事件前夜

主に映画の感想を書いていきます。

石川慶『蜜蜂と遠雷』

 

蜜蜂と遠雷Blu-ray豪華版(2枚組)

蜜蜂と遠雷Blu-ray豪華版(2枚組)

  • 出版社/メーカー: 東宝
  • 発売日: 2020/04/15
  • メディア: Blu-ray
 

人気作家、恩田陸による直木賞受賞作の映画化、となれば思い入れの強いファンも数多くいるだろうし、原作の世界がどれぐらい忠実に映像化されているか、というのも本作を評価するポイントのひとつだろう。しかし、私は原作未読の為にその辺りの出来不出来がよく分からない。そもそも、恩田陸宮部みゆきと並んで苦手な作家の一人で『六番目の小夜子』と『不安な童話』ぐらいで読むのをやめてしまった。まあ、そんな昔の作品の印象をいつまでも引きずっていてもしょうがないのだが…
原作の再現度云々を置いておくとしても、本作に課せられたハードルが相当高いものであった事は想像に難くない。何しろ、4人の一流ピアニストが国際コンクールで競い合う様を描いた物語なのだ。小説であれば、読者には実際の音が聴こえないという点を利用して、様々な文学的表現によって音のイメージを喚起させる事ができるが、映像作品となれば、それなりに説得力のある演奏を観客に聴かせねばならない。もちろん、映画でも演奏シーンを全て省略して、後は観客の想像に委ねる、という手段も採れるかもしれないが、それでは誰もが納得する作品に仕上げる事は難しいだろう。
映画版『蜜蜂と遠雷』では、各キャラクターのイメージに合う実在のピアニストを選定し、彼らに弾いてもらった音を劇中で使用する、という正攻法でこの難題に挑んでいる。まさに、自ら逃げ道を塞いだストロングスタイル。この点だけでも本作は称賛に値すると思うが、しかし、だからといってそれだけで観客が納得できるとは限らない。何せ、映画を観ている人々の大半は音楽については素人なのだ。国際コンクールに出場する様な手練れ達の演奏に優劣を付けたり、弾き手それぞれの個性を見出したりする事ができよう筈もない。そこで必要となってくるのが映画的な演出である。演奏者がピアノを弾く鬼気迫る姿、それを聴いた観客の反応、といったショットの積み重ねによって、観客は今この場で素晴らしい演奏が繰り広げられているのだ、と信じる事が可能になる。更に言えば、例えば主人公が序盤にピアノを弾く場面では70点ぐらいの、終盤では100点満点の演奏に聴こえる様な劇伴を用意したとして、それを観客が聴き分けて、ああ上達したな、と理解できる訳もないのだから、主人公の成長を描くには、やはり誰しも納得できるエピソードを用意しドラマとして語らなければならないだろう。その点、この作品は十分すぎるほどの成果を挙げている。まだ劇場用長編第2作目だが、監督、脚本、編集と一人三役を務めた石川慶の実力は相当なものだと断言できる。
さて、前段で私は成長、と書いた。それでは、栄伝亜夜を始めとする主人公たちが、眼の前に立ち塞がる壁を乗り越えるきっかけは、どこにあったのだろうか。結論めいた事を言ってしまえば、それは「聴く」という行為そのもの、なのである。映画を観た方ならお分かりだろうが、本作では主人公たちがピアノを弾く、つまり音を「発する」場面以上に、音を「聴く」場面が多い。もちろん、ライバルたちの演奏を聴いて刺激を受け、自身の音楽が変化していく、という馴染みのある展開も用意されている。しかし、より重要なのは、例えば雨だれが落ちる音、波が海岸に打ち寄せる音、小鳥たちの鳴き声、といった私たちが普段聴いているはずの―いや、本当に聴いているのだろうか―ありふれた音ひとつひとつに耳を傾け、それらを自らの中に取り込むというプロセスを彼らが経験していく事だ。まさに、「世界には音が溢れている」のである。一流の演奏家になる為には、まず一流の聴き手にならなければならない、という、私たちにも―「絶対音感」といった言葉によって―何となく理解している普遍的なテーマが終盤に立ち上がってくるからこそ、ピアニストという特殊な世界を描いた本作に、観客は共感する事ができるのである。そうした観点から観れば、作中で度々挿入される馬が走るシーンの意味も理解できるだろう。この場面を観て、ああ、馬が走ってるな、で終わってはならない。馬の蹄が土を蹴りたてる音、荒い息づかい、肌を流れ落ちる汗の音まで、私たちは聴き取ろうと努めなければならないのだ。
世界と対峙し、その音を体内に取り込み、自分だけの音楽として変奏し世界を鳴らす事。それは、世界そのものを自らの望むように作り変えてしまう行為であり、要するに音楽とはそもそもエゴイスティックで、インモラルな性格を持っているのだ。松岡茉優演じる栄伝亜夜と、鈴鹿央士演じる風間塵が月明りを全身に浴びながら、即興連弾する場面の危ういほどのエロチックさは、音楽が本来持つ、背徳的な官能性と通じているだろう。

 

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愚行録 (特装限定版) [Blu-ray]

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  • 発売日: 2017/08/29
  • メディア: Blu-ray
 

石川慶監督の長編監督デビュー作。ミステリー作家貫井徳郎直木賞候補作を映画化したサイコサスペンスだが、固定ショットと手持ちカメラによる撮影を場面に応じて巧みに使い分ける演出など、新人とは思えない力量に驚かされる。

 

ピアニスト (字幕版)

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  • 発売日: 2014/06/27
  • メディア: Prime Video
 

ピアニストの映画というとやっぱりこれかな。ミヒャエル・ハネケ監督が音楽教授と若きピアニストの愛を通じて、音楽の素晴らしさを高らかに謳いあげた名作。嘘です。