事件前夜

主に映画の感想を書いていきます。

クロエ・ジャオ『ノマドランド』

本作の映像美は、ノマド・ワーカーたちが湛える美しさへの率直な驚きから導き出されている

2008年のリーマン・ショック以降、家も定職も失いキャンピングカーに寝泊まりしながら、その場限りの仕事を求めて各地を渡り歩く高齢者が増大する。彼らの中には有名企業で働いた経歴や特殊な技術や資格を持つ者も多数いたが、安定した職業や住居を手にする事はなく、21世紀のノマド(漂流者)とも言うべき生活を送っていた―
世界各地の映画賞を総なめ、本年度のアカデミー賞でも6部門にノミネートされているこの映画の素晴らしさを、どこから語り始めればいいのか…ジェシカ・ブルーダーのノンフィクションを劇映画として見事に昇華した脚本の素晴らしさだろうか、砂と岩に覆われた大地と複雑な色彩を湛える空のアンサンブルをスクリーンの隅々にまで鮮やかに写し取った、ジョシュア・ジェームズ・リチャーズによる撮影の素晴らしさだろうか。もちろん、『スリー・ビルボード』で私たちを打ちのめしたフランシス・マクドーマンドの演技は圧倒的で、エキストラとして実際のノマドを採用する、というチャレンジングな試みを成功させたクロエ・ジャオの演出にも舌を巻かざるを得ない。個人的に愛聴していたルドビコ・エイナウディによる静謐なサントラも作品の雰囲気にマッチしている。
それよりも私は、この作品にほんの少しだけ漂っているロマンチシズムについて語りたい。マネーゲームの果てに破綻した大手証券会社のあおりを喰らい、これまでの生活を奪われた人々の過酷な漂流生活を描いた本作は、確かにアメリカ社会、高度資本主義社会に対する批判が込められてもいるだろう。しかし、主人公のファーンがいわゆる「普通の」暮らしを手に入れるチャンスを2度にわたって断った事からも分かるとおり、映画の底流にはこうした漂流民に対する抑えきれない憧れが流れている様に思うのだ。このファーンは映画オリジナルの登場人物であり、ここには監督のクロエ・ジャオと主演女優のフランシス・マクドーマンドが抱く、ノマドたちへのシンパシーが反映されていると見るべきだろう。劇中で描かれるノマド同士の交流や彼らが形成するコミュニティにも、1960年代に発生したヒッピーカルチャーの残滓を感じ取る事ができる。
断っておくが、私は別に彼らが望んでこの様な漂流生活を送っているのだから、その責任は自身が負うべきだ、と主張したい訳ではない。我が国でも、ホームレスなどに対してその様な辛辣な自己責任論を押し付ける輩がいるが、それは他者に対する無関心を糊塗する為の方便に過ぎない。本作に沿って言えば、彼らはある日突然、自分たちの与り知らないところで起きた金融崩壊によって仕事も家も失い、やむを得ず漂流生活を送る事になった訳で、その様な状況に個人を追いやった責任はやはり社会全体が負うべきだろう。
しかし、である。そうして資本主義ネットワークの破れ目からこぼれ落ちてしまった人々の眼の前に、想像以上に自由で豊かな世界が拡がっていた事もまた事実なのだ。確かにある、と信じてきた現実が崩壊した結果、全てを失った人々は荒れ果てた大地を彷徨い、やがて誰も見た事のない、言わば世界の真の姿に辿り着いてしまった。それは、未だに過去にしがみつき、未来に怯えながら日々を送る私たちと比べて、何と美しい生き方なのだろうか。本作の映像美は、彼らノマド・ワーカーたちが湛える美しさへの率直な驚きから導き出されているのだ、と言っていい。
本作のラストで、ファーンはネバダ州のエンパイアにかつて存在した自宅へ戻る。かつて賑わっていた町には既に人影もなく、住居ももはや廃墟という言葉が相応しい。ファーンが家の裏口の扉を開けると、そこにはネバダの荒涼とした風景がどこまでも広がっている。そこから1歩、2歩、足を進めてみればいい。地平線の遥か彼方にそびえ立つ岩山へと向かって歩みだせばいい。いつしか私たちは、この息苦しい世界を抜け出す事ができるだろう。それは過酷で、不安で、優しいとはとても言えない厳しい道のりなのかもしれない。だが、歩みを決して止めなければ私たちが未だ手にした事のない、真の自由との出会いが待っているのだと、皺だらけの顔をしたノマドたちは教えてくれる。

