事件前夜

主に映画の感想を書いていきます。

フロリアン・ゼレール『ファーザー』

錯綜し破綻したヒッチコック的語り口が垣間見せる、認知症患者の見る世界

私の母は、死の数か月前から認知症の兆候があらわれ始めていた。既に他界した筈の父が家にやってくる、と私に電話を掛けてくる様になったのはいつ頃からだろうか。当初は、父が既に死んでいる事、母も葬儀に立ち会った事を説いて聞かせると納得していたのだが、段々と電話を掛けてくる回数も多くなり、常軌を逸した話を繰り返す様になった。公営住宅の5階に住んでいるのに誰かが窓から覗いていると怯え、父が夜中にやってきて財布から金を盗んでいくと交番に駆け込む。認知症の家族に対する接し方として、本人の妄想や幻覚を頭ごなしに否定するのは孤立感を深め良くない、と聞いたので、私も母の訴えにできるだけ話を合わせる様に務めていたのだが、さすがに「小人ぐらいの大きさになった父親が、ドアの郵便受けから入り込んでくる」などという話をどうやって受け入れたらいいのか分からない。次第に私も苛立ちが募り喧嘩をする回数も増え、そろそろ施設に入れる事も検討し始めていた矢先、もともと心臓の弱かった母は不意にこの世を去った。母の遺体の傍らには、夫婦関係についてのレクチャー本が置かれていた。彼女が死の直前どの様な世界を見ていたのか、私には分からない。
オリヴィア・コールマン演じるアンが父の住むロンドンの家を訪れる場面から、『ファーザー』は始まる。アンソニー・ホプキンス演じる父親アンソニーは、自分が認知症である事を認めようとせず、アンの手配した介護人を次々と追い出していた。3人目の介護人を追い払った理由をアンが訪ねると、その介護人には盗癖があり、大事にしていた腕時計を盗まれた、などと嘯く。もちろん、これは彼の被害妄想に過ぎず、腕時計はちゃんと家の中にあった。アンは自分が恋人と一緒にパリへ移り住む事、介護人を受け入れられないのなら、施設に入ってもらうしかない事を父親に告げる―この冒頭場面は、「難病もの」の映画の出だしとしては順当と言っていい。普通であれば、ここから父親の病状の進行や、介護に追われる娘の苦悩、徐々に移ろっていく親子関係、などが描かれていく筈だが、本作はここから思いがけない展開を見せていく。
アンソニーはある日、家の中で見知らぬ男がソファに座って新聞を読んでいるのを目撃する。男は、自分はアンの夫であり、ここは自分たちの家で逆にアンソニーの方こそ居候なのだ、と主張して譲らない。しかし、アンは数年前に離婚し、新しく出来た恋人とパリへ行くのだと、ついこの間父親に聞かせたではないか―困惑し自分の記憶を疑い始めるアンソニーの前に、買い出しから帰ってきたアンが姿を現すが、それは父が知っている娘とは似ても似つかない全くの別人だった―
まるでヒッチコックの映画じみた展開だが、もちろん本作は『白い恐怖』の様な記憶喪失をテーマにしたサスペンスではない。アンソニーの周りにいる人たちは次々と顔を変え、その時々で話す内容も変わりアンソニーを不安と混乱に陥れる。映画としてのストーリーも時系列がめちゃくちゃに入れ替えられ、同じ場面がループしたりもするので、観客である私たちもまるで迷宮に迷い込んだかの様な感覚を味わう。しかし、この不可解な現象はサスペンス映画の「謎」とは異なり、最後に「真相」が用意されている訳ではない。
さらに本作が面白いのはストーリーに限らず、被写体を写すカメラも現実と妄想を区別していない点にある。例えば、本作ではアンソニーの娘アンを、オリヴィア・コールマンオリヴィア・ウィリアムズという2人の女優が演じている。ある日突然、見知った筈の人が赤の他人に見えてしまう認知症患者の症状を再現する為の演出だが、カメラはオリヴィア・コールマンオリヴィア・ウィリアムズを全く同列に扱っている為、どちらが現実でどちらが妄想か、という判断が観客にもできない。例えば、アンソニーの目線に立った主観ショットでは女優A、その他の客観ショットでは女優B、という風にはっきりと使い分けされていれば、観客も女優Bこそが本当の娘の姿で、それが認知症の父には女優Aに見えるんだな、と容易に納得できる。しかし、『ファーザー』では、主観ショットと客観ショットの別なく、同じ登場人物を異なる俳優が、あるいは異なる登場人物を同じ俳優が演じているので、首尾一貫した物語を求める観客はいよいよ混乱してしまうのだ。
これを小説で例えるなら、物語の「語り手」だけでなく「地の文」すらも信用できない、という事になる訳で、完全な反則である。よく言われる「信用できない語り手」とは、物語内の固有の人格を持った登場人物が担わなければならない。無色透明な「地の文」は「語り手」になる事はできないからだ。従って、本作は「難病もの」の映画のごとく、私たちの考える「正常」を担保に、認知症の「異常」を語ろうとしているのではない。むしろ、その「異常」をストーリラインや語り口に積極的に取り込む事で、認知症患者の見る世界を観客に体感させようとする。
この錯綜し破綻した世界で観客をナビゲートしてくれるのが、アンソニー・ホプキンスによる見事な演技だろう。彼は、不思議の国に迷い込んだアリスの様に、あるいは入り組んだ謎に取り組む名探偵の様に、身の回りで起こる不可解な事象に立ち向かい、混乱に満ちた世界から逃れ出ようとする。もちろん、最初に述べたとおり、本作には「謎」や「真相」などというものは存在せず、全てはアンソニーの精神が反映されたものに過ぎない。その事実に向き合わざるを得なくなった時、彼が見せる痛切な表情は私たちの胸を打つ。本作でのアンソニー・ホプキンスの演技が評価されたのは、何も認知症患者の真似が上手かったから、という訳ではない。彼は1人の人間として、この混乱した世界を生き抜き、闘い、そして敗れ去ったのだ。私たちが目撃したのは、その悲痛な闘いの記録なのである。

