事件前夜

主に映画の感想を書いていきます。

西川美和『すばらしき世界』

自分の正しさを貫く事で社会から排斥されてしまう三上の姿は、私たちの社会が抱える矛盾そのものだ

西川美和監督作品の魅力ってどこにあるのだろうか。私の場合、やはりお話としての面白さが先に立つと思う。知らない間に父親が莫大な借金をこさえていたり、目の前で兄妹が人を殺める場面を目撃したり、西川作品では主人公を非常に特殊な環境下に置く場合が多い。そうした極限状態の中で、人々は不可解な心の動きによって、普通なら考えられない突飛な行動に突き進んだりもする。人間、切羽詰まると何をしでかすか分からない、と言えば身も蓋も無いが、だから西川作品では犯罪を物語の中心に据えたものが多い。やむにやまれず罪に手を染めた時の葛藤や、犯行を繰り返す内に鈍麻していく良心、二度と過去の自分に戻れない事への絶望感、そうした罪をめぐる様々な心の揺れ動きが映画を形作っていく。個人的に、これまでの最高傑作は結婚詐欺を扱った2012年の作品『夢売るふたり』だと思っていて、主演の松たか子のパブリックイメージを逆手に取った脚本と演出が素晴らしく、犯罪映画としての西川作品のひとつの到達点と言ってもいい。
西川美和自身も、やはりお話の面白さ、というものにはこだわりがあるらしく、全ての作品で脚本を担当し、長編映画では常にオリジナル脚本にこだわってきた。従って、西川美和が映画を作る時はまず脚本を書き始めるところから始まる筈で、その副産物として『ゆれる』や『永い言い訳』、『きのうの神さま』といった小説が生まれたのだろう。脚本であろうが小説であろうが、何かを書く、という行為は何かを読む、という行為と地続きであって、だから書評家としても活躍する彼女が、その最新作『すばらしき世界』で佐木隆三のノンフィクションノベル『身分帳』を題材に選んだ事もそれほど意外な話ではない。特に「犯罪という磁場で明らかになる人間性の湾曲(秋山駿)」を追求し続けた佐木隆三の作品と西川美和の親和性は高いと思う。
ところで、『すばらしき世界』では『身分帳』を「原作」ではなく、「原案」扱いとしている。「原案」と「原作」の線引きは難しいが、「原案」というのはその作品の元となったアイデア、という意味で捉えていいだろう。映像作品の場合、原作のアイデアを活かしつつ、全く異なる内容の作品になった際など、「原作」ではなく「原案」扱いとなる事が多い。『身分帳』は昭和61年に懲役13年の刑期を満了し、旭川刑務所から出所してきた受刑10犯の男を主人公としている。それを西川美和は時代設定を大きく変えて現代を舞台とした。基本的なプロットはほとんど変わらない、というか驚くほど『身分帳』に忠実なのだが、時代を現代に移し替えた事により、当然ながら登場人物の価値観やそれに基づく言動も変わってくる。その辺りの変化を踏まえて「原作」ではなく「原案」としたのだろう。
『身分帳』から30年以上経った現代を舞台とする『すばらしき世界』では、各エピソードのディテールについて時代に合わせた変更を行っている。しかし、原作の内容を尊重しようという意図が邪魔をしたのか、古い酒を新しい革袋に入れただけに感じる箇所もある。例えば、アパートに住む主人公の三上が、毎晩大騒ぎをする隣人の部屋に怒鳴り込みに行くシーンを例にとってみよう。『身分帳』では、騒いでいたのは新聞勧誘員の青年たちで、主人公は彼らを束ねる元締めみたいなチンピラとひと悶着を起こす訳だが、『すばらしき世界』では世相を反映させてか、新聞勧誘員を外国人労働者に変更している。おそらく、現代では低賃金労働における搾取構造の被害者はこうした出稼ぎ外国人に移行している、という認識が作り手にあるのだろう。今どき新聞の勧誘と言われてもピンと来ない人も多いだろうし、この変更自体は納得できる。しかし、肝心の喧嘩の場面で、三上が喧嘩をする前に仁義がどうとかどこの組だとか、ヤクザ映画の様な啖呵を切って相手をビビらせる、という部分には全く変更が加えられていないのだ。もちろん、『身分帳』の舞台となった昭和61年の時点でもこんな古臭いヤクザはほとんどいなかったろうが、だからこそ佐木隆三は主人公(『身分帳』では山川という仮名が用いられている)を浦島太郎の様な存在として描き、13年という刑期の重さを強調した訳である。しかし、現代が舞台となる『すばらしき世界』となるとそうはいかない。何しろ13年前でも2007年である。『龍が如く』じゃあるまいし、今どきこんなヤクザがいるか、という話になってしまう。