リー・アイザック・チョン『ミナリ』

私たちは所有の概念からいかに逃れるべきか―旧約聖書になぞらえて語られる移民たちのドラマ

アジア系移民を狙ったヘイトクライムアメリカで多発している事は、日本のニュースでも取り上げられているからご存じの方も多いだろう。トランプ前大統領が新型コロナウイルスを「武漢ウイルス」と呼んだのをきっかけに増加したと言われているが、この様な人種間の対立を煽る犯罪に対する抗議集会も各地で行われ、先日はBTSや大阪なおみが抗議の声を挙げ話題になった。その様な状況下で、韓国系アメリカ人のリー・アイザック・チョン監督による、アメリカに暮らす韓国系移民一家の物語『ミナリ』が、ゴールデングローブ賞では外国語作品賞に、第93回アカデミー賞においては作品賞、監督賞を含む6部門でノミネートされ注目が集まっている。特に、みんな大好き『ウォーキング・デッド』でブレイクしたスティーヴン・ユアンアジア系アメリカ人俳優として初めて主演男優賞にノミネートされた事は非常に意義深い。もちろん、これをハリウッドの「政治的」な振る舞いとして捉える事も可能だろう。実際、2024年度以降のアカデミー賞では、作品賞候補の選考に一定のDiversity and Inclusionを反映させた基準が設けられる事が発表されている。この決定に対しては、賞はあくまで作品の評価によって与えられるべきで、作品の選定にアファーマティブ・アクションを導入するのは、公平な評価基準を歪める、といった批判もある様だ。ちょっと話が脇にそれるが、そもそも万人が納得する公正公平な評価などあり得ず、どの様な賞であっても様々な政治的、経済的力学が働いている。アファーマティブ・アクションの是非はさておき、賞のノミネーションは作品本位で選ぶべき、と主張する人々は、映画や文学などの価値を判断する為の絶対的な基準が存在すると信じ込んでいる様で、あまりにもナイーブな態度と言わざるを得ない。ま、それはそれとして映画の内容について語っていこう。
物語の舞台は1980年。アメリカが韓国からの移民枠を拡大した事もあり、アメリカ国内の韓国系移民は35万人まで増大し各地でコリアン・タウンが形成されていった。物語の主人公であるジェイコブ一家は当初、カリフォルニアに居住していたがそこでの暮らしに満足できず、アーカンソーに新天地を求める。映画は、家族が新居―列車の車両を改装したトレーラーハウス―に到着するところから始まるが、この移住については夫ジェイコブの強い意思が反映されたもので、妻のモニカはどちらかといえば消極的な様子だ。ニワトリのヒナの雌雄鑑別士としてそれなりの収入を得ていた夫婦はアーカンソーでも同じ仕事に就くのだが、ジェイコブの目的は別にあった。自宅の周囲に広がる広大な土地で韓国の野菜を育て、コリアン・タウンに住む人々に供給しようというのだ。これは、ヒヨコの雌雄鑑定の様な雇われ仕事とは全く意味合いが異なる。荒れた土地を耕し、種を撒き、作物を収穫する。異国の大地を所有し、そこで母国の野菜を育てる事が、アメリカという国に自らの存在を認めさせる唯一の手段だとジェイコブは考えているのだ。その意味で、彼は極めてアメリカ的な開拓者精神の持ち主であり、本作は韓国系移民の眼を通したアメリカン・ドリームの物語である、と言う事ができる。ジェイコブは、韓国への郷愁を隠そうともせず遂には母親を自宅へ呼び寄せる妻モニカに対し次第に苛立ちを募らせていく。韓国から食物を持参し、孫のデビッドには漢方薬を飲ませ、花札に興じるモニカの母スンジャも同様である。決して韓国人としてのアイデンティティを手放そうとしない彼女たちは、マッチョな開拓者精神によって自らの道を切り開こうとする有するジェイコブにとって、極めて非合理な存在なのだ。