 

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若年性アルツハイマーを発症した言語学者の姿を演いた一作。ジュリアン・ムーアはこの作品でアカデミー主演女優賞を受賞した訳で、やはりこの手の役は賞を獲りやすい、というところもあるのだろう。

ジェリー・ロスウェル『僕が跳びはねる理由』

世界の複雑さを複雑さとして受け止める事―自閉症スペクトラムが気づかせてくれる美しさ

例えば「自閉症的」といった言葉がからも分かるとおり、自閉症スペクトラムとその患者については他者とのコミュニケーションを拒否し、孤独を好む社会不適応者というイメージが旧来から流布されてきた。言語による意思伝達が困難であり、不可解な行動を繰り返す彼らを奇異と恐れの眼でもって扱ってきた、というのが私たちの社会の実態だったろう。
重度の自閉症者である東田直樹が13歳の時に著したエッセイ『自閉症の僕が飛び跳ねる理由』は、だから多くの人に驚きと共に迎えられた。東田は、一見すると理解不能自閉症者たちの言動にもれっきとした理由があり、それは私たちと同じく喜びや悲しみ、不安や怒りといった感情から導き出されているのだ、という事を緻密な自己分析と豊かな感性によって解きほぐしていたからだ。いったいなぜ、自閉症者たちは、所かまわず奇声を発したり、床に頭を打ち付けたり、同じ事を飽きずに繰り返したりするのか?彼らがいつも表情に乏しく他人に対しよそよそしいのはなぜなのか?『自閉症の僕が飛び跳ねる理由』を英訳し、この映画版にも出演しているデイヴィッド・ミッチェルによれば、それは「頭の中の編集者が、何もいわずに出て行ってしまった」からだという。私たちは普段、感覚器官を通じて得られる外部からの膨大な情報―物の色、かたち、味、手触り、音、温度、気温、時間などを順序よく並び変え、記憶と照らし合わせ、時には統合、分割し、ひとつの秩序だった体系に編集する事で受容している。しかし、その編集能力が失われてしまったらどうなるだろうか。ありとあらゆる情報が一斉に押し寄せ、その圧倒的な量と質に脳の処理が追いつかずパニックを起こしてしまうに違いない。自閉症スペクトラムは、個人が世界の複雑さに太刀打ちする能力を奪ってしまう。しかも、発話能力に障害を来しているが為に、その苦しみ他者と分かち合う事も出来ない。自閉症者は孤独が好きなのではなく、孤独にならざるを得ないのである。
東田直樹の著作を読むと、自閉症者たちは世界の複雑さに敗北したのではなく、私たちとは全く異なる方法で闘い続けているのだ、という事が理解できる。時間や物体、空間の把握の仕方が私たちとまるで違う彼らは、だからこそalternativeな戦略で世界に対抗しているのだ。そこから、彼らだけが感じ取れる世界の別の側面、新たな美しさが垣間見えてくる。東田直樹の思考は、自閉症スペクトラムを通じて世界の新たな可能性を探ろうという点にまで射程を伸ばしている。『自閉症の僕が飛び跳ねる理由』が世界30ヵ国で出版され、中国語からマケドニア語まで24言語にわたって翻訳される大ヒットとなったのは、単なる興味本位や同情などではない。自閉症ではない私たちがよりよく生きる為のヒントもそこに記されていたからだ。
さて、本作は、その『自閉症の僕が飛び跳ねる理由(Reason I Jump)』からインスパイアされた自閉症スペクトラムをめぐるドキュメンタリーである。東田直樹の言葉が引用され、子供の頃の東田を思わせるイメージ映像がインサートされるものの、作家本人が出演している訳ではない。ただ、前述のデイヴィッド・ミッチェルが自ら出演し、自閉症者の子供を持つ親の立場から、東田直樹の思想の重要性を説いている。それらにナビゲートされるかたちで描かれるのは、イギリス、インド、アメリカ、シエラレオネなど世界各国に住む自閉症者とその家族の姿だ。スペクトラムという言葉が示すとおり、ひと口に自閉症と言ってもその症状は様々で、一括りにする事はできない。当然、国によって自閉症に対する理解の度合いも異なるだろう。自ずから、その困難の度合いも違いが生じる。それぞれの自閉症者たちの人となりや内に秘めた想い、自身の内面を表現する手段も当然まちまちで、本作は丹念な取材によって、国、社会、人など多様な側面から自閉症スペクトラムをめぐる問題を探っていく。
私たちはいつだって言葉に囚われている。だからこそ、東田直樹は自分の考えを理解してもらう為に本を書いた。当然ながら、この映画もまた数多くの言葉に溢れている。東田直樹の著作に書かれた言葉、デイヴィッド・ミッチェルの言葉、自閉症者の親たちの言葉、自閉症者が文字盤やキーボードを通して発する言葉。しかし、本作はそうした言葉たち以上に、映像と音響が雄弁に自閉症者たちの生きる世界について教えてくれる。揺れるカーテンの襞、回転するタイヤのホイールや扇風機の羽根、空から勢いよく落ちてくる雹や窓を伝う雨だれが、通常では考えられない程の接写で映し出され、それらの立てる音がまるでASMRの様に強調されスピーカーから鳴り響く。映画でも引用される東田直樹の言葉をここで幾つか参照してみよう。

