事件前夜

主に映画の感想を書いていきます。

クレイグ・ギレスピー『アイ, トーニャ 史上最大のスキャンダル』

 

トーニャ・ハーディングによるナンシー・ケリガン襲撃事件は、当時大きな騒ぎとなり、遠く離れた日本でも連日にわたって報道されていた。本作は、関係者の証言によってその事件の実態に迫ろうとする作品だが、その作りはなかなか手が込んでいる。

本作の構成は、関係者のインタビューパートとその再現ドラマパートに分かれているが、実際はインタビューの場面も再現ドラマに出演している俳優たちが演じており、言わばフェイクドキュメンタリーの色彩が濃くなっている。インタビューに応える人物が「次のドラマパートで語られるエピソードは事実ではない!」と憤慨したり、「私の出番が少ないじゃないの!」と文句をつけたりと、メタ的なおふざけまで挿入されている。
ドラマパートについても、当事者なら決して語りたがらない様な、露悪的なエピソードも描かれており、おそらくは創作も混じっているのだろうが、何しろ前述のインタビューパートがデタラメなのでどこまでが事実で虚構なのか、その判別がつきづらい。
作り手たちが現実の事件を映画化するにあたり、ここまで虚構性を強調した理由は、リアルタイムでこの事件に触れた世代の私にはよく分かる。冒頭で述べた通り、この衝撃的な事件は日本のワイドショーでも毎日報道されていたが、今思えば、実際に裏が取れているのかどうかもよく分からない適当な取材に基づく、結論ありきの内容であった(もちろん、当時の私は報道内容を完全に鵜呑みにしていた訳だが)。事件の関係者たちはその立場によって相反する証言を繰り返す為、何が真実なのか全く分からない。逆に言えば、適当に証言を繋ぎ合わせれば、幾らでも異なる虚構を再生産する事ができる。それを物語と呼ぶとすれば、報道という名の下に新たな物語が次々と生み出されていった訳である。ならば、報道ではなく映画という形で新たな物語を立ち上げる事も可能な筈だ。
では、本作は実際の事件を基にした物語の新たなバリアントに過ぎず、真実は語られていないのかと言えばそんな事はない。この映画には嘘つきのクズばかりが登場し、自分の都合の良い駄法螺を吹きまくるが、それでも絶対に、誰にも犯す事の出来ない真実がはっきりと描かれている。それは、トーニャ・ハーディングが飛んだトリプル・アクセルの軌跡だ。アイスリンクの中でだけトーニャは一人になり、真実の自分と向き合う。そしてジャンプの瞬間、彼女はこの薄汚い地上を離れ、決して他人には到達する事のできない真理に触れていた筈なのである。