ジェイコブが有するマチズモはひとつの恐怖心が源泉となっている。彼が働く孵化場では、雄のヒヨコは卵も生まず食肉としても利用できないので、まとめて焼却処分されてしまう。焼却炉の煙突から立ち上る煙を眺めながら、ジェイコブは「男は役に立たないと燃やされる。だから、何としても成功しなければならない」と、息子のデビッドを諭す。このシーンでは、父として、あるいは男としてジェイコブが抱えざるを得ない重圧や強迫観念の在りかが示されるが、敬虔なクリスチャンである監督のリー・アイザック・チョンは、そこに旧約聖書の物語を重ね合わせていく。映画の主人公ジェイコブが、『創世記』のヤコブであると想像する事は容易である。更に、リー監督の韓国名がチョン・イサクである事を考えれば、これはアブラハム、イサク、ヤコブと3代続くユダヤ人の物語と読み解く事も可能だろう。
子宝に恵まれなかったアブラハムとその妻サラは、神の恩寵によってイサクという息子を授かった。神はその見返りとして息子を火に捧げる事を求める。アブラハムは素直に神の言葉に従い、イサクを祭壇に寝かせて火を点じようとするが、その瞬間に神から救いの手が差し伸べられた。神はアブラハムの信仰心を試す為に息子を生贄にせよと命じたのだ。イサクは成長し、やがてエサウヤコブという2人の息子が生まれる。ヤコブは自分の子孫が偉大な民族になるという神からの啓示を受け、4人の妻との間に12人の息子をもうけたが、その息子たちがイスラエル十二部族の祖となった。
孵化場でのヒヨコの焼却が、「イサクの燔祭」の再現である事は疑うべくもない。ほとんどが生まれながらに火あぶりにされる中、種付けの役割を担わされた少数のヒヨコだけが死を免れる事ができる。イサクは、全てのユダヤ人の祖となるヤコブを生むからこそ、燔祭の贄となる運命を免れる事ができた。ジェイコブがアメリカの大地で韓国の野菜を育てる事にこだわるのは、それが『創世記』のヤコブが子孫で地を満たしたのと同じ意味を持つからだ。その時はじめて、男たちは火あぶりの恐怖から免れる事ができる。
いずれにせよ、移民たちの開拓は土地に対する「所有」の概念と切り離す事ができない。移民たちは、全財産を投げ打って、異国の土を掘り返し、種を植え、水を撒き、作物を収穫しようとする。その様な土地の所有権をめぐって、移民たちと先住者の間で激しい戦いがあった事は歴史が示すとおりである。このいかにもアメリカ的な開拓者精神と対置されているのが、モニカの母スンジャが川縁に植えたミナリ(セリ)であろう。ミナリはわざわざ畑を耕さなくとも土と水という自然の恵みさえあれば、やがて地を満たすほどに増え続けていく。それはもはや、移民第一世代が求めた開拓や土地の所有を必要とせず、環境との調和によって知らぬ間に数を増やし続けるだろう。ならば、映画のラストでスンジャの植えたセリを収穫するジェイコブは、「所有」への執着から逃れ得たのだろうか。世界各地で顕在化している移民の問題は、「所有」に基づく国家観の限界を指し示している様に思う。