 

「みんなは物を見るとき、まず全体を見て、部分を見ているように思います。しかし僕たちは、最初に部分が目にとびこんできます。その後、徐々に全体が分かるのです。」


「気になる音を聞き続けたら、自分が今どこにいるのかわからなくなる感じなのです。その時には地面が揺れて、周りの景色が自分を襲って来るような恐怖があります。」

 

物のかたちや音について、彼らが私たちといかに異なる捉え方をしているかが分かる。物をぼんやりとした全体ではなく、細部の集合として把握する事。記憶や経験の蓄積によって枠組みを設定し、そこに世界を当てはめようとする私たちに比べて、記憶や経験の蓄積という観念がない彼らは、世界の複雑さを複雑さそのものとして受け止めようとするのだ。自身が捉えた世界のかたち、あるいは音の美しさについて東田は言う。

 

「僕は時々、こんなに美しい世界を、みんなは知らないなんてかわいそうだと思います。それほど僕たちの見ている世界は魅惑的で、すばらしいものなのです。」

 

本作はその特異なカメラワークと音響処理によって、世界の新たな美しさを垣間見せてくれる。その美しさに気づく事が、私たちにとって何よりも大切な事なのだ。

西川美和『すばらしき世界』

自分の正しさを貫く事で社会から排斥されてしまう三上の姿は、私たちの社会が抱える矛盾そのものだ

西川美和監督作品の魅力ってどこにあるのだろうか。私の場合、やはりお話としての面白さが先に立つと思う。知らない間に父親が莫大な借金をこさえていたり、目の前で兄妹が人を殺める場面を目撃したり、西川作品では主人公を非常に特殊な環境下に置く場合が多い。そうした極限状態の中で、人々は不可解な心の動きによって、普通なら考えられない突飛な行動に突き進んだりもする。人間、切羽詰まると何をしでかすか分からない、と言えば身も蓋も無いが、だから西川作品では犯罪を物語の中心に据えたものが多い。やむにやまれず罪に手を染めた時の葛藤や、犯行を繰り返す内に鈍麻していく良心、二度と過去の自分に戻れない事への絶望感、そうした罪をめぐる様々な心の揺れ動きが映画を形作っていく。個人的に、これまでの最高傑作は結婚詐欺を扱った2012年の作品『夢売るふたり』だと思っていて、主演の松たか子のパブリックイメージを逆手に取った脚本と演出が素晴らしく、犯罪映画としての西川作品のひとつの到達点と言ってもいい。
西川美和自身も、やはりお話の面白さ、というものにはこだわりがあるらしく、全ての作品で脚本を担当し、長編映画では常にオリジナル脚本にこだわってきた。従って、西川美和が映画を作る時はまず脚本を書き始めるところから始まる筈で、その副産物として『ゆれる』や『永い言い訳』、『きのうの神さま』といった小説が生まれたのだろう。脚本であろうが小説であろうが、何かを書く、という行為は何かを読む、という行為と地続きであって、だから書評家としても活躍する彼女が、その最新作『すばらしき世界』で佐木隆三のノンフィクションノベル『身分帳』を題材に選んだ事もそれほど意外な話ではない。特に「犯罪という磁場で明らかになる人間性の湾曲(秋山駿)」を追求し続けた佐木隆三の作品と西川美和の親和性は高いと思う。
ところで、『すばらしき世界』では『身分帳』を「原作」ではなく、「原案」扱いとしている。「原案」と「原作」の線引きは難しいが、「原案」というのはその作品の元となったアイデア、という意味で捉えていいだろう。映像作品の場合、原作のアイデアを活かしつつ、全く異なる内容の作品になった際など、「原作」ではなく「原案」扱いとなる事が多い。『身分帳』は昭和61年に懲役13年の刑期を満了し、旭川刑務所から出所してきた受刑10犯の男を主人公としている。それを西川美和は時代設定を大きく変えて現代を舞台とした。基本的なプロットはほとんど変わらない、というか驚くほど『身分帳』に忠実なのだが、時代を現代に移し替えた事により、当然ながら登場人物の価値観やそれに基づく言動も変わってくる。その辺りの変化を踏まえて「原作」ではなく「原案」としたのだろう。
『身分帳』から30年以上経った現代を舞台とする『すばらしき世界』では、各エピソードのディテールについて時代に合わせた変更を行っている。しかし、原作の内容を尊重しようという意図が邪魔をしたのか、古い酒を新しい革袋に入れただけに感じる箇所もある。例えば、アパートに住む主人公の三上が、毎晩大騒ぎをする隣人の部屋に怒鳴り込みに行くシーンを例にとってみよう。『身分帳』では、騒いでいたのは新聞勧誘員の青年たちで、主人公は彼らを束ねる元締めみたいなチンピラとひと悶着を起こす訳だが、『すばらしき世界』では世相を反映させてか、新聞勧誘員を外国人労働者に変更している。おそらく、現代では低賃金労働における搾取構造の被害者はこうした出稼ぎ外国人に移行している、という認識が作り手にあるのだろう。今どき新聞の勧誘と言われてもピンと来ない人も多いだろうし、この変更自体は納得できる。しかし、肝心の喧嘩の場面で、三上が喧嘩をする前に仁義がどうとかどこの組だとか、ヤクザ映画の様な啖呵を切って相手をビビらせる、という部分には全く変更が加えられていないのだ。もちろん、『身分帳』の舞台となった昭和61年の時点でもこんな古臭いヤクザはほとんどいなかったろうが、だからこそ佐木隆三は主人公(『身分帳』では山川という仮名が用いられている)を浦島太郎の様な存在として描き、13年という刑期の重さを強調した訳である。しかし、現代が舞台となる『すばらしき世界』となるとそうはいかない。何しろ13年前でも2007年である。『龍が如く』じゃあるまいし、今どきこんなヤクザがいるか、という話になってしまう。
