事件前夜

主に映画の感想を書いていきます。

ジェリー・ロスウェル『僕が跳びはねる理由』

世界の複雑さを複雑さとして受け止める事―自閉症スペクトラムが気づかせてくれる美しさ

例えば「自閉症的」といった言葉がからも分かるとおり、自閉症スペクトラムとその患者については他者とのコミュニケーションを拒否し、孤独を好む社会不適応者というイメージが旧来から流布されてきた。言語による意思伝達が困難であり、不可解な行動を繰り返す彼らを奇異と恐れの眼でもって扱ってきた、というのが私たちの社会の実態だったろう。
重度の自閉症者である東田直樹が13歳の時に著したエッセイ『自閉症の僕が飛び跳ねる理由』は、だから多くの人に驚きと共に迎えられた。東田は、一見すると理解不能自閉症者たちの言動にもれっきとした理由があり、それは私たちと同じく喜びや悲しみ、不安や怒りといった感情から導き出されているのだ、という事を緻密な自己分析と豊かな感性によって解きほぐしていたからだ。いったいなぜ、自閉症者たちは、所かまわず奇声を発したり、床に頭を打ち付けたり、同じ事を飽きずに繰り返したりするのか?彼らがいつも表情に乏しく他人に対しよそよそしいのはなぜなのか?『自閉症の僕が飛び跳ねる理由』を英訳し、この映画版にも出演しているデイヴィッド・ミッチェルによれば、それは「頭の中の編集者が、何もいわずに出て行ってしまった」からだという。私たちは普段、感覚器官を通じて得られる外部からの膨大な情報―物の色、かたち、味、手触り、音、温度、気温、時間などを順序よく並び変え、記憶と照らし合わせ、時には統合、分割し、ひとつの秩序だった体系に編集する事で受容している。しかし、その編集能力が失われてしまったらどうなるだろうか。ありとあらゆる情報が一斉に押し寄せ、その圧倒的な量と質に脳の処理が追いつかずパニックを起こしてしまうに違いない。自閉症スペクトラムは、個人が世界の複雑さに太刀打ちする能力を奪ってしまう。しかも、発話能力に障害を来しているが為に、その苦しみ他者と分かち合う事も出来ない。自閉症者は孤独が好きなのではなく、孤独にならざるを得ないのである。
東田直樹の著作を読むと、自閉症者たちは世界の複雑さに敗北したのではなく、私たちとは全く異なる方法で闘い続けているのだ、という事が理解できる。時間や物体、空間の把握の仕方が私たちとまるで違う彼らは、だからこそalternativeな戦略で世界に対抗しているのだ。そこから、彼らだけが感じ取れる世界の別の側面、新たな美しさが垣間見えてくる。東田直樹の思考は、自閉症スペクトラムを通じて世界の新たな可能性を探ろうという点にまで射程を伸ばしている。『自閉症の僕が飛び跳ねる理由』が世界30ヵ国で出版され、中国語からマケドニア語まで24言語にわたって翻訳される大ヒットとなったのは、単なる興味本位や同情などではない。自閉症ではない私たちがよりよく生きる為のヒントもそこに記されていたからだ。
さて、本作は、その『自閉症の僕が飛び跳ねる理由(Reason I Jump)』からインスパイアされた自閉症スペクトラムをめぐるドキュメンタリーである。東田直樹の言葉が引用され、子供の頃の東田を思わせるイメージ映像がインサートされるものの、作家本人が出演している訳ではない。ただ、前述のデイヴィッド・ミッチェルが自ら出演し、自閉症者の子供を持つ親の立場から、東田直樹の思想の重要性を説いている。それらにナビゲートされるかたちで描かれるのは、イギリス、インド、アメリカ、シエラレオネなど世界各国に住む自閉症者とその家族の姿だ。スペクトラムという言葉が示すとおり、ひと口に自閉症と言ってもその症状は様々で、一括りにする事はできない。当然、国によって自閉症に対する理解の度合いも異なるだろう。自ずから、その困難の度合いも違いが生じる。それぞれの自閉症者たちの人となりや内に秘めた想い、自身の内面を表現する手段も当然まちまちで、本作は丹念な取材によって、国、社会、人など多様な側面から自閉症スペクトラムをめぐる問題を探っていく。
私たちはいつだって言葉に囚われている。だからこそ、東田直樹は自分の考えを理解してもらう為に本を書いた。当然ながら、この映画もまた数多くの言葉に溢れている。東田直樹の著作に書かれた言葉、デイヴィッド・ミッチェルの言葉、自閉症者の親たちの言葉、自閉症者が文字盤やキーボードを通して発する言葉。しかし、本作はそうした言葉たち以上に、映像と音響が雄弁に自閉症者たちの生きる世界について教えてくれる。揺れるカーテンの襞、回転するタイヤのホイールや扇風機の羽根、空から勢いよく落ちてくる雹や窓を伝う雨だれが、通常では考えられない程の接写で映し出され、それらの立てる音がまるでASMRの様に強調されスピーカーから鳴り響く。映画でも引用される東田直樹の言葉をここで幾つか参照してみよう。

 

「みんなは物を見るとき、まず全体を見て、部分を見ているように思います。しかし僕たちは、最初に部分が目にとびこんできます。その後、徐々に全体が分かるのです。」


「気になる音を聞き続けたら、自分が今どこにいるのかわからなくなる感じなのです。その時には地面が揺れて、周りの景色が自分を襲って来るような恐怖があります。」

 

物のかたちや音について、彼らが私たちといかに異なる捉え方をしているかが分かる。物をぼんやりとした全体ではなく、細部の集合として把握する事。記憶や経験の蓄積によって枠組みを設定し、そこに世界を当てはめようとする私たちに比べて、記憶や経験の蓄積という観念がない彼らは、世界の複雑さを複雑さそのものとして受け止めようとするのだ。自身が捉えた世界のかたち、あるいは音の美しさについて東田は言う。

 

「僕は時々、こんなに美しい世界を、みんなは知らないなんてかわいそうだと思います。それほど僕たちの見ている世界は魅惑的で、すばらしいものなのです。」

 

本作はその特異なカメラワークと音響処理によって、世界の新たな美しさを垣間見せてくれる。その美しさに気づく事が、私たちにとって何よりも大切な事なのだ。