事件前夜

主に映画の感想を書いていきます。

石川慶『Arc/アーク』

深淵なテーマを内包したSF映画の力作だが前半と後半の乖離が惜しい

『愚行録』『蜜蜂と遠雷』で高い評価を得た石川慶監督の新作は、日本では珍しい長編SF映画である。原作は中国系アメリカ人のSF作家、ケン・リュウの短篇小説「円弧」。ケン・リュウは日本でも短篇集が何冊も翻訳され、是枝裕和監督の『真実』でも「母の記憶に」という短篇小説が作中作として映像化されていたのでご存じの方も多いかもしれない。
アニメやゲームと異なり、実写の国産SF映画となると我が国では非常に少ない。もちろん、『GANTZ』の様にコミックの映画化はあるが、小説、しかも海外作家の作品となると異例と言ってもいいだろう。折しも、アメリカのSF作家ロバート・A・ハインラインの名作を映画化した、『夏への扉 ―キミのいる未来へ―』が同時期に公開されており、日本の映画界に新しい潮流が生まれつつある事を期待させるが、残念ながら両作とも興行成績は苦戦している様である。我が国でもSF映画そのものへの需要はあると思うのだが、やはり日本人が主演する、となると歯が浮いた感じがするのかもしれない。
もちろん、日本の市場規模ではハリウッド並みの予算を掛けたSF超大作映画を作る事など不可能である。いくらCGやセットにお金を掛けても、ハリウッドには到底かなわないし、ビジュアルに凝れば凝るほど貧乏くささばかりが目に付いてしまうのはよくある話だ。従って、日本でSF映画を撮ろうとすればそれなりの戦略が必要となる。例えば、本作が時代設定を近未来に設定し、現実の景色をそのまま映画の中に取り込んでいるのも、そうした戦略のひとつだろう。これがもし100年後、200年後の未来だったら街の風景も人々の生活も今とは様変わりしているしている筈で、すると建物やら交通機関やら衣服やら何から何まで作り込まなければならず、膨大な予算と時間が必要となる。
しかし、不老不死をテーマとする本作では、主人公のリナが19歳から132歳になるまでを描いているので、物語上は100年以上の時間が経過していく。非常にスケールの大きい話である。これだけの時間があれば社会もドラスティックに変化していくだろうから、作り手にはその変化をどう描くか、という問題が課せられる。89歳になったリナを描く映画の後半に至って、映像がフルカラーからモノクロに切り替わるのは、こうした問題を回避する為だろう。時系列的には前半部から数十年後の未来を描いている筈のパートをあえてモノクロで撮影し、舞台を古民家の立ち並ぶ孤島(小豆島でロケを行ったらしい)に限定する事で、石川慶はまるで時間軸から切り離された不思議な空間を作り出している。この「時間軸から切り離された」という点が不老不死のメタファーである事は言うまでもないが、この様な戦略によって『Arc/アーク』は未来の世界を直接的に描かずに済ませているのだ。
とはいえ、即物的な描写は最低限に留められ、どちらかと言えば淡い印象の短篇だった原作を長編映画として再構成するならそれなりのディテール描写は必要とされるだろう。モノクロで語られる後半パートについては先述した和風レトロフューチャー的な戦略が功を奏し、非常に見応えのある映像になっているが、フルカラーの前半部分については、頑張っているとは思うものの、やはり貧乏くささが拭えないのが惜しい。
例えば、不老不死になる為には高額の施術料が必要である事に反発した人々が暴動を起こし、エタニティ社に押し寄せる場面など、もう少し迫力ある描き方ができなかったものか。何か学生運動でもやっている様な兄ちゃんが4、5人、工場の敷地みたいな場所をうろちょろしているだけで、リナはその兄ちゃんらに取っ捕まるのだが、別に暴力を振るわれる訳でもなく、ただグチグチと難癖を付けられるだけで、しかもその経験がリナに何らかの影響を及ぼす訳でもない。原作でも僅かに触れられているに過ぎない描写を、なぜここまで膨らませる必要があるのか分からなかった。死体を標本化するプラスティネーション技術の工程をコンテンポラリーダンス風に解釈したのは映像作品として非常に面白いアイデアだが、リナにプラステーションの才能がある事を示す為だろう、映画の導入部からよく分からないダンスシーンが始まるのも面食らった。そのダンスを観たエタニティ社の理事エマが「アンタ、若いのにいいもん持ってんじゃない。良かったらウチに来な」とリナに名刺を渡すところから物語は始まるのだが、こんな昭和の少女漫画みたいな始まり方をする映画が今どきあるだろうか。本来は老境に差し掛かったリナの回想という形式で語られる原作小説を脚色するにあたり、時系列順にエピソードを並べ、それぞれのエピソードを膨らませていったのはいいが、例えば後半に語られるリナの生き別れの息子のエピソードが非常に印象的なのに対し、ただ説明臭いだけで別に面白くもないエピソードが前半部に集中しているバランスの悪さが目立つ。というより、そもそも前半パートが後半パートの為の説明臭い前フリに過ぎないのだが…
と、色々と惜しいと思うところはあるものの、『愚行録』『蜜蜂と雷鳴』で見せてくれた石川慶監督の的確な演出とシュールな映像美は本作でも健在である。残念ながら興行成績が振るわず、感想を書くのに手間取っている内に公開が終わってしまったが、機会があればぜひご覧頂きたい野心的な力作だ。

