逃れようするのではなく、あくまでその中に留まり続け、富める者に寄生する事でそもそもの階級格差を無効化させてしまう事。寄生虫とその宿主が、客観的にはどちらが主人であるかを判別できなくなってしまう様に、『パラサイト 半地下の家族』のキム一家とパク一家はやがて、どちらがどちらを使役する存在なのか、分からなくなってくる。資本主義経済のシステムを徹底的に利用する事で、それを中から食い破り外部を目指そうとするこの戦略は、是枝裕和『万引き家族』でも共有されていた筈だ。
しかし、『万引き家族』の疑似家族がやがて破綻を迎えた様に、『パラサイト 半地下の家族』のキム一家にも悲劇的な運命が襲い掛かるだろう。ネタバレを避ける為に詳しくは言えないが、破綻の端緒は彼らが本当の地下を発見してしまった事にある。ここから、半地下と地下の間で対立が生じ、映画は暴力的な要素を増していく。問題は、彼らが己の獲得した権益を自覚し守ろうとした瞬間、消滅しかけていた筈の階級が再び息を吹き返し、彼らをもといた場所へ押し流してしまう事なのだ。そこは半地下であろうと地下であろうと、雨水や小便やゴミが流れ込む社会の下層部であるのは間違いなく、下層部に住む人間が上層部への移動する事は決して許されていない。キム一家の主であるギテクは、その残酷な事実を主人のパクからはっきりと告げられ、逆上する。
ここから分かるのは、私たちを絡め獲る経済/社会のシステムは、何も権力者から一方的に押し付けられた訳ではなく、そもそも私たちの内面から生じたのだ、という事である。自らが獲得した権利や財産は半永久的に保証されるべきだ、という所有をめぐる当然の感情が、現在の経済/社会システムをより強固にしている。その事実を自覚した時、あらゆる闘争や運動を支えていたご立派な理念は瓦解し、旧態依然とした価値観は何度も甦るだろう。
では、私たちがこの閉塞した状況から抜け出るにはいったいどうすればいいのだろうか。『スノーピアサー』がそうであった様に、本質的に悲劇の物語である『パラサイト 半地下の家族』が、その問いに答える事はない。ポン・ジュノがその解答に辿り着くには、悲劇ではなく喜劇映画こそが必要とされているのかもしれない。

 

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スノーピアサー(字幕版)

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  • 発売日: 2014/06/07
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フランスのコミックを実写化した、米仏韓合作映画。ポン・ジュノ作品には欠かせない、ソン・ガンホも出演している。

 

 

アス (字幕版)

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  • 発売日: 2020/02/07
  • メディア: Prime Video
 

同じテーマをホラー映画のフォーマットで描くとこうなります。以前に感想も書きました。

イ・ビョンホン『エクストリーム・ジョブ』

いやいや、とにかく楽しい映画だった。解散寸前のうだつの上がらない麻薬捜査班が、麻薬組織への潜入調査の為に、近所のフライドチキン屋を買い取り(この時点で既におかしいのだが)目くらましに商売を始めたは良いが、思いのほか店が繁盛して捜査どころではなくなってしまう、というアイデアだけでも最高なのだが、次々と繰り出されるギャグのどれもレベルが高く、私が鑑賞した映画館の中は最後まで笑いが絶えなかった。
人気ドラマ『ブレイキング・バッド』あたりが元ネタなのだろうが、そこからよくこんな馬鹿々々しい話をひねり出したものだ。押し寄せる客の対応に忙殺されているうちに、捜査班の面々にチキン屋としての自覚が生まれていく展開は、まさに捧腹絶倒ものである。しかし、実はこの点こそが本作のミソであって、彼らがチキン屋の仕事に没頭するとひょんな事から捜査が進展し、そこで職務を思い出して捜査を再開するや否や、間抜けなアクシデントが起こってまた振り出しに戻ってしまう、という構成になっている。要するに、彼らがチキン屋である時は捜査が進み、逆に麻薬捜査官である時は捜査が停滞する、という風に最後までボタンの掛け違ったまま、物語が進展していくのだ。だから、観客は矢継ぎ早に繰り出されるギャグに大笑いしている間に大団円に立ち会う事になる。
捜査班の面々はどれもキャラクターがしっかり立っていて、そのコントの様な掛け合いを観ている内に彼らの事をどんどん好きになってくる。だからこそ、最後のアガる展開には思わず手に汗握ってしまう。特に、『犯罪都市』や『守護教師』ではコワモテのマフィアを演じていたチン・ソンギュと、本作が商業映画初出演のコンミョンは、最後までボケ役に徹していて、それが見事にハマっていた。