この映画を観て、近所のスーパーの店主やケースワーカーなど、主人公三上を親身になって助けてくれる、非常に善意に溢れた人々ばかりが登場する事に不自然さを抱いた人もいるかもしれない。実はここも『身分帳』からほとんど変えていない部分であり、佐木隆三も「周囲が善人ばかりなのが不自然」と批評されたと明かしている。それに対し、佐木は「一握りの”善人”と接触するだけで、主人公には十分だったと、わたしは信じています」と反論している。確かに、出所したての前科10犯の男の味方になってくれる人間など、世間には一握りしかいないだろう。だが、全く存在しない、という訳ではない。三上=山川も、社会の中に溶け込もうとしながら、見えない壁に跳ね返される、そんな苦難の繰り返しの中でふと人の優しさに触れる瞬間があったに違いない。そうした社会の、人の心の多面的なありようを『身分帳』から引き継いで描きたい、という想いが西川美和にあった筈で、それが『すばらしき世界』という一見するとアイロニカルなタイトルに表れている。ただ、人と人の生身の繋がりがより希薄になった現代において、こうした善意が過分に「お涙頂戴」的なものとして映ってしまうのもまた否めない。自分に対して見知らぬ人が寄せてくれる好意に、私たちはより鈍感になってしまっているからだ。スーパーの店主やケースワーカーと山川のやり取りは『身分帳』の中でも好きなエピソードなので残してくれたのは嬉しかったが、現代を舞台にした以上、今だからこそ主人公が味わわなければならない困難や苦悩をもっと描き込んで欲しかった。博多行きのエピソード(これはこれで感涙必至の名場面だったが)も含め、『身分帳』に比べると若干その辺りのバランスが甘めになった気がする。
その意味で、終盤の老人介護施設でのエピソードは舞台を現代に移した意義が十分に感じられた。当然ながら、『身分帳』には主人公が介護施設で働くという展開はない。しかし、このエピソードの中心となる施設で働く障害者の青年は、『身分帳』で山川の近所に住んでいた聾唖者、阿部君からインスパイアされたのだろう。この阿部君という男は、窓を開けっ放しにして一晩に何回もオナニーをするので、女子学生が多く住む向かいのアパートの大家から何とかしてくれ、とクレームが来る。その大家から阿部君にそれとなく注意してくれと頼まれた山川はしかし、彼らが心の底に隠している偏見に真っ向から反発し、同じマイノリティとして阿部君の味方をする事に些かの躊躇もない。山川の一本気な性格が表れたエピソードだが、しかし、現代を生きる『すばらしき世界』の三上は、同じ様な選択を迫られた時、最後の最後で周囲に、世間に同調してしまう。そして、障害者の青年から貰ったコスモスの花束を抱え、雨に打たれながらむせび泣く。この場面での三上の葛藤と後悔は、現代を生きる私たちも日々感じている筈だ。自分の正しさを貫く事で社会から排斥されてしまう三上の姿は、私たちの社会が抱える矛盾そのものである。
ところで、『すばらしき世界』にはオリジナルのキャラクターとして、仲野大賀演じるフリージャーナリスト津乃田と長澤まさみ演じるTVプロデューサー吉澤が登場し、三上の半生を取材しTV番組の報道特番として放送しようと目論む。『身分帳』でも同じ意図を持って山川に近づくコピーライターが登場したが、彼は山川がチンピラと喧嘩をする姿に恐れをなし、早々に逃げ出してしまった。しかし、『すばらしき世界』では同じく逃げようとした津乃田を吉澤が叱咤する事で、津乃田はより深く三上の社会復帰にコミットしていく事になる。彼は孤児であった三上のルーツを探る旅にも同行し、やがて訪れる三上の死にも立ち会う事になるのだが、『身分帳』及びその補遺である『行路病死人』を読んだ方ならお分かりのとおり、西川美和はこの津乃田にかつての佐木隆三の姿を重ねている。佐木自身も、取材の一貫として山川と一緒に生地である福岡を訪れ、その他にも少年院や犯行現場の近所を巡っているのだが、それと共に作家とそのモデルという立場を超え、山川の社会復帰の為に職を探し、彼が再び罪に手を染めはしないかと(山川の死後に至るまで)気をもんでいた。山川が病死したという連絡を受けた佐木は、福岡まで飛び身寄りの無い彼の葬儀や告別式まで執り行ったのだ。つまり、彼自身もまた山川の周囲にいた「善人」だったのである(もちろん、佐木自身はそうした善人面を嫌悪しており、自分は小悪党であると自嘲していたのだが)。『すばらしき世界』において、津乃田は三上と一緒に風呂に入り、刺青の入った背中を流しながら自分が三上を題材とした本を書くと約束し、そして再び極道の道に入るのを何とか思いとどまって欲しい、と涙ながらに説得する。この想い、この約束こそが、当時の佐木隆三と山川の心を繋いでいたに違いない。