 

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ロバート・ゼメキスが監督したアンチ・エイジングをテーマにしたブラック・コメディ。今だと女性から轟々たる非難を受けそうな内容ではある。

エメラルド・フェネル『プロミシング・ヤング・ウーマン』

男たちは女にではなく、自らの過去に復讐される

フリージャーナリストの伊藤詩織がTBSテレビの政治部記者だった山口敬之を準強制性交等罪で告発した事件は、国内外で大きな話題となったので覚えている方も多いだろう。結局、東京地検はこの事件を証拠不十分で不起訴相当とした。その後、伊藤は山口に損害賠償を求める民事訴訟を起こし、2019年に地裁は伊藤の訴えを認めて山口に330万円の支払いを命じている(山口は判決を不服とし控訴)。また事件以降、伊藤に対しては根拠の無い誹謗中傷がSNS上で繰り返されており、伊藤はこれらを名誉棄損にあたるとして投稿者を提訴している。
以上の顛末から分かるとおり、いわゆる準強姦―心神喪失状態の第三者に対して性交等を行う事ーを刑事事件として問うのは非常にハードルが高い。性暴力という犯罪の性質上、被害者がなかなか声を上げにくい事に加え、心神喪失状態で被害にあっているから法的に立証するにも困難が伴う。そもそも私たちの社会には「男性と部屋で二人きりになるのが迂闊であり、襲われても仕方がない」といった不合理な通念が存在している。こうした偏見が更に被害者を追い込み、孤立させていく。
『プロミシング・ヤング・ウーマン』の主人公、キャシーは近所のカフェでバリスタとして働きながら、夜な夜なクラブやバーで泥酔したふりを装い、下心を持って近づく男たちに次々と制裁を加えていた。彼女はもともと医者志望の才媛だったが、医学部に在籍中、親友のニーナが同級生にレイプされ自殺したのをきっかけに退学し、両親のもとで無為な暮らしを送っている。親友を襲った悲劇とそれを一顧だにしない世間の無慈悲さに打ちのめされた彼女にとって、夜毎繰り返す復讐だけが生き甲斐なのだ。
となると、キャシーが男たちにどんな制裁を加えているのか気になるところだろう。チ〇コを切り落としたりショットガンでどてっ腹に穴を開けたり、そんなド派手な手段を期待する向きも多いに違いない。しかし、本作はその様な復讐をテーマにしたエンターテインメント映画とは趣を異にする。冒頭のシーンを例に取ろう。クラブで酔いつぶれた(ふりをしている)キャシーを部屋に連れ込んだ男が、ベッドに横たわる彼女の下着を脱がそうとする。するとキャシーがやおら起き上がり「てめえ、何やってんだ!」と男を一喝するのだが、そこで映画はタイトルシークエンスにあっさり切り替わってしまう。キャシーが男をどんなひどい目に遭わせるのか、序盤は敢えて伏せているのかと思ったが実はそうではないらしい。キャシーの制裁とは、酔った女を部屋に連れ込んでいやらしい事をしようとする男たちに説教をする事なのだ。
これは従来の「復讐もの映画」と比べていくら何でも地味過ぎるし、そもそもこんな事を繰り返していたら、中には逆上して襲い掛かってくる奴もいるんじゃないか、とも思うのだが、要するに本作は、この手のジャンル映画に期待されている様な、暴力に暴力で対峙する展開をあくまで拒否している。加害者と被害者の立場が逆転する瞬間に観客にカタルシスを与えるのがこうした映画のお約束だが、本作では男=加害者、女=被害者という構図は最後まで変わらない。
レイプ事件が起きた当時、ニーナの証言をまともに取り合わず、彼女を自殺に追い込んだ大学部長と学友、この二人の女性に対してもキャシーは復讐を完遂する。しかし、それも直接的な暴力によってではない。キャシーの目的は、彼女たちの心にニーナが感じた恐怖と絶望を刻み込み、女が男たちの暴力に晒され続けているこの世界の現実を、はっきりと知らしめる事にあるのだ。
映画の終盤、キャシーは初めて直接的な暴力によって復讐を行おうとするが、あえなく失敗してしまう。ここでも、加害者としての男、被害者としての女、という性差と暴力をめぐる関係性は揺るぎはしないのだ。襲い掛かる男たちを超人的な力によって撃退する女などしょせんは映画が生み出したファンタジーに過ぎない。エメラルド・フェネルは、そんな映画が男たちにもたらすカタルシスや贖罪などクソくらえとばかりに突き放す。この映画の男たちは女にではなく過去に復讐されている。#MeToo以降、男たちは自らの過去を「若気のいたり」といった言葉で片づける事が許されなくなったからだ。既に終わった事として記憶の片隅に追いやっていた過去が現在の問題として立ち現れる。オリンピックをめぐるゴタゴタを見れば、それは一目瞭然だろう。だから、本作は男たちに何やら居心地の悪さを与えるに違いない。その居心地の悪さの正体に気づく事が現状を変えていくきっかけになる筈である。

