事件前夜

主に映画の感想を書いていきます。

是枝裕和『万引き家族』

 

この映画に対し、犯罪を肯定しているだとか何とか、的外れな批判が一部で見られる様だが、そうしたヘイトまがいの言辞を繰り返す人々は、本作を観ていないか、もしくはフィクションというものをまるで理解できない輩なのだろう。何しろこの映画の後半において、そうした批判をまるで予想していたかの様な正面切った反論が安藤サクラの台詞を借りて展開されているからである。
彼女は言う。自分たちは何かを盗んだ訳ではない。誰かが捨てたものを単に拾っただけなのだと。なるほど、大量の商品が生産され、瞬く間に消費されていく現代において、売れ残ったものは次々と廃棄処分されていく。高度消費社会とは高度廃棄社会の裏返しなのであり、万引きとは生産と廃棄の間にある商品を一足早く拾い上げる行為なのだとも言える。

もちろん、これは詭弁に過ぎない。しかし、重要なのは、本作ではこうした生産と消費の隙間からこぼれ落ちた廃棄物をDVやネグレクトといった問題とリンクさせ、現代における家族の悲痛な姿をあぶり出した点にある。実の家族に廃棄された子供たちが、他人に拾われ擬似家族を形成する。『万引き家族』という奇妙なタイトルの映画において、真に万引きされているのは家族そのものなのである。
こうした擬似家族の物語は、是枝監督が一貫して追求してきたテーマであり、本作でも血が繋がっていないからこそ生まれる絆が印象深く描かれている。しかし、映画はこうした擬似的な関係性が抱える限界をも指摘する。映画の後半、「擬似の母」としての立場を主張する安藤サクラはしかし、子供たちから何と呼ばれていたのか、という警官からの問いに答える事ができない。「擬似の父」であるリリー・フランキーもまた、「お父さん」という呼び名を自ら放棄し「おじさん」に戻ってしまう。
「お母さん」「お父さん」「お兄ちゃん」という呼び名を追い求めながら、彼らは遂にそれを手に入れる事ができない。これらは所詮、呼び名に過ぎないかもしれないが、それは出産や養子縁組といった生産手段の対価として手に入るものであり、マルクスの言うルンペン・プロレタリアートである彼らにその資格は無いのである。それ故に、彼らは家族をめぐる階級闘争に敗北せざるを得ない。