事件前夜

主に映画の感想を書いていきます。

吉田大八『騙し絵の牙』

原作のエモーショナルなドラマ性は後退し、コン・ゲームとしての面白さが際立っている

大泉洋の顔が大写しになったこの映画のポスターは、そのまま特殊詐欺被害防止啓発ポスターにも採用されている。確か『紙の月』も詐欺・横領抑止キャンペーンのポスターになっていたから、吉田大八は警察のポスターになりそうな映画が得意だと言っていい。これは冗談でも何でもなく結婚詐欺を扱った『クヒオ大佐』も撮っている訳で、人を騙したり、あるいは人を信用したり、そうした関係性からドラマを立ち上げようとしているのだと思う。
本作は、『罪の声』の映画化も記憶に新しい塩田武士による小説の映画となるが、原作は元々、大泉洋が主人公を演じる事を想定し、あて書きで書かれた、という一風変わった経緯を持つ。当然ながら、映画版の主演も大泉洋が務めているが、吉田大八は原作のプロットを活かしつつ大幅な脚色を行っているので、小説と映画では印象がかなり異なる様に思う。原作は、大手出版社の権力争いを主軸に、デジタル化の波に飲み込まれつつある出版業界がどの様に変わっていくべきか、あるいは何を守るべきなのか、というテーマを主人公の編集者、速水の姿を通じて描いている。基本的には業界内幕ものとも言うべきプロットがメインで、タイトルにある「騙し」の要素は薄い。更に、速水も単に「変わり者」で「人たらし」な―これが大泉洋のパブリックイメージに重なるのだろう―敏腕編集者としてだけでなく、父としてあるいは夫としての苦悩や小説に対する情熱を持った、血の通った人間として描かれているので、むしろヒューマンドラマとしての側面が強い小説と言えるだろう。
しかし、映画版の速水は小説版と異なり、家庭にまつわる描写が全くない。更に原作では重要な要素だった、速水が編集者を目指すきっかけとなった父親とのエピソードも完全にオミットされている。映画版の速水は小説に対する情熱など持ち合わせておらず、更にいえば編集者という仕事にもそれほど興味がある訳ではない。彼を衝き動かしているのは「面白ければいい」という信念のみであって、最終的にそれが出版物である必要すらないのだ。小説版の速水が持っていた小説や編集者に対する真摯な想いは、松岡茉優演じる同僚の高野恵(ちなみに、原作ではこの高野と速水が不倫関係にある、という設定だったがこれも映画版では削除されている)が受け継いでいる。
この様に、映画版の速水は人間性をはく奪された、非常に虚無的な男として描かれている。当然、こうした人物は原作の様なエモーショナルなドラマの主人公にはなりにくい。その代わりに小説版よりも強まったのが「騙し」の要素、コン・ゲームとしての側面だ。上述した通り、映画版の速水は人間味の薄い、何を考えているのか分からないキャラクターである。登場人物たちが互いを欺き合い、二転三転するストーリーで観客の興味を引っ張るコン・ゲームの主役にはむしろ適役だろう。本作では大泉洋の他に國村隼佐野史郎佐藤浩市といった実力派俳優たちが一癖も二癖もあるキャラクターを演じている。原作のプロットを利用しながら、権謀術数が渦巻くコン・ゲームに仕立てあげた吉田大八の手腕をまずは評価すべきだろう。
ただ、この様な改変によって主人公である速水の人物像がぼやけてしまった様にも思う。彼が「面白ければいい」というポリシーの持ち主である事は分かるが、そこに個人的なオブセッションが描かれる訳でもなく、単に台詞として語られるだけなので、全編を通じてどうも狂言回し的な役割に甘んじている様な気がする。その為、何度も繰り返される騙し合いや逆転に次ぐ逆転も、主人公の最終的な目標がぼんやりしているせいか、今ひとつノレないのである。代わりに本作のドラマパートを盛り上げるのが松岡茉優演じる高野恵で、こちらの方がひとりの人間として丁寧に描き込まれているので感情移入しやすい。もちろん、ある程度は作り手の意図した事なのだろうが、大泉洋にあて書きした小説の映画化作品で大泉洋の印象が薄いというのも皮肉な話である。
あと、本作は劇伴が非常に良い。音楽を担当したLITEというバンドを私は知らなかったので、2、3枚アルバムを聞いてみたがそれほど面白くなかった。おそらく吉田大八のディレクションが上手いのだろう。これは『羊の木』でも感じた事である。

 

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