 

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といいつつ、女が超人的な能力で男たちを屠っていく復讐エンターテインメントもやっぱり楽しいのだが。こちらはフランスの女性監督コラリー・ファルジャによるエクストリームな1作。以前に感想も書きました。

アダム・ウィンガード『ゴジラvsコング』

世界は、ついに怪獣プロレスのリングと化した

レジェンダリー・エンターテインメントとワーナー・ブラザース・ピクチャーズの共同製作による「モンスターバースシリーズ」も、ゴジラキングコングが対決する本作でいよいよ大団円を迎える事となった。好調な興行成績を受けてシリーズの継続も検討されているらしいが、とりあえずは一区切りといったところだろう。比較的キャリアの浅い若手監督を抜擢し続けてきた本シリーズだが、特に『GODZILLA ゴジラ』のギャレス・エドワーズと『キングコング: 髑髏島の巨神』のジョーダン・ヴォート=ロバーツはオリジナル版はもちろんクラシックな怪獣映画に最大限の敬意を払いつつ、見事にハリウッド製エンタメ映画に仕上げた手腕が高く評価された。この2作については迫力あるモンスターバトルもさる事ながら、人間ドラマのパートについても手堅くまとめられ、そのバランスの良さが成功した要因だったと思う。
ところが、マイケル・ドハティによるシリーズ3作目『ゴジラ キング・オブ・モンスターズ』ではド派手なアクションシーンに重きを置くあまり、人間ドラマの完成度が大きく低下し、大味な怪獣プロレスものに変貌してしまう。詳しくは、以前に私が書いた感想を読んで頂きたいのだが、登場人物がいきあたりばったりに行動し、たまたまそれが功を奏する、というご都合主義的な展開がひたすら続くのだ。もちろん、我が国のゴジラだって同じ様な道を辿ってきたので致し方ない面もあるのだが、ダラダラしたドラマパートのせいで、全体を通してテンポが悪くなっていたのは否めない。
アダム・ウィンガードがメガホンを取ったシリーズ第4作『ゴジラvsコング』はその反省からだろう、もはやドラマパートなど存在しないも同然の開き直った作りになっている。とにかく、キングコングゴジラが大暴れすればいいんだろ、と言わんばかりに、怪獣たちの大乱闘シーンが映画の大半を占め、その場つなぎに人間たちの無意味な行動と無意味な会話が挿入されていく。確かに、前作にも登場したマディソン・ラッセルを含め、登場人物たちはそれぞれの思惑に従って行動するのだが、物事の優先順位がおかしいというか、なぜ今そんな事をする必要があるんだ?と疑問に思う事ばかりである。怪獣が街中で大暴れしている最中に、巨大企業の陰謀を暴いてネット配信しようとするとか、そんなのもうちょっと落ち着いてからやればいいだろうに。
確かに、東宝が1962年に公開した『キングコング対ゴジラ』だって、めちゃくちゃいい加減な映画である。しかし、それでも人間と怪獣たちの関わり方というか、怪獣が出没する社会のすがたがコメディタッチではあっても丁寧に描かれていた。『ゴジラvsコング』の場合、地底世界とかサイバネティクスとか色々と凝った設定を盛り込んだ割りに、そこで生活する人間たちの生活が全く描かれていないので、世界観がものすごくぼやけてしまっている。前作では怪獣プロレスを中心に据えながら、それでも人間と自然の関係、親と子の関係を何とか描こうとしていた。その語り口は非常に不器用で映画のテンポを悪くしただけだったかもしれないが、本作ではもはやその意思すら感じられない。要するに、ここで描かれた世界は、怪獣プロレスのリングに過ぎないのだ。