マイルズ・ジョリス=ペイラフィット『ドリームランド』

試練を耐え忍ぶか、自らの運命を切り開くか―砂嵐の中の苦悩

『アイ,トーニャ 史上最大のスキャンダル』以降のマーゴット・ロビーの活躍は目を見張るものがある。最近では『スーサイド・スクワッド』『ハーレイ・クインの華麗なる覚醒 BIRDS OF PREY』でのハーレイ・クイン役が評判となったが、その傍ら『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』『スキャンダル』といった話題作に出演しつつ、『ピーターラビット』できっちりファミリー層にもアピールしているから抜け目がない。今後も、ジェームズ・ガンによる『The Suicide Squad』のリブート、グレタ・ガーウィグノア・バームバックがタッグを組むバービー人形の実写化作品『Barbie』など注目作への出演が続くが、ジャンルは多岐にわたれど計算高く出演作を選んでいる印象だ。
もうひとつ、注目すべきなのは彼女は女優としてだけではなく製作の方にも力を入れている事で、先ほど挙げた『アイ,トーニャ 史上最大のスキャンダル』や『ハーレイ・クインの華麗なる覚醒 BIRDS OF PREY』などは製作も兼任していた。これまで製作した映画を見た限り、若手の映画監督をフックアップして新しい映画を作り、ついでに自らの役柄の幅も広げたい、という意向がある様だ。この辺りにも非常にクレバーな戦略が窺えるが、その意気込みが空回りしたのか、中には『アニー・イン・ザ・ターミナル』の様な「何でこんな映画を作ろうと思ったんだ?」と疑問に思わざるを得ない珍作もあったりする。まあいずれにせよ、これからも注目すべき女優である事は間違いない。
本作はブラック・リスト入りしていた脚本にマーゴットが惚れ込み、自ら映画化に奔走したという触れ込みの作品である。監督はこれが長編2作目という新鋭、マイルズ・ジョリス=ペイラフィット。本作を観る限り、映画史に対する知識も豊富で計算され尽くした構図を駆使する才人である。この2人は次の作品でもタッグを組み、『タンクガール』のリメイクに取り組むという。
1930年代を舞台とした本作には、2つの先行作の影響が見て取れる。砂嵐と干ばつによって困窮する農民たちの姿は、ジョン・スタインベックの原作をジョン・フォードが映画化した『怒りの葡萄』を思わせるし、マーゴット・ロビー演じる銀行強盗は明らかに『俺たちに明日はない』へのオマージュである(監督自身は『俺たちに明日はない』は意識的に観なかったそうだが)。
要するに、世界大恐慌によって資本主義システムに綻びが見え始めた時代を背景に、一方に大規模資本主義農業の影響で苦境にあえぐ貧困農民を置き、もう一方に暴力によって資本主義の象徴たる銀行から富を奪い返そうとするボニー&クライドのごとき銀行強盗を置く。その対照的な2つの価値観を象徴するのが主人公ユージンの父ジョージと逃亡中の銀行強盗犯アリソンであるのは間違いない。その間に挟まれたユージンは身を引き裂かれる様に苦悩し続ける。神から与えられた試練を耐え忍ぶか、それとも神に反旗を翻し自らの運命を切り開くか。その苦悩に、テキサスの荒野に吹き荒れる砂嵐の迫力ある映像が重なっていく。1930年代にはこの様なダストボウルと呼ばれる巨大な砂嵐が断続的に発生し、農地の表土を引きはがし甚大な被害をもたらした。そもそもは大草原であった土地を入植した白人たちが無計画に耕地化し地表を露出した事が原因だという。人と作物を蹂躙するこの砂嵐こそ、肥大化する資本主義が産み落とした矛盾そのものなのである
映画は、忍耐と反逆という相反する2つの価値観、父と子という2つの世代の対立をサスペンスフルな逃走劇として描いていく。その顛末を俯瞰する視点としてユージンの妹フィービーという語り手が用意され、一編を寓話の様な雰囲気に落とし込んでいる。もう少し、端役の描き込みがされていれば重厚さも増したと思うが、製作陣にはその様な意図はなく、政治的社会的なメッセージは控えめに、主人公たちの関係性の変化にスポットを当てたかったのだろう。その期待に沿うかの様に、未だ見ぬ世界への尽きぬ憧れと二度とは戻らないイノセンスへの喪失感を、主演のフィン・コールとマーゴット・ロビーは瑞々しく体現している。