2019年公開映画ベスト10

12月公開の映画を1月に入ってからも追い掛けていたので遅くなったが、2019年の個人的ベスト10を書いておく。日本での公開日が2019年の作品に限り、4Kデジタル版などのリマスター作品は除外した。
 
 
①を2019年のベスト1に挙げる人はほとんどいないと思うが、個人的には最も心を動かされた1本。ここまでトチ狂った物語に、なぜこんなにも泣かされてしまうのか。②は現代にフェリーニが蘇ったのかと驚かされた1本。キュアロンの映画はほとんど観ていないのだが、ハリウッドでエンターテインメント映画を手掛けていた監督がここまでの作品を撮ってしまうとは。イ・チャンドン久々の新作である③は、村上春樹の原作をきっちりと踏まえながらも徹頭徹尾、韓国映画として撮られている点に感心するばかり。3時間半にわたって図書館員が働く姿をただ映しているだけの④に、なぜこんなにも興奮させられるのか。観終わった後、とにかく元気になれる映画だった。ほんわかした恋愛映画かと思いきや、難解とも思えるラストに唖然とさせられる⑤、史実に基づいた犯罪実録ものかと思いきや、噴飯もののラストに爆笑させられる⑥、どちらも作り手の志の高さが窺える。ロジャー・コーマンの門下生であり、映画の見世物としての側面について誰よりも熟知しているマーティン・スコセッシが、初めて映画の興行成績に背を向けて製作した⑦は、今後の映画のあり方について再考を促す傑作。⑧は反対に、見世物としての映画に徹底してこだわった快作だった。アレクサンドル・アジャは、やはり信頼できる。⑨は深田晃司の『よこがお』と入れ替えようか最後まで迷ったが新人らしい勢いの良さを評価して。⑩は努力賞。頑張ったね。
この10本を統括したテーマとか共通点、などは全く無い。私はそういう独りよがりのでっち上げが嫌いなので。それにしても、今年は劇場での鑑賞100本を目標にしていたのに、結局未達のまま終わってしまった。気になっていたにもかかわらず見逃してしまった映画も多い。来年こそもう少し時間が取れればいいのだが…