この人間描写に対する淡白さが怪獣映画としてはまだしも、パニック映画としての本作の面白さを大きく損なっている。怪獣から逃げ惑う人々の姿を見ても、巣を壊された蟻を見ているのと同じだから、何の感情も湧いてこない。最後の最後に〇〇〇〇〇が登場する場面は非常に興奮したし(デザインについては大いに不満が残るが)、これがやりたかったが為のあの設定だったのか、というのも理解できたが、それにしたってもう少し見応えのあるドラマを用意できなかったのだろうか。テンポが良くなった分、何の引っ掛かりもなく終わってしまう、非常に印象の薄い映画になってしまった。白目をむき出しにした小栗旬の顔だけは強烈なインパクトがあったが。

 

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 ゴジラシリーズの第3作で初めてのカラー作品。キングコングの権利を所有していたRKO社とのライセンス提携により作られた。ゴジラシリーズが娯楽映画に大きく舵を切ったのは本作からなので、今回のリメイクの方向性も間違ってはいないのだが…

ロバート・エガース『ライトハウス』

半人半漁の怪物も邪悪な海神も、暗く深い虚無の渦へと飲み込まれていく

17世紀のセイラム魔女裁判をモチーフにした『ウィッチ』で高い評価を得たロバート・エガース監督の2019年の作品『ライトハウス』が、ようやく我が国でも公開された。日本でも信用できるブランドとしてすっかり定着したA24製作、カンヌ映画祭でも絶賛されていた本作の公開がなぜここまで遅れたのか、その事情はよく分からないが、登場人物がウィレム・デフォーロバート・パティンソン演じる2人の灯台守だけ、しかもモノクロ撮影という本作のルックが地味すぎると敬遠されたのかもしれない。
閉ざされた空間を舞台に、恐怖や猜疑心を次第に募らせていく人々が破綻を迎える様をオカルト要素を交えつつ描いていく、という意味では、本作は『ウィッチ』から多くの要素を引き継いでいる。しかし、『ライトハウス』の湛える重苦しさ、息苦しさは前作を遥かに凌ぐ。それは、正方形に切り取られたスクリーンサイズが圧迫感を感じさせるから、という理由だけではないだろう。同じテーマを扱いながらも『ウィッチ』と『ライトハウス』は正反対のベクトルを向いている様に思うからだ。
『ウィッチ』では、17世紀のキリスト教信仰を大枠に、次いで厳格な家父長制、最後に女性の身体そのもの、という入れ子構造の閉鎖空間を設定し、アニャ・テイラー=ジョイ演じる主人公の少女が次々にその殻を食い破り、外部へ抜け出ようともがく様が描かれていた。主人公の一家が住む家のすぐ傍らには魔女が住むと言い伝えられる森があり、決して足を踏み入れてはならない、と母親は子供たちを戒めているのだが、その禁忌を破りカタストロフを呼び込む事で、少女は永遠の自由を手に入れるのである。だからこそ、ラストで描かれる不吉なサバトの場面に観客は解放感を感じる事ができたのだ。