 

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1930年代に強盗や殺人を繰り返した実在の犯罪者カップル、ボニーとクライドを題材に、当時の社会通念や道徳観に風穴を空けようと試みたこの作品は、アメリカン・ニューシネマを象徴する一作となった。スローモーションで映し出されるラストの銃殺シーンが衝撃的。

 

マーゴット・ロビーが製作に参加したSFクライム・ストーリー。悪い意味でイギリスらしい、小手先でこねくり回した様なストーリーと『未来世紀ブラジル』から一歩も進んでいないビジュアルが観ていて痛々しい。まあ、男どもに復讐する謎の女、という役柄に惹かれたのかな、とは想像するが…

マックス・バーバコウ『パーム・スプリングス』

繰り返す「今日」と目指すべき「明日」、そして忘れられた「昨日」について

またこのパターンですか…最近、タイムループの要素を取り入れた作品がやたらと目に付く様になった。『ハッピー・デス・デイ』や『オール・ユー・ニード・イズ・キル』、『アバウト・タイム〜愛おしい時間について〜』等々、ホラー、SF、恋愛映画とジャンルは異なれど、基本的な構造は同じである。まず、主人公がタイムループに巻き込まれ、今日という日を無限に反復する事になってしまう。当然、主人公はこの反復世界から抜け出そうと(あるいは、タイムループを利用して自身の目的を達成しようと)試みるがその度に失敗する。主人公の死や睡眠によって時間は巻き戻されまた同じ日が始まるのだがこの際、主人公が反復によって得た知識や経験だけは蓄積されていく、というところがミソだ。繰り返しの体験が徐々に主人公を成長させていく。殺人鬼やエイリアンの打倒であったり恋愛の成就だったり、ジャンルによって目的は様々だが、この「反復がもたらす成長」が映画の主題となっている点は同じである。この構造は1993年の『恋はデジャ・ブ』あたりから、それこそ何度も繰り返されている。近年はこうしたタイムループ現象を量子力学多世界解釈によって説明した作品が多いが、それはホラ話をもっともらしく見せる為のディテールに過ぎないだろう。そもそも、失敗の繰り返しが私たちを成功へ導く、というのは親や教師から何度も聞かされた人生訓に過ぎず、そう考えるとこの手のタイムループ映画は突飛な設定を導入しながら、ものすごく穏当な結末に落着している訳だ。もちろん、それが悪いとは言わないがこう何作も立て続けに観せられるとさすがにつまらないお説教を聞かされている気になってくる。
各国の映画祭で評判を呼び、予想外の大ヒットとなった『パーム・スプリングス』が、こうした先行作に比べて特別に優れているとは私は思えなかった。ポップな映像は確かに眼を惹くが、プロットそのものは手垢にまみれたモチーフを組み合わせているに過ぎない。これまで何千回もタイムループしてきた男と初めてタイムループした女のラブストーリーという点が本作の特色だが、それがプロットにフレッシュさを与えているとはとても言えず、結局はよくある恋愛映画―それもタイムループという設定のおかげで物語の起伏に乏しいという欠点を抱えた―の枠内に収まってしまう。それと、主人公のナイルズの振る舞いにどうも好感が持てないのも欠点である。時間が巻き戻されるから何をやってもいい、という訳じゃないだろう。特にロイというオッサンにした事は人道的に許されるものではない。ネタばれになるので詳しくは言えないが、何となく『パッセンジャー』に似た気持ち悪さを感じた。
ただ、本作の主人公サラが抱えたある秘密が映画の中盤に明かされるくだりは、これまでに無いパターンだと思う。秘密そのものは大した話ではないが(これも数多ある恋愛映画にいくらでも前例があるだろう)、その隠し方が上手い。本作では、主人公たちが無限に繰り返される11月9日から脱け出し、11月10日に辿り着こうと奮闘する様を描いている。しかし、前述したサラの秘密にかかわる出来事が起きたのは11月8日なのだ。タイムループを扱った本作において、観客が注目するのは繰り返される「今日」と主人公たちの目指す「明日」であって、タイムループが起きる前日、つまり「昨日」の事など誰も気にしていない。本作は、その観客心理を巧みにミスディレクションとして利用している。

 

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アバウト・タイム ~愛おしい時間について~ (字幕版)

アバウト・タイム ~愛おしい時間について~ (字幕版)