 

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バーニング 劇場版(字幕版)

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  • 発売日: 2019/08/07
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「納屋を焼く」つながり、という事で。本作の主演を務めるスティーヴン・ユアンも出演しています。以前に感想も書きました。

庵野秀明『シン・エヴァンゲリオン劇場版』

ひたすら増殖し続けてきた「エヴァンゲリオン」の物語を終わらせようとする、並々ならぬ強い意志

言わずもがなの話だが、1995年10月に放映がスタートしたTVアニメシリーズ『新世紀エヴァンゲリオン』は『宇宙戦艦ヤマト』『機動戦士ガンダム』と並び、日本のアニメにとって最も重要な作品のひとつである。同じく1995年に起きたオウム真理教による地下鉄サリン事件と共に、80年代から続いてきたオタク文化に引導を渡す役割を果たしたとも言っていいだろう。特撮映画やロボットアニメ、SF小説や聖書などあらゆるジャンルからの引用が散りばめられた自己言及的な物語は、日本のサブカルチャーの総決算とも言うべき唯一無二の存在感を未だに放ち続け、監督の庵野秀明が自負するとおり、以後12年間エヴァより新しいアニメは存在しなかったと言っても過言ではない。
当時、大学生だった私も1994年に創刊された『Quick Japan』の「エヴァンゲリオン」特集などを読み漁っていたが、TVシリーズが最終回を迎えると急速に熱が冷めていった。別に、毀誉褒貶を生んだ最終話の内容に憤慨した訳ではない。作り手としては色々と考えていたものの上手くまとめきれなかった、という事なのだろうし、そもそも上手くまとめる事がこの作品に相応しいのか、という問題もある。それよりも、最終回の内容や残された謎をめぐって、皆が自分なりの解釈を議論し続けるのが気持ち悪く、嫌でたまらなかった。というのも、それらの言説が『新世紀エヴァンゲリオン』という作品に仮託して、自分について語っている様に見えたからだ。その様な自意識の垂れ流しを誘発する要因が作品の中にあったのなら、さっさと忘れ去られてしまえばいい、とすら思った。だから、その後の「エヴァンゲリオン」については、TVシリーズとは全く異なる結末を描いた旧劇場版も観ていない。今回の新劇場版で久しぶりにエヴァの世界を訪れた訳である。
完結編に備えてAmazon Primeで「序/破/Q」をおさらいしたが、改めてビジュアル面での圧倒的なクオリティには圧倒させられる。そもそも、TVシリーズ版は納期に追われていた為か、エピソードによって作画の質にバラツキがあり、中にはデッサンが狂っているのではないかと思うものすらあった。費やされる予算と時間が格段に増えた新劇場版では、TVアニメシリーズの原画や資料を再利用しながらも全ての絵が新たに描き起こされ、当然ながら作画の質は一定に保たれている。肝心のアクションシーンについても、新たにデジタル撮影と3DCGが採用された結果、エヴァ使徒の動きは更に複雑かつ精緻になり、それらを縦横無尽に動き回るカメラが的確に捉えていく。1シーン、1カット毎に途轍もない労力が費やされている事が素人目にも分かる。まさに、今の時代に合わせてリビルド(再構築)された「エヴァンゲリオン」と呼ぶに相応しい。
