事件前夜

主に映画の感想を書いていきます。

コゴナダ『アフター・ヤン』

記憶は引き継がれ、残された者の想いは募る

私は映画を観た後にメモを取ったりしないので、鑑賞後すぐならまだしも、時間が経ってから映画の感想を書こうとすると内容を全く思い出せず難儀する事が多い。この『アフター・ヤン』が公開されたのは2022年10月21日である。約3ヵ月が経とうとしている訳だ。だから正直、ほとんど何も覚えていない…坂本龍一の音楽に乗せて、フォトジェニックな映像が映されては消えていく、という事ぐらいしか…何しろこの映画、近未来を舞台にしてはいるが、サイエンス・フィクションとしての興趣を追及している訳ではないからストーリーにメリハリが無い。ロボットとクローンというSF的モチーフを使用して、人生のふとした瞬間に浮かび上がる微細な感情をすくい取り、それを骨格にプロットを組み立てる、というのが監督、脚本、編集を手掛けたコゴナダの意図するところなのだろう。作りからして淡い印象しか残らない映画なのだ。
前作『コロンバス』でも同様の手法が採られていたが、そちらではオハイオ州コロンバスに建てられたモダニズム建築と登場人物の心理が並列して描写されていた。心に傷を負った男女がコロンバスに立つ建築物を見て癒されていく、というとものすごく陳腐な言い方だが、要するに建築物と人の感情がリンクしている様な映画を作り手が指向していたのは間違いない。しかし、建築というものに対して抱く想いというのは人それぞれなので、そこに共感できない人は何のこっちゃ分からない。難解と言えば非常に難解な映画ではあった。
『アフター・ヤン』は、一応SFという体裁をとっているので『コロンバス』に比べてエンタメ色は強まった。そもそも、故障して動かなくなったロボットが保存していたメモリー(記憶)がテーマになっているから、観客も容易に自分の体験に置き換える事ができる。身近な人が亡くなった時、その人が蓄えてきた記憶を覗いてみたい、という想いに駆られた人は多いだろうし、故人が見ていた世界や風景を残された者が受け継いでいけるのなら、それはある種の不死性を人間が獲得した、という事になるだろう。だから本作はテクノロジーによって人間が死を乗り越えていく物語とも受け取れる訳で、そういう意味でケン・リュウの小説なんかが好きな人はおお、けっこうSFしてるじゃん、と思うかもしれない。
ヤンというこのロボットの眼をカメラになぞらえるなら、彼が見ていたのは長いひとつの映画なのだとも言える。ならば、ヤンの体内に残されたメモリー追体験する主人公ジェイクは一人の観客であり、今スクリーンを見つめている私たちの似姿なのではないか。こうしたメタフィクション入れ子構造を採用する事によってコゴナダ監督は、映画が人々に与える想いや意志とは何なのか、という問いを投げ掛ける。それは、映像作家として映画監督のドキュメンタリーも手掛ける彼が永遠に追い掛けている謎なのかもしれない。

 

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ベタですがロボットを主役にしたヒューマンドラマという事で。