マーティン・スコセッシ『アイリッシュマン』

マーティン・スコセッシMCU映画についてのコメントを求められ「あれはテーマパークの様なもので映画ではない」と述べた事が色々と物議をかもした様である。ジェームズ・ガンを始めとしたMCU関係者からの反発がある中、フランシス・フォード・コッポラはあくまでスコセッシを擁護しMCU映画について「ひどいものだ」と、更に手厳しい評価を下していた。しかし、スコセッシとコッポラのMCU映画批判は、少々論点がずれている様にも思う。コッポラが作品の質を問題にしているのに対し、スコセッシは作品の質を不問に付す様な、興行体系そのものについて疑問を呈しているからだ。
既に、MCU映画は個々の作品について出来不出来が問われる段階にはない。観客が気にしているのは、自分の観ている映画がマーベル・シネマティック・ユニバースという、「大きな物語」の中でどの様な位置を占めるのか、という点だけだからだ。もちろん、製作陣は映画単体としての質を向上しようと懸命な努力を続けているのだろうが、それとは全く別の問題なのである。スコセッシがMCU映画をテーマパークに近い、と述べているのは、この意味で正しい。例えば、ディズニーランドにおいて、各アトラクションの出来不出来が問題にされる事はない。それは、ディズニーが提示する「大きな物語」を構成するひとつのピースとして消費されるだけだからだ。
俳優陣の自然な老いを表現する為に、VFXによる映像加工を採用した本作は、製作費が大幅に膨らんだ為にNetflixに資金提供を仰ぐ事となった。その契約上、映画館での上映はごく短期間に限られ、Netflixによるストリーミング配信が主な公開手段となる。その分、映画館の回転率を考慮しなくて済む為、スコセッシは上映時間3時間半の大作を作り上げる事ができた。既存の映画館がテーマ―パークのアトラクションに変貌した現在(4DX上映などはその最たる例である)、こうしたサブスクリプションサービスがスコセッシやコッポラの考える「映画」の受け皿となっていくのだろうか。色々と考えさせられる事態である。
さて、膨大な製作費と3時間半という上映時間をつぎ込み、1975年のジミー・ホッファ失踪事件を軸に、キューバ革命ジョン・F・ケネディ暗殺、ウォーターゲート事件など、これまで何度も映画化されてきた史実を織り込みながら、1950年代から続くアメリカの影の歴史を描く『アイリッシュマン』は、それではMCUに匹敵する様な「大きな物語」を私たちにもたらしてくれたのだろうか。そうではない。スコセッシが描いたのは、時代に翻弄されながらも自らの道を切り開くべく闘い続けた一人の男の末路、というあくまで「小さな物語」なのである。
ロバート・デ・ニーロ演ずるフランク・シーランが、全米トラック運転手組合の委員長ジミー・ホッファとマフィアのボスであるラッセル・バッファリーノに取り入り、一介のトラック運転手からアメリカ社会に影から大きな影響を与える人物にまで成り上がっていく様を、スコセッシは緩急自在に語っていく。膨大な量の情報を詰め込みながら、最後まで圧倒的なスピードで突っ走る『ウルフ・オブ・ウォールストリート』などと比べれば、円熟の極みに達した様なゆったりとした語り口ではあるものの、そこかしこに映画的滋味が含まれており、決して観客を飽きさせる事がない。特に感慨深いのは、ラストシーンを含め、映画の要所に挿入される「半開きのドア」のショットである。たったこれだけの道具立てで、スコセッシはフランク・シーランが生涯で何を得て、何を失ったのかをはっきりと示している。
こうした細部の積み重ねによって、『アイリッシュマン』はアメリカが辿ってきた血と暴力の歴史をフランク・シーラン個人の物語へと収斂させていくのだ。虚構が単一のそれとして強度を保ち得ず、単数から複数へ、ねつ造された関係性によって繋がり「大きな物語」を復活させようとしている現代において、マーティン・スコセッシの複数から単数へと向かう孤独な歩みを、決して見逃すべきではない。

 

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グッドフェローズ (字幕版)

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  • 発売日: 2013/11/26
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スコセッシの代表作であり、ギャング映画の金字塔。今作と時代的にも重なる部分があります。

 

Once Upon a Time in America (字幕版)