ただ、(一部で改変されているとはいえ)TVシリーズ版のダイジェストとも言える内容だった「序」や「破」が、テンションの上がる熱い展開だったのに対し、映画版オリジナルのストーリーが語られる「Q」は、TVシリーズ後半を思わせる陰々滅々とした話が続き、またこんな感じになるのかあ…と正直げんなりしたのも事実である。案の定、「Q」についてはこれぞエヴァ、と賛辞を贈る者がいる一方、爽快感に乏しい鬱展開には批判が集まった様だ。「Q」では「破」で引き起こされたニアサードインパクトから14年が経った世界が舞台となるが、浦島太郎のごとくひとり取り残された主人公、碇シンジの周囲の人々が「序」「破」を観てきた者からはまるで理解不能の、感情移入を拒む様な言動を繰り返す。「Q」で観客が置いてけぼりにされたと感じるのはこの点だと思うのだが、それは「破」で引き起こされたニアサードインパクトが世界に、人の心にどの様な影響を及ぼしたか、という点について(登場人物の口を借りてぼんやりと説明されるものの)具体的な描写が全く無かった点に起因する。「破」と「Q」の間で起きたであろう絶対的な変質を、シンジ同様に観客も実感できない。その意味で「Q」のモヤモヤした展開は、シンジの内面世界がストーリーのレベルにまで投影されたもので、観客はシンジの懊悩を否応なく追体験させられる訳だ。これはいかにも「エヴァンゲリオン」らしい仕掛けだとは言える。
完結編である『シン・エヴァンゲリオン劇場版』の序盤において、ニアサードインパクトの避難民たちが住む村の生活を事細かく描き、綾波レイが農作業に従事する姿まで挿入したのは、前述した「Q」の欠落部分を補填する事で、葛城ミサト式波・アスカ・ラングレーの変質に説得力を持たそうと意図したものだろう。ここで初めて、観客は四部作の中で据わりの悪かった「Q」の物語の意味を知る事になる。あまり細かい点にまで立ち入るつもりはないが、この完結編に感じるのはTVシリーズ版を端緒にあらゆるジャンルに増殖していった「エヴァンゲリオン」の物語を終わらせようとする、並々ならぬ強い意志なのだ。もしくは、「エヴァンゲリオン」の物語に触れた人々全てを満足させようとするサービス精神、と言えばいいだろうか。従って、藤田直哉「主観的な印象としては、10点満点中で350万点ぐらいの作品なのだが、『新劇場版』から入り、『破』が一番好きだという観客にとっては意味不明で3点ぐらいの作品なのではないかと危惧」するのは全くの杞憂というか大きなお世話というか、なぜこの手の論者は優越感に浸りたいが為にファンを分断する様な事を言いたがるのか、と腹が立ってくるのだが、本作が庵野秀明の言葉通り「誰もが楽しめるエンターテイメント映像」に仕上がっている事は保証しよう。
映画の終盤では怒涛の「説明」が待っている。過去作に散りばめられた謎の欠片は悉く拾いあげられ、ひとつひとつあるべき場所に嵌められていく。もちろん、最初から全てが計算され尽くしていた訳ではないだろう。中には強引に嵌め込まれたピースもあるし、最終的に出来上がった全体図もまた極めて歪なものではある。更に言えば、絶対的な父権を中心とした家族の物語だった『宇宙戦艦ヤマト』と父親に反抗する放蕩息子を主人公とする『機動戦士ガンダム』に対し、父の不在を描いていた筈の『新世紀エヴァンゲリオン』が、典型的な「父殺し」の物語に帰結した事に物足りなさを感じなくもない。しかし、これだけ物語の説明に時間を費やしながらも、最後まで動く絵としてのアニメーションの面白さを損なっていないのは驚異的である。この圧倒的な「絵」の前では、もはや「物語」などどうでもいいではないか、と思わてくれる。
女性キャラクターのセクシュアルな描写については少し気になった。新キャラクターの真希波・マリ・イラストリアスも含め、いくら何でもあざと過ぎるのではないか。もちろん、これも「サービス」のひとつではあるのだろうが、1990年代ならいざ知らず、今の風潮には若干そぐわない様に思ったのだが、その点について指摘した意見をついぞ聞かないのは不思議である。

