事件前夜

主に映画の感想を書いていきます。

ホン・サンス『イントロダクション』

何者にもなれない自分、何ももたらさなかった時間

ホン・サンスの監督第25作『イントロダクション』と第26作『あなたの顔の前に』が日本で同時公開された。
『イントロダクション』は上映時間66分と短い作品だが、美しいモノクロームの映像で撮られた青年ヨンホの物語は、私たちの胸を激しく揺さぶる。ドラマティックな展開が待ち受けている訳ではない。ソウルとベルリンという2つの都市を舞台に、人々の何でもない会話が泡の様に生まれては消えていく。それは私たちが雑踏の中で立ち止まり、耳をそばだてていれば聞こえてきそうな、けれどもやっぱりホン・サンス作品の中でしか存在しない言葉たちの連なりで、リアルな様でいて現実感の希薄な、この不思議な感触がホン・サンスの映画の魅力なのだろう。
劇中、主人公のヨンホは3回だけ女を抱きしめる。その3度の抱擁を本作は3幕構成で描いていく訳だが、抱擁はヨンホと女たちが久方ぶりの再開を果たした際になされるものの、そこから男と女のドラマが展開する訳でもなく、むしろその様なドラマの消失点として機能している筈だ。男と女が抱き合った瞬間、それまで存在した活発な会話が織りなす豊かな時間は消え失せ、奇妙な不安を伴った沈黙が彼らを支配する。やがて、その抱擁も空から降り注ぐ雪や打ち寄せる波の中に消えてしまうだろう。何者にもなれない自分、何ももたらさなかった時間。その哀しみをイントロダクションとして、私たちの人生の愛しさが語られていく。