この映画を観て、近所のスーパーの店主やケースワーカーなど、主人公三上を親身になって助けてくれる、非常に善意に溢れた人々ばかりが登場する事に不自然さを抱いた人もいるかもしれない。実はここも『身分帳』からほとんど変えていない部分であり、佐木隆三も「周囲が善人ばかりなのが不自然」と批評されたと明かしている。それに対し、佐木は「一握りの”善人”と接触するだけで、主人公には十分だったと、わたしは信じています」と反論している。確かに、出所したての前科10犯の男の味方になってくれる人間など、世間には一握りしかいないだろう。だが、全く存在しない、という訳ではない。三上=山川も、社会の中に溶け込もうとしながら、見えない壁に跳ね返される、そんな苦難の繰り返しの中でふと人の優しさに触れる瞬間があったに違いない。そうした社会の、人の心の多面的なありようを『身分帳』から引き継いで描きたい、という想いが西川美和にあった筈で、それが『すばらしき世界』という一見するとアイロニカルなタイトルに表れている。ただ、人と人の生身の繋がりがより希薄になった現代において、こうした善意が過分に「お涙頂戴」的なものとして映ってしまうのもまた否めない。自分に対して見知らぬ人が寄せてくれる好意に、私たちはより鈍感になってしまっているからだ。スーパーの店主やケースワーカーと山川のやり取りは『身分帳』の中でも好きなエピソードなので残してくれたのは嬉しかったが、現代を舞台にした以上、今だからこそ主人公が味わわなければならない困難や苦悩をもっと描き込んで欲しかった。博多行きのエピソード(これはこれで感涙必至の名場面だったが)も含め、『身分帳』に比べると若干その辺りのバランスが甘めになった気がする。
その意味で、終盤の老人介護施設でのエピソードは舞台を現代に移した意義が十分に感じられた。当然ながら、『身分帳』には主人公が介護施設で働くという展開はない。しかし、このエピソードの中心となる施設で働く障害者の青年は、『身分帳』で山川の近所に住んでいた聾唖者、阿部君からインスパイアされたのだろう。この阿部君という男は、窓を開けっ放しにして一晩に何回もオナニーをするので、女子学生が多く住む向かいのアパートの大家から何とかしてくれ、とクレームが来る。その大家から阿部君にそれとなく注意してくれと頼まれた山川はしかし、彼らが心の底に隠している偏見に真っ向から反発し、同じマイノリティとして阿部君の味方をする事に些かの躊躇もない。山川の一本気な性格が表れたエピソードだが、しかし、現代を生きる『すばらしき世界』の三上は、同じ様な選択を迫られた時、最後の最後で周囲に、世間に同調してしまう。そして、障害者の青年から貰ったコスモスの花束を抱え、雨に打たれながらむせび泣く。この場面での三上の葛藤と後悔は、現代を生きる私たちも日々感じている筈だ。自分の正しさを貫く事で社会から排斥されてしまう三上の姿は、私たちの社会が抱える矛盾そのものである。
ところで、『すばらしき世界』にはオリジナルのキャラクターとして、仲野大賀演じるフリージャーナリスト津乃田と長澤まさみ演じるTVプロデューサー吉澤が登場し、三上の半生を取材しTV番組の報道特番として放送しようと目論む。『身分帳』でも同じ意図を持って山川に近づくコピーライターが登場したが、彼は山川がチンピラと喧嘩をする姿に恐れをなし、早々に逃げ出してしまった。しかし、『すばらしき世界』では同じく逃げようとした津乃田を吉澤が叱咤する事で、津乃田はより深く三上の社会復帰にコミットしていく事になる。彼は孤児であった三上のルーツを探る旅にも同行し、やがて訪れる三上の死にも立ち会う事になるのだが、『身分帳』及びその補遺である『行路病死人』を読んだ方ならお分かりのとおり、西川美和はこの津乃田にかつての佐木隆三の姿を重ねている。佐木自身も、取材の一貫として山川と一緒に生地である福岡を訪れ、その他にも少年院や犯行現場の近所を巡っているのだが、それと共に作家とそのモデルという立場を超え、山川の社会復帰の為に職を探し、彼が再び罪に手を染めはしないかと(山川の死後に至るまで)気をもんでいた。山川が病死したという連絡を受けた佐木は、福岡まで飛び身寄りの無い彼の葬儀や告別式まで執り行ったのだ。つまり、彼自身もまた山川の周囲にいた「善人」だったのである(もちろん、佐木自身はそうした善人面を嫌悪しており、自分は小悪党であると自嘲していたのだが)。『すばらしき世界』において、津乃田は三上と一緒に風呂に入り、刺青の入った背中を流しながら自分が三上を題材とした本を書くと約束し、そして再び極道の道に入るのを何とか思いとどまって欲しい、と涙ながらに説得する。この想い、この約束こそが、当時の佐木隆三と山川の心を繋いでいたに違いない。