 

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「誰もが楽しめるエンターテイメント映像」であるとはいえ、さすがにこの3作を観ていないとチンプンカンプンだとは思う。

 

ジョン・コニー『サン・ラーのスペース・イズ・ザ・プレイス』

Sun Raは自分の思想が普遍性を獲得できない事を自覚していたのではないか

Sun Raの『Space Is The Place』は大好きなアルバムで普段からよく聴いているのだが、ジャズの熱心なファンでもない私には、Sun Raの膨大な音源を全てフォローできるはずもなく(最近はサブスクでほとんど聴ける様になったが)、彼の音楽の核となっている思想についてもほとんど何も知らない。そんな訳で、Sun Raが主演、脚本、音楽を務めた本作が日本で初めて劇場公開されると知り、楽しみにしていた。この映画はあくまでSF娯楽映画という体裁をとっているので、まずはあらすじを簡単に紹介しておこう。
1969年頃に地球から姿を消していた大宇宙議会・銀河間領域の大使Sun Raは大宇宙を航行した果てに、遂に地球と異なる理想の惑星を発見した。音楽を燃料とする同位体瞬間移動によって米国にいる黒人たちを移送しようと考えたSun Raはさっそく地球に戻るが、やがて彼の技術を盗もうとするアメリカ航空宇宙局NASA)の魔の手が迫るのだった…
と、分かった様な分からない様な話だが、この現実離れした設定は、Sun Ra独自の宇宙哲学に根差したものである。彼の思想及びその芸術活動はアフロフューチャリズムの先駆とも言われているが、何じゃそら、という人に簡単に解説しておけば、そもそも、アメリカの黒人たちはアフリカ大陸やカリブ諸島から拉致されてきた奴隷を祖先とする。従って、彼らは生まれながら故郷を奪われた存在としての運命を享受せねばならない。アフロフューチャリズムは、黒人たちの郷愁の対象を宇宙に求めようとする思想である。自分たちは宇宙から地球へ連れ去られてきたのであり、真の故郷は宇宙にあると考え、そこに人種差別など存在しないユートピアを見出す。また、黒人の白人社会への同化による差別解消を潔しとせず、黒人が権力を握っていた古代エジプトに対してシンパシーを抱いて、結果的に「ブラック・ナショナリズム」と深く結びついていく。こうして、アフリカと古代エジプト、科学技術とニューエイジ思想がごた混ぜになった、唯一無二の世界観が形成されていくのである。誤解の無い様に言っておくが、別にSun Raがアフロフューチャリズム、という概念を提唱した訳ではない。Sun Raに影響を受けた後続の黒人音楽家たち―Earth,Wind & FireやP-FunkAfrika BambaataaJeff Millsなど、ソウル/ファンクからデトロイトテクノに至るブラックミュージックの系譜―に垣間見られる宇宙志向がやがて注目され、文学や映画でも引用されるようになり、その創始者としてSun Raが再発見された、という事なのである。
そんな訳で、本作をアフロフューチャリズム、更にはブラックスプロイテーション映画の始祖として捉えるなら、その子孫として『ブラックパンサー』といった作品を置いてみる事も可能だろう。もちろん、映画については素人のSun Raが主演と脚本を務めている本作は、娯楽映画としての完成度という意味では『ブラックパンサー』とは比べものにならないぐらいにユルユルである(そのキッチュなアートデザインは『バーバレラ』みたいなレトロフューチャーSFが好きな人なら気に入るかもしれない。お色気要素もほんの少しあるし)。
ただ、Sun Raの脚本にはなかなか面白いところがあって、自らの思想を世間に広く伝える為に娯楽映画のフォーマットを利用する、というのは、例えば宗教団体の作った映画なんかでも常々やっている事だが、その手の映画では核となる思想や教義は絶対的に正しい真理として描かれ、劇中で疑念を持たれる事はないのが常である。何しろ、むこうは無知な大衆を啓蒙する目的で映画を作っているので自分が正しい、という姿勢は絶対に崩さない。しかし、そもそもその思想やら教義に普遍性が欠けているからこそ、映画まで作って広めようとしていた訳で、その結果、一般の観客からすればチンプンカンプンの理屈が何の疑問もなく全肯定される、よくわからない映画ができあがるのだ。この手の映画が結局は信者に向けたノベルティの域を出ないのもその為である。
しかし、Sun Raは自分の思想がその様な普遍性を獲得できない事を自覚していたのではないかと思う。映画の中盤、黒人たちを音楽によって宇宙へ送り届ける為にオーケストラのメンバーを集める必要に駆られたSun Raが、オーディションを行う場面がある。そこで彼は失職したばかりで生活に困っている応募者から報酬について問われるのだが、「宇宙には報酬という概念が無いのでノーギャラだ」と答えた瞬間、「あ、すいません。次の予定があるもんで失礼します」と逃げられてしまう。もちろん、この場面には資本主義に頭からどっぷり浸かっているアメリカ白人を揶揄する意味合いもあるのだろう。しかし、観客からすればどう考えてもSun Raの方が頭がおかしいのである。
おそらく、Sun Raはその事を十分に意識し、彼の思想を理解できない観客にも笑って楽しんでもらえる様に本作の脚本を書いている。この客観性こそ、Sun Raのアバンギャルドな音楽が多くのファンを獲得した原因だったのではないか、と思う。

 

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サン・ラー ジョイフル・ノイズ [DVD]

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こちらはSun Raのインタビューとライブ映像が収められたドキュメンタリー作品…なのだが、なぜか劇映画に見えてしまうのがSun Ra先生の徳の致すところ。ライブシーンでのSun Raのキーボード演奏はとにかく凄まじいの一言。 