それに対し、海に囲まれた孤島で灯台守の任にあたる『ライトハウス』の2人の主人公は、巡視船が迎えに来るまで外部へ出る事ができない。更に、4週間の勤めを終えた後に島を出る手筈だったのが、突然の嵐によって船が到着せず、島に留まる事を余儀なくされてしまう。外部への道を閉ざされた結果、彼らは否応なく自らの存在と向き合わざるを得なくなる。内から外へ、ではなく外から内へ。『ライトハウス』の灯台守たちは、暗く深い自らの深淵へと否応なく沈み込んでいく。そこには『ウィッチ』の少女にもたらされた救いなど微塵も存在しないだろう。
当初こそ、彼らの間には明確な上下関係が存在した。年老いた灯台守は若い灯台守にあらゆる雑事を押し付ける一方、灯台の灯りにはいっさい手を触れさせようとしない。その事を不満に思いながら、若い灯台守は経験豊富な老灯台守の指示に従わざるを得ないでいた。『ウィッチ』で描かれた父娘の関係性の反復とも言えるこうした支配的な構図はしかし、彼らが嵐によって孤島に閉じ込められたのをきっかけに変質し始める。老灯台守が語っていた船乗りとしての経歴が全くのでたらめだと分かり、海の男としての彼の優位性が大きく揺らぐ事になるのだ。その一方、若い灯台守もまた自らの過去を偽っていた。だから、師匠と弟子の様な彼らの関係性は全て虚偽の上に成り立っていたに過ぎない。むしろ、2人の灯台守は共に本当の自分の姿を見失った虚ろな存在であり、その意味では鏡像関係にあると言えるだろう。彼らは鏡に写った似姿によって自らの実在を確かめ合う。
ライトハウス』の灯台守たちが直面する、虚ろな鏡像―虚偽の上に虚偽を重ねて隠そうとしたその黒々とした空洞に、やがて様々な怪異が波の様に押し寄せる。ギリシャ神話の海神トリトーンや半人半漁の怪物セイレーン、更にはクトゥルフ神話の邪神ダゴンがごた混ぜになって登場し、物語の後半から本作は一気に怪奇映画としての色彩を強めていくのだが、『ウィッチ』における魔女と同じく、灯台守たちの前に姿を現す怪物や邪神が実在したのかは最後まで分からない。それは、彼らの抱える実存的な不安が生んだ幻影なのかもしれないし、彼らの心に巣くう自己愛的な欲望に対するアンビバレントな感情が顕在化したのかもしれない。
しかし、いくら未知なる怪異を呼び寄せようとも、あるいは我が身を焼き尽くす聖なる光を望もうとも空隙は遂に埋まらず、男たちはその虚ろな身体を無様に晒すしかないだろう。若い灯台守が海鳥にはらわたをついばまれる、その陰惨なラストシーンにおいて、映画はその残酷な事実を突きつける。

 

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ウィッチ(字幕版)

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  • アニヤ・テイラー=ジョイ
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ロバート・エガース監督の長編デビュー作。魔女狩りというオカルト的なモチーフを使いながら、親子関係の破綻を描くという意味では『エクソシスト』にもテイストが近い。

 