  • 発売日: 2015/04/10
  • メディア: Prime Video
 

『恋はデ・ジャブ』は以前にも紹介したのでこちらを挙げておく。『ラブ・アクチュアリー』のリチャード・カーティスらしい、ハートウォーミングなロマンティック・コメディだが、主人公は自分の好きなタイミングで好きな過去に戻れる能力を持っており、その意味ではタイムループというよりタイムトラベルものと言う方が正しい。

今泉力哉『街の上で』

『街の上で』は何も始まらない時間だけが持つ豊かさを私たちに教えてくれる

新型コロナウイルスの影響により延期となっていた今泉力哉の新作『街の上で』がようやく公開された。本来なら、2020年5月に予定されていた訳だから、およそ1年も遅れた事になる。そして、この1年の断絶がより複雑な相貌をこの映画にもたらした様に思う。
もちろん、コロナ禍の影響を被った映画は本作に限らない。劇場公開が予定されていたのにサブスクでの配信やDVDスルーに変更されたり、あるいは未だに公開のめどが立っていないものすらある。しかし、実際に作品に接してみれば、それらの映画もコロナウイルスとは無関係な表情でいつも通り私たちを楽しませてくれるだろう。だから、映画が被ったコロナ禍の影響とは、公開延期に伴う興行的な損失など、あくまで作品外のレベルに留まっている筈だ(もちろん、それも非常に重大な影響であるのは間違いないが)。
それに対して『街の上で』はどうだろう。若葉竜也や古川琴音が歩く下北沢の街並みは、おそらくコロナ禍前に撮影されたものに違いない。では2021年4月の現在、スクリーンに映し出された古着屋や古本屋やバーやライブハウスは、今も変わらずそこにあるのだろうか。街を歩いていた人々は、今でもそこにいるのだろうか。折しも3度目の緊急事態宣言が布告された現在、下北沢に限らず私たちの住む街は更なる変容を迫られている。公開が延期された事で、本作は期せずしてコロナウイルスがもたらした、ある種の「切断」を抱え込んでしまう事となった。
もちろん、劇中でも語られるとおり、コロナウイルスにかかわらず街はいつだって変わり続け、二度と同じ姿を見せる事はない。その繰り返しの中で生きている私たちは、その変化を当然の事と受け止めている。行きつけの本屋が潰れコンビニに変る。美味しいコーヒーの飲めた喫茶店がいつの間にかコインパーキングになっている。けれども私たちはやがて、かつてそこに本屋や喫茶店があった事すら忘れてしまうだろう。しかし、本作の主人公である荒川青は言う。街がいくら変わっても、そこにあった、という事実は失くならないと。その荒川青が出演する自主映画の1シーンから映画が始まる事は、だから極めて象徴的である。その演技があまりにも拙すぎた為、彼の出演場面は最終的に使用されない事になるのだが、映画においてカットされたシーンとはまさに「誰も見ることはないけど確かにここに存在してる」ものだからだ。
「」に括った部分は本作のキャッチコピーであり、荒川青が通う古書店の店員、田辺冬子の劇中の台詞でもある。今は姿を見る事はできないが、かつて確かに存在したもの。それを「幽霊」と呼ぶなら、本作は「幽霊」についての映画だと言う事もできるだろう。その様な観点から見れば、かつて田辺冬子と愛人関係にあったらしい古書店の店主が既に死亡しており、店の留守番電話に吹き込まれた声だけが、彼の存在あるいは不在を示す、というのはいかにも「幽霊」じみた話に思えてくるが、いずれにせよ田辺冬子にとってはある者の「非在」が「存在」と同じぐらいの重みを持つ事は間違いない。荒川青は、留守番電話に遺された店主の声を媒介に、田辺冬子と今は亡き店主を、生きる者と死んだ者を繋げようと試みる。店主の声が流れるスマホを荒川青が田辺冬子にそっと手渡すシーンは感動的だ。その後、彼女は愛した男にどの様な言葉を掛けたのか。シーンはそこでふっつりと途切れ、彼女の言葉は虚空へとかき消える。
荒川青に映画の出演を依頼した学生監督の高橋町子が言うとおり、映画にとっての編集、つまりシーンとシーンを繋ぎ合わせ、その過程で不必要なシーンを削除する事は必要不可欠な作業である。この編集という工程を経て、映画はシーン毎の「切断」―映画とは撮られた時間も場所もバラバラの映像を繋ぎ合わせたものに過ぎない―を隠蔽し、首尾一貫とした物語をねつ造する事ができるからだ。しかし、『街の上で』は、編集によって巧妙に作り上げられた物語を否定する。城定イハと荒川青の会話を長回しで捉えた場面は、通常の映画であればカットされるか、あるいは編集によって短く切り詰められるだろう。それは映画が語ろうとする物語に何の貢献もしないばかりか、一貫したスムーズな物語の進行を阻害さえしかねないからだ。人によってはこの場面を退屈に感じもするだろう。だがその何気ない、退屈な時間の中から不意に生きる事の生々しい相貌が露出する。語るべき物語に貢献しない、という意味でこのシーンは非生産的かもしれないが、私たちの人生だってそのほとんどが何も生み出さない時間で占められているのだ。その虚無に耐えきれない者は、無意味な時間の断片を繋ぎ合わせ、意味のある物語を作ろうとする。『街の上で』を称賛すべきなのは、その無意味な時間の集積をありのままに捉える事で、「切断」を「切断」として受け入れようとする覚悟に他ならない。