岨手由貴子『あのこは貴族』

階級がもたらす断絶を軽やかに超えて繋がっていく女たち

山内マリコの小説はこれまで『ここは退屈迎えに来て』と『アズミ・ハルコは行方不明』の2作が映画化されているが、『グッド・ストライプス』の岨手由貴子が監督を務めた本作は、原作者がコメントを寄せているとおり、「2021年の日本映画の大収穫の一つ」と言ってもいい出来栄えである。山内マリコ名画座に足繁く通うぐらいのシネフィルだから、この仕上がりは本当に嬉しかっただろう。いや、むしろ嫉妬すら覚えたのではないかと想像する。岨手由貴子は原作の筋書きを忠実になぞりつつ、最小限の脚色と細やかな演出によって原作以上の豊かさを映画にもたらしているからだ。結婚相手を探す主人公の榛原華子が姉の麻友子に男性を紹介してもらう場面や、もう一人の主人公である時岡美紀が地元の同窓会で同窓生からホテルに誘われる場面では、映画版独自の台詞が追加されていて、それらはほんの少しの付けたしであるにもかかわらず、男から受けるマウンティングに女たちがいかにうんざりしているかをある種の痛快さをもって描いている。あくまで華子と美紀にスポットを当て、その他の人々は脇役的な扱いだった原作に対し、映画版では華子の夫である青木幸一郎や華子と美紀を引き合わせるきっかけとなる相楽逸子、美紀の学友である平田里英といった人物にもより細やかな演出が加えられいて、例えば青木幸一郎と時岡美紀、そして相楽逸子が顔を合わせるシャンパンパーティの場面での、マカロンタワーの一番上に乗ったマカロンをつまみ食いした後に、その代わりに赤い花をちょこんと乗せる相楽逸子や、借り物の名刺の裏に連絡先を書く為、気安く青木幸一郎の背中を借りる時岡美紀の印象的な姿も、映画版で追加されたものだ。こうした繊細な描写が人物の造形に厚みをもたらし、「階級」を超えた人と人との繋がりをすんなりと観客に受け入れさせる。
更に、本作のテーマとなっているその「階級」についても、岨手由貴子は「移動」という極めて映画的なモチーフを使って的確に表現している。本作では榛原華子はタクシーを、時岡美紀は自転車を主要な移動手段として利用しているのだが、それは異なる「階級」に生まれた2人の女性の金銭感覚の違いを示しているだけではない。運転手に行き先を命じれば、後は座席に座って目的地に到着するのを待てばよいタクシーを主に利用する華子は、人生もまた目指すべき場所へ誰かが連れて行ってくれるものだと考えている。だから、彼女にとって理想の結婚相手とは理想的な運転手と同じなのだ。これは、目的地へ向けて自らの足で自転車のペダルを漕ぐ美紀と対象的である。自転車に乗る美紀は流れる風を肌で感じ、アスファルトの匂いを嗅ぎ取り、人々の騒めきを聞き分け、やがて自らもまた東京という街の一部となるだろう。華子にとっての「移動」が目的地に着くまで潜り込まなければならない、外部から隔絶された孤独な時間であるのに対し、美紀にとってのそれは、自由で開かれた瞬間を生きる事そのものなのである。
だからこそ、青木幸一郎との結婚生活に悩む華子と美紀が再開する場面が、映画版では非常に重要な意味を持つ。原作では、華子が美紀にLINEでメッセージを送るだけで果たされた再会が、映画版ではタクシーに乗った華子と自転車に乗った美紀が東京の街で偶然に出会う、というドラマチックな展開を通じて実現する。次の目的地に到着するまでの空虚な時間を過ごしていた華子が、東京の街を自らの意思と身体で軽やかに疾走する美紀の姿を車窓越しに発見した時、彼女は初めて目的地に向かうタクシーを途中下車し、予定調和に満ちた世界を抜け出すきっかけを掴み取るのだ。この瞬間、彼女を外部から遮断していた「階級」の壁に風穴が穿たれる。美紀の部屋を訪れた帰り、タクシーを降りて自分の足で歩き始めた華子が、自転車で二人乗りをする少女達に向かって手を振るシーンは、彼女たちの間には既にいかなる障壁も存在しないという事を指し示す。実際は、華子と少女たちの間には車道が横たわり、互いの姿もはっきりとは見通せず、声も聞こえないぐらいに両者の距離は離れているかもしれない。それでも、彼女たちは同じ街に住む者としてーあるいは同じ苦しみと喜びを分かち合う者として―確かな繋がりを共有しているのだ。
それは、離婚から1年後にとある音楽会で再開する事になった華子と青木幸一郎も同様である。吹き抜けの空間を挟んで差し向かいの回廊に立つ華子と元夫は、音楽に耳を傾けながら密やかに視線を交わす。ラストシーンに置かれた見つめ合う2人の切り返しショットは、彼女たちの短い結婚生活の間では遂に果たせなかった、心と心の交流がようやく始まりつつあるのだ、と予感させる。