同じ灯台守のお話という事で。ウェルメイドなドラマを得意とする木下恵介の代表作のひとつだが、序盤にJホラーみたいな演出があってギョッとする。 

ジョン・クラシンスキー『クワイエット・プレイス 破られた沈黙』

前作の世界観が大きく拡張され、ポストアポカリプスものとしての性格が強まった第2作

私は前作について「ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!!」の「サイレント図書館」とやっている事は同じ、と書いた。眼が見えない代わりに聴覚が異常発達したエイリアンに地球が侵略されている、というのが作品の核となるアイデアである。主人公一家は音を立てない様に細心の注意を払って暮らしているものの、素足に釘がぶっ刺さって声が出そうになるとか、子供のおもちゃから電子音が鳴りだすとか、様々なアクシデントが襲い掛かり、その度に危険にさらされてしまう。ストーリーは基本的にこの繰り返しなのだが、ホラー映画として恐怖を盛り上げる「静から動」への場面転換が、「無音から騒音」というサウンド面での演出と完全にリンクしているのが作品の肝なのである。このシンプルかつ工夫に満ちた構成が評判を呼び、前作は国内外でスマッシュヒットとなった。
そのヒットを受けて予算も大幅にアップしたのだろう、3年ぶりに公開された続編では限定された空間を舞台にした前作とうって変わり、廃工場や波止場、孤島など多彩なシチュエーションが用意されている。また、主人公一家以外に生き残った人々との交流が描かれる事で、よりポストアポカリプスものとしての性格が強まり、物語の背景や舞台設定の輪郭がはっきりした。要するに『ウォーキング・デッド』っぽくなったので、ここからいくらでも続編やスピンオフ作品が作れそうだ。当然、連続ドラマ化も期待できるかもしれない。
作品の規模がスケールアップしたものの、監督ジョン・クラシンスキーの確かな演出力は今回も健在である。その実力は「DAY1」と題された今作のプロローグ、エイリアンが地球に攻め込んできた、そもそものはじまりの日を描くシーンで大いに発揮されている。緊張感と恐怖感が思う存分に味わえるこの場面でのパニック演出は素晴らしく、スティーヴン・スピルバーグの『宇宙戦争』に匹敵すると言っても過言ではない。ただ、このシーンの出来が良すぎるせいでその後の展開が見劣りするというか、そもそもこれは脚本の責任でもあるだが、多くのシーンが前作の焼き直しに見えてしまう。例えば、エイリアンに追われたマーカスが窯の中に逃げ込んだところ、ロックが掛かってしまい窒息しそうになるというのは前作のサイロ内でのエピソードそっくりだし、スプリンクラーを使ったエイリアンへのかく乱作戦も前作の花火と同じである。最後の最後、リーガンがエイリアンを倒す方法もほとんど変わり映えがしない。
前作で描かれた世界観を引き継ぐかたちで続編が作られているので、ある程度は展開が似てしまうのも仕方がないだろう。ただ、本作で初めて導入されたポストアポカリプス的な要素―生き残った人々が形成するコミュニティや暴徒化した集団などの描写が十分ではないので、どうも更なるシリーズ化への橋渡し的な、中途半端な印象を受けてしまう。後から思い返してみると、こうした世界観を拡張する要素が導入されたにもかかわらず、この続編はびっくりするぐらいこじんまりした話なのである。『バイオハザード』のポール・W・S・アンダーソンミラ・ジョヴォヴィッチの様に、ジョン・クラシンスキーとエミリー・ブラント夫妻が『クワイエット・プレイス』ユニバースをこれから拡張していくつもりなのかは分からないが、次作以降はこれまで語られてきた「家族の物語」からの脱却が必要となるのは間違いない。

 

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侵略ものホラーとしてスマッシュヒットを果たした前作。エミリー・ブラントの見せ場はこちらの方が多いかもしれない。以前に感想も書きました。