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  • メディア: Prime Video
 

ロバート・デニーロ主演の裏アメリカ史を描いた映画といえば、やはりこの作品は外せない。後年、アメリカ映画に接近していったセルジオ・レオーネの傑作。

ジェイク・カスダン『ジュマンジ/ネクスト・レベル』

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https://www.jumanji.jp/

1995年公開のオリジナル版『ジュマンジ』は、コマの止まったマスに書かれた事が実際に起こってしまう、呪われたボードゲームが巻き起こす騒動を描いた楽しい映画だった。虚構が現実を侵食する、という意味で、オリジナル版は『ポケモンGO』の様なAR(拡張現実)ゲームの登場を先取りしていた、と言えるかもしれない。
それに対し、2017年に公開されたリブート版『ジュマンジ/ウェルカム・トゥ・ジャングル』では、ボードゲームからTVゲームに進化し、プレイヤーは全員ゲームの世界へ否応なく吸い込まれてしまう。つまり、AR(拡張現実)からVR(仮想現実)へとゲームの内容が変わった訳だ。
ARからVRへ、という変化がゲームにとって進化なのかは分からない。実際、一時は話題になったVRゲームも、高額な本体機器や専用ゲームのクオリティのバラツキがネックとなり、なかなか普及が進まないでいるし、逆に『ポケモンGO』や『ドラゴンクエストウォーク』の様なARゲームの方が多くの支持を得ているからだ。映画としても、全く架空の世界を描いたリブート版より、現実世界に猿とかサイの大群が登場するオリジナル版の方が(特撮技術の時代的限界はさておき)面白いビジュアルを実現していた様に思う。
ただ、リブート版の主眼は、そこには無いのである。ゲームの世界に取り込まれた主人公たちは、現実そのままの姿ではなくゲーム開始時に選んだキャラクターへと変貌している。気弱なオタク青年はマッチョな冒険家に、SNSで自撮り画像をアップするリア獣女子は、チビでデブの中年男に、コミュ症気味の陰キャ女子はセクシーな女格闘家に、マッチョなアメフト選手はひ弱な動物学者に、という風に彼らは本来のパーソナリティをはく奪され、ゲームの設定に準じたロール(役割)を演じる羽目になるのだ。
このアイデアが、ネットワーク社会における匿名的なコミュニケーションに着想を得た事はすぐにお分かりだろう。例えば、MMOなどのオンラインゲームではゲーム開始時に自分の好きなアバターを選択、あるいは作成できるものが多い。そこでは、女が男に、老人が子供に、ひ弱なオタク青年がゴリゴリのマッチョに変身する事ができるのであって、仮想世界の中でプレイヤーは新たな自分として生きる事が可能となる。
そして『ジュマンジ/ウェルカム・トゥ・ジャングル』では、この経験こそが主人公たちを大きく成長させる事になるのだ。元々持っていた(と、思い込んでいる)パーソナリティを失い、全く別の人物として生きる事で、いつの間にか築いていた偏見や思い込みから解放され、自身や他者への新たな眼差しを獲得する。これこそ、実はオリジナル版『ジュマンジ』も持っていたテーマであり、リブート版はその志を受け継ぎ、TVゲームというフォーマットを利用してよりはっきりと描いている。例えゲームであろうと、その中で得た知識や経験、何かを成し遂げた自信は無駄ではないのだ。それは、現実の自分を変革する因子となり、心や身体に刻み込まれる。眼が悪くなるだの、頭が悪くなるだのといった無理解と戦いながら、いつの間にか中年ゲーマーとなった私には、これはなかなかに刺さるメッセージであった。
リブート版第2作目について語るスペースが無くなってしまった。続編は新たなキャラクターやステージが追加され、またジョブチェンジのシステムまで取り入れられた為、ゲームは更に複雑さを増し、主人公たちが繰り広げるドタバタ劇は更に混迷を極める。前作ほどの新鮮さは無いが、まあ順当な続編といったところだろう。TVゲームだって、この程度の追加要素でいくらでも続編を作ってきたのだし。それと、前作のラストで処分した筈のジュマンジを主人公がこっそり持ち帰っていて、里帰りした際にそれを起動させてしまう、という導入部にはゲーマーとして唸らされた。つまりこれ、久しぶりにレトロゲームをプレイしてみたくなる、ゲーマー心理というやつでしょう。昔ハマったゲームをまた遊ぶ事で、あの頃の自分に戻れるかもしれない、というのも非常によく分かる。この主人公の行動が不自然だというやつは、ミニスーファミメガドラミニも買った事がないのだろう。俺はどちらも持っている。

 

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ジュマンジ (字幕版)

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  • 発売日: 2013/11/26
  • メディア: Prime Video
 

今見るとさすがに特撮はショボイが、ロビン・ウィリアムスの怪演も含めて楽しめる1作。

 

ジュマンジ/ウェルカム・トゥ・ジャングル (字幕版)

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  • 発売日: 2018/05/25
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どうせつまらん焼き直しだろ、という大方の予想を跳ね返し、オリジナル版を大幅にアップデートした一作。オリジナル版を観ていた人へのサービスも盛り込まれている。