こうして、映画は物語の呪縛から逃れ、再びバラバラの映像へと戻っていく。その「切断」された映像たちは、何かが始まろうとする予兆だけを感じさせ、しかし何も始まらない、宙吊りの時間に私たちを置き去りにする。そこでは「生」と「死」が、「存在」と「非在」が何ら矛盾する事なく同居しているのだ。その豊かさに、とりあえず私たちは驚いてみるべきだろう。

 

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本作で共同脚本を務めた大橋裕之の原作マンガを、岩井澤健治が7年の歳月をかけて映像化した作品。無為の日々を送る不良たちの心に芽生えた音楽への熱情を瑞々しく描く。

クリストファー・ランドン『ザ・スイッチ』

欲望の思うままに人を殺める殺人鬼は、内気な女子高生の理想化された鏡像でもある

クリストファー・ランドンの前作『ハッピー・デス・デイ』の感想で、私は日本のミステリー小説『七回死んだ男』とのプロット上の類似について述べた。本作『ザ・スイッチ』は、内気で地味な女子高生と狂った殺人鬼の人格が入れ替わってしまう、という突飛な設定のホラー・コメディだが、そこで思い出すのが『七回死んだ男』の作者、西澤保彦の初期代表作『人格転移の殺人』である。これは、地下に隠された謎の装置の影響で男女6人の人格が入れ替わってしまった後に殺人事件が発生するというSFミステリーで、人格が入れ替わった為に誰が加害者で誰が被害者なのかも分からない状況の中、ロジカルな推理だけで犯人を指摘する、という趣向がなかなか面白かった。とはいえ、『スクリーム』ばりのフーダニット(犯人当て)要素が盛り込まれていた『ハッピー・デス・デイ』と異なり、『ザ・スイッチ』はスラップスティック・コメディに完全に振り切っていてミステリー的な興味は薄い。ただ、本格ミステリーやスラッシャー・ホラーという古典的なジャンルにSF的な要素を導入する事で再活性化する、という目的意識は共通している様に思う。いくら突飛な設定を導入しようとも、『人格転移の殺人』があくまで本格ミステリーとして成立していたのと同じく、『ザ・スイッチ』もホラー映画としてのアイデンティティは忘れていない。という訳で、本作はコメディタッチで進んではいくものの、要所ではキツめのゴアシーンが盛り沢山なので、その手の描写が苦手な人はご注意頂きたい。
さて、『ハッピー・デス・デイ』がホラー映画でありながら、主人公ツリーの成長物語であった様に、『ザ・スイッチ』もまた主人公ミリーが殺人鬼との人格転移、という最大級の災難を通じて成長していく姿を描いている。ミリーは数年前に夫を亡くし酒びたりの生活を送る母を慮るあまり、自分の意思を押し殺す様になっていた。初恋の人に告白もできず、学友たちからは馬鹿にされる日々を耐え忍ぶミリーにとって、欲望の思うがままに人を殺めていくブッチャーは、ある意味で理想化された自分の姿でもある。『ハッピー・デス・デイ』の主人公がタイム・ループを経験する事で、決して後戻りする事のできない時間の大切さを逆説的に知っていく様に、ミリーは人格転移によって決して他人には譲る事のできない、本当の自分の姿というものを再認識し自己肯定へと至る訳だ。このウェルメイドな青春映画としての演出のスマートさは、『ハッピー・デス・デイ』で既に実証済みであり、職人監督としてのクリストファー・ランドンの手腕は今回も冴え渡っている。
ところで、この様な人格転移ものの場合、自分と入れ替わった当の相手も同じバランスで描かなければならない。殺人鬼ブッチャーは完全に内面を欠いた存在なので、人格転移に対する葛藤とは無縁だ。従って、彼(というか、彼が乗り移ったミリー)の登場するシーンは、完全に女殺人鬼が暴れ回るホラー映画のそれである。赤いレザー・ジャケットに身を包んだミリーは、完全に『ターミネーター3』のT-Xで笑わせてくれるが、ブッチャーの内面が全く描かれないので人格転移ものとしては少々深みに欠けるのは否めない。『転校生』の様に人格を交換する事で人と人が深く分かり合う、というプロセスが描かれないからだ。もちろん、そんな展開になっていたら本作のプロットは完全に破綻していただろうが…クリストファー・ランドンは2009年に公開された『ジェニファーズ・ボディ』にインスパイアされたという事だから、本作は人格転移ものというより『エクソシスト』の様な悪魔憑きものとして観た方が良いのかもしれない。いずれにせよ、馬鹿々々しい設定にもかかわらず、作り手の映画に対する知識や巧みな構成力が存分に発揮された、クレバーな映画である事は間違いない。主演を務めたキャスリン・ニュートンヴィンス・ヴォーンのツボを押さえた演技も好感が持てる。

 

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