クレイグ・ガレスピー『クルエラ』

髪の毛を黒と白に染め分けたクルエラはモードの破壊者なのか

『ヴェノム』やら『スーサイド・スクワッド』やら、巷ではアメコミ原作のヴィラン映画が大流行だが、ディズニー・ピクチャーズもこの手のヴィランものには乗り気の様である。ここ最近のディズニー・クラシックの実写リメイクの流れにも乗り、アンジェリーナ・ジョリーが魔女を演じた『眠れる森の美女』の実写リメイク『マレフィセント』に続き、今度はエマ・ストーンを主演に迎えて『101匹わんちゃん』の敵役クルエラ・ド・ヴィルの若かりし頃を描いた映画が公開される事になった。もちろん、『101匹わんちゃん』の実写リメイクは本作が初めてではない。1997年には『101』という作品が、2001年にはその続編『102』が作られており、クルエラをグレン・クローズが演じている。著名なファッションデザイナーであるクルエラは、非常にお洒落な人物として描かれていて、本作でも実に47種類もの衣装が登場するそうだが、『101』でもシーン毎に異なる衣装を用意し、二度と同じ服は登場しないという凝りようだった。
アニメ版であろうと実写版であろうと彼女の目的は同じで、ダルメシアンの毛皮のコートを作る為に、旧友のアニタが飼う15匹のダルメシアンを誘拐しようとする。もちろん、ディズニーの作品だから子供から大人まで楽しめるファミリームービーに仕上げているが、これはなかなかイカれた設定だ。サスティナブルを標榜する現在のファッション業界ではもちろんの事、毛皮の使用が一部の動物愛護団体の主張に過ぎなかった時代でも、ダルメシアンの皮を剥いでコートを作る、というのは相当ヤバい行為だろう。自分だけ誕生会に呼ばれなかった腹いせに王女を永遠に眠らせるのとは違って、何か生々しい怖さがある。だから、クルエラはディズニー・ヴィランの中でも特に残忍なイメージが付与されていた。
ただ、本作『クルエラ』ではその様なイメージはほぼ漂白されていて、不幸な境遇で育った少女が、悪事に手を染めつつもやがて一人の女性として自立、成長する、といった―いかにも昨今のディズニーらしい―物語が展開していく。結局のところ、この手のヴィラン映画は「泥棒にも三分の理」というか、こんな悪党にもそれなりの事情があるんですよ、みたいな弁明に落ち着いてしまうものだが、本作もその範疇を出ていない。『アイ,トーニャ 史上最大のスキャンダル』のクレイグ・ガレスピーを監督に起用して、古典的名作に新しい風を吹き込もうとする試みは理解できるが、いかんせん穏当過ぎる脚本が足を引っ張り、今ひとつ抜けの悪い映画に仕上がってしまった。ここは割り切って、血みどろのエマ・ワトソンが犬を殺しまくる映画にした方が良かったのではないか。まあ、そんな映画は誰も望んでないだろうが…
とはいえ、本作にも見るべきところはある。ファッション・デザイナーとして修業中の身であるクルエラと、その師匠であり母の敵でもあるバロネスの対決を通じて、1950年代から70年代のイギリスにおけるファッション変遷史を俯瞰しようという試みだ。バロネスのイメージソースはおそらく、クリスチャン・ディオールバレンシアガなど1950年代に活躍したオートクチュールのデザイナー群だろう。時代が1960年代に移るとプレタポルテ(既製服)が登場し、例えばイヴ・サンローランの様なデザイナーが台頭し始める。貴族や一部の富裕層のものだったファッションは既製服の登場によって一般的なものとなり、上述のデザイナーの立ち上げたブランドがビッグ・メゾンへと成長していく。バロネスの経営するメゾンはまさにその雰囲気を漂わせている。
ところで、こうしたハイ・ブランドがユースカルチャーを積極的に取り入れつつ、若者たちを客層として取り込もうとするのは現在も続く流れだが、1970年代には既存の権威や体制に縛られる事を嫌った若者たちによるヒッピーカルチャーが隆盛を極め、その余波を受けてファッション業界はより大きな変革の時代を迎える事になった。衣食住の全てを自分たちで作ろういうDIYムーブメントが盛り上がる中、若者たちはデザイナーやメゾンの提案するお仕着せの衣服を嫌い、それらをより自由な発想で解体し、再構築する様になっていったのだ。そこから、破れたジーンズや穴の空いたTシャツを身にまとい、チェーンや安全ピン、スタッズで飾り立てたパンクファッションが登場し「ヴィヴィアン・ウエストウッド」の様なブランドが世界的な注目を集める様になる。
パンクファッションは、ディオールが提唱した「ニュールック」以降、図らずも女性を縛り付ける事になった「女らしさ」―優しい肩のライン、細いウエスト、裾広がりのスカートといった優美な曲線こそが女性の理想的な体形であり、ファッションはそのシルエットを演出するものだ、という固定観念からの解放であった。自らを束縛する全てを破壊しようとするクルエラがパンクファッションを身にまとうのも、だから理にかなった事ではあるだろう。映画の中盤、クルエラはバロネスが過去に作ってきたドレスをパッチワークし、全く新たな衣装を作り上げてしまう。こうしたアバンギャルドでアンシンメトリーなデザインは、コム・デ・ギャルソン川久保玲を思わせもする。1981年のパリコレクションで、コム・デ・ギャルソンヨウジヤマモトがデビューし、既成概念に捕らわれないカッティングとファッション業界ではタブーとされた黒を基調とする色使いで世界中に驚きを与えた。それは後年、「黒の衝撃」と評される事になるのだが、髪の毛を黒と白に染め分けたクルエラには、既にその萌芽を感じ取る事ができる。

