事件前夜

主に映画の感想を書いていきます。

ホン・サンス『あなたの顔の前に』

過去にも未来にも繋がらない、今この瞬間を生きる

ホン・サンスの映画には脚本が無いと聞く。俳優たちには撮影日の朝に台本が渡され、一日の撮影が終わるとその台本は回収される。例えば、予め撮りたい映像や物語が確固としてあり、俳優の演技や撮影場所といった諸条件がそれらを完全に表現できる様になるまで、妥協なく時間をかけて撮影する、といったタイプの監督とはホン・サンスは正反対のタイプと言えるだろう。1年に2、3作という近年の多作ぶりは当然こうした撮り方に由来しているに違いない。
しかし、だからといってホン・サンスが何もヴィジョンを持たずに映画を作っている訳ではない。彼の映画は結末が決まらないまま書き始めた小説の様である。登場人物たちは用意された物語の結末に向かって収斂されていくのではなく、どこに行き着くか分からない時間の中で、微かな戸惑いと共にただその瞬間を生き始める。だから映画はその瞬間ごとの「生」を記録しさえすればいい。


「私の顔の前にある全ては神の恵みです。過去もなく明日もなく、今、この瞬間だけが天国なのです」


イ・ヘヨン演じるサンオクの告白はホン・サンスの映画作りそのものについての告白でもある。数年ぶりにアメリカから帰国した彼女は、渡米した目的や帰国した理由を妹のジェウォンに問われるが、明確に答えようとはしない。渡米の目的はサンオクの「過去」へと、帰国の理由は彼女の「明日」へと繋がる言葉であり、それを口にすれば最後「今、この瞬間」を生きるという「神の恵み」が失われてしまうからだ。その時、映画は映画である事をやめ、お仕着せの物語へと堕してしまうだろう。12分もの長回しで撮られたサンオクと映画監督ソンの会話シーンは、彼らが生きる時間のずれを顕わにする。過去も未来もなく、今を生きようとする女と、過去の蓄積が現在であり未来へと繋がっていくと信じる男の、絶望的なすれ違い。一緒に短編映画を撮ろうという彼らの夢は、最初から不可能である事を約束されていた。