吉田大八『騙し絵の牙』

原作のエモーショナルなドラマ性は後退し、コン・ゲームとしての面白さが際立っている

大泉洋の顔が大写しになったこの映画のポスターは、そのまま特殊詐欺被害防止啓発ポスターにも採用されている。確か『紙の月』も詐欺・横領抑止キャンペーンのポスターになっていたから、吉田大八は警察のポスターになりそうな映画が得意だと言っていい。これは冗談でも何でもなく結婚詐欺を扱った『クヒオ大佐』も撮っている訳で、人を騙したり、あるいは人を信用したり、そうした関係性からドラマを立ち上げようとしているのだと思う。
本作は、『罪の声』の映画化も記憶に新しい塩田武士による小説の映画となるが、原作は元々、大泉洋が主人公を演じる事を想定し、あて書きで書かれた、という一風変わった経緯を持つ。当然ながら、映画版の主演も大泉洋が務めているが、吉田大八は原作のプロットを活かしつつ大幅な脚色を行っているので、小説と映画では印象がかなり異なる様に思う。原作は、大手出版社の権力争いを主軸に、デジタル化の波に飲み込まれつつある出版業界がどの様に変わっていくべきか、あるいは何を守るべきなのか、というテーマを主人公の編集者、速水の姿を通じて描いている。基本的には業界内幕ものとも言うべきプロットがメインで、タイトルにある「騙し」の要素は薄い。更に、速水も単に「変わり者」で「人たらし」な―これが大泉洋のパブリックイメージに重なるのだろう―敏腕編集者としてだけでなく、父としてあるいは夫としての苦悩や小説に対する情熱を持った、血の通った人間として描かれているので、むしろヒューマンドラマとしての側面が強い小説と言えるだろう。
しかし、映画版の速水は小説版と異なり、家庭にまつわる描写が全くない。更に原作では重要な要素だった、速水が編集者を目指すきっかけとなった父親とのエピソードも完全にオミットされている。映画版の速水は小説に対する情熱など持ち合わせておらず、更にいえば編集者という仕事にもそれほど興味がある訳ではない。彼を衝き動かしているのは「面白ければいい」という信念のみであって、最終的にそれが出版物である必要すらないのだ。小説版の速水が持っていた小説や編集者に対する真摯な想いは、松岡茉優演じる同僚の高野恵(ちなみに、原作ではこの高野と速水が不倫関係にある、という設定だったがこれも映画版では削除されている)が受け継いでいる。
この様に、映画版の速水は人間性をはく奪された、非常に虚無的な男として描かれている。当然、こうした人物は原作の様なエモーショナルなドラマの主人公にはなりにくい。その代わりに小説版よりも強まったのが「騙し」の要素、コン・ゲームとしての側面だ。上述した通り、映画版の速水は人間味の薄い、何を考えているのか分からないキャラクターである。登場人物たちが互いを欺き合い、二転三転するストーリーで観客の興味を引っ張るコン・ゲームの主役にはむしろ適役だろう。本作では大泉洋の他に國村隼佐野史郎佐藤浩市といった実力派俳優たちが一癖も二癖もあるキャラクターを演じている。原作のプロットを利用しながら、権謀術数が渦巻くコン・ゲームに仕立てあげた吉田大八の手腕をまずは評価すべきだろう。
ただ、この様な改変によって主人公である速水の人物像がぼやけてしまった様にも思う。彼が「面白ければいい」というポリシーの持ち主である事は分かるが、そこに個人的なオブセッションが描かれる訳でもなく、単に台詞として語られるだけなので、全編を通じてどうも狂言回し的な役割に甘んじている様な気がする。その為、何度も繰り返される騙し合いや逆転に次ぐ逆転も、主人公の最終的な目標がぼんやりしているせいか、今ひとつノレないのである。代わりに本作のドラマパートを盛り上げるのが松岡茉優演じる高野恵で、こちらの方がひとりの人間として丁寧に描き込まれているので感情移入しやすい。もちろん、ある程度は作り手の意図した事なのだろうが、大泉洋にあて書きした小説の映画化作品で大泉洋の印象が薄いというのも皮肉な話である。
あと、本作は劇伴が非常に良い。音楽を担当したLITEというバンドを私は知らなかったので、2、3枚アルバムを聞いてみたがそれほど面白くなかった。おそらく吉田大八のディレクションが上手いのだろう。これは『羊の木』でも感じた事である。

 

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三浦しをんの小説を『映画 夜空はいつでも最高密度の青色だ』の石井裕也が映画化。時代に取り残されつつある紙媒体の書籍の中でも、最も古臭いもののひとつと思われている辞書の編纂に奮闘する編集者の物語。