デヴィッド・クローネンバーグ『クラッシュ 4K無修正版』

バラードとクローネンバーグ、2人の異才の欲望が刻み付けられたスキャンダラスなポルノ

子供の頃にTVで放映された『ザ・フライ』が初めての出会いだったと思うが、その後もデヴィッド・クローネンバーグの作品は色々と観てきてはいる。かといって、それほど熱心なファンだった訳でもない。『クラッシュ』も公開当時、瀬戸川猛資がケチョンケチョンに貶している映画評を読んで面白そうだな、と思ったものの、その頃はSFにあまり興味が無かった事もあって、結局映画館に出掛ける事はなかった。本作を観るにあたり、クローネンバーグのフィルモグラフィをネットで調べたところ、『裸のランチ』から始まる90年代の作品は全く観ておらず、かろうじてケーブルテレビで『イグジステンズ』を鑑賞したぐらいである。これは初期の傑作『ヴィデオドローム』をわかりやすくリメイクした様な一品で、ジュード・ロウが出演しているわりにものすごく地味な印象を与える作品だった。そもそも、『マトリックス』が公開された1999年の映画にしては、作中のバーチャル・リアリティをめぐる描写が古臭いので(何かケーブルプラグを人体に装着するとかそういうのだった。まあ、P・K・ディックをやりたかったのだろうが…)、SFファンにもウケなかっただろう。しかし、ジャンル映画として観てみるとやっぱり面白いのである。
これを機会に過去作品を年代順に観ていたのだが、比較的ウェルメイドな作りだった『デッドゾーン』や『ザ・フライ』の反動からか、90年代のクローネンバーグはジャンル映画としての洗練を放棄し、むしろ物語的な破綻を積極的に受け入れようとしていたかに見える。『裸のランチ』にしても、ウィリアム・S・バロウズの小説を忠実に再現するというより(まあ、そんな事は不可能だろうが…)、クローネンバーグ自身の強迫観念や潜在的な欲望のありかを探偵映画のプロットを借りて探し出そうとする試みだったのだろう。そうした自己探求の旅の果てに原点回帰とも言える『イグジステンズ』を撮ったクローネンバーグは、傑作『ヒストリー・オブ・バイオレンス』を頂点とする2000年代の作品へと移行していく。
さて、『裸のランチ』の後にクローネンバーグが撮ったのが、本作『クラッシュ』である。何年か前に「ヘア解禁ニューマスター版」がソフト化されていたが、今回は「4K無修正版」となって久々に劇場公開される事となった。本作はイギリスのSF作家、J・G・バラードが1973年に出版した小説の映画化だが、プロットそのものは『裸のランチ』と異なり、原作に忠実な作りとなっている。クローネンバーグは以前からバラードの小説のファンだったらしいが、そういえば両者の作風の変遷には似ているところがある。滅びつつある世界とそこに生きる人々の姿を詩情豊かに描いた「破滅三部作」と呼ばれる作品群を経て、バラードは濃縮小説集『残虐行為展覧会』を挟み、70年代から「テクノロジー三部作」と呼ばれる作品を発表していく。『クラッシュ』『コンクリート・アイランド』『ハイ・ライズ』と続くこの三部作では、それまでの終末世界から近現代に舞台を移し、テクノロジーによって人間の精神がいかなる変容を遂げるか、その可能性が追及されていた。それまでの冒険小説的なプロットは影を潜め、文体は晦渋さを増し、自己言及的な仮構世界を舞台に人々は未知の欲望に突き動かされながら突発的な暴力や奇怪極まる性行為へと身を投じていく。ジャンル映画から身を引き離したクローネンバーグが、中期バラードの代表作である『クラッシュ』を映画化しようと試みたのは必然だったろう。
テクノロジーによって人間の精神が変化し、それが肉体の変容を招く、というのはクローネンバーグが初期から追及していたテーマである(『ヴィデオドローム』『ザ・フライ』『イグジステンズ』をクローネンバーグ版「テクノロジー三部作」と呼んでもいいかもしれない)。クローネンバーグの肉体変容描写というのは基本的にメタファーが可視化した様なものが多い。無意識の怒りが皮膚にできた腫物となり、やがて怪物へと成長する『ザ・ブルード/怒りのメタファー』が最も分かりやすいが、スナッフビデオの魅力に憑りつかれた男の腹にヴァギナの様なビデオ挿入口ができたり、『スキャナーズ』みたいに頭痛が高じて頭が爆発したり、クローネンバーグの映画では精神と同じく肉体もまた可塑的なものに過ぎず、だから男が女に、女が男にも容易く変ってしまう。クイア(変態)な快楽に向けての潜在的な欲望が肉体に変化を生じさせる。特に、『裸のランチ』『クラッシュ』『エム・バタフライ』と並ぶ90年代の作品はゲイである事への憧れと恐れがない混ぜになっていて、明確な対象を欠いた(私が好きなのは女/男なのか?あるいは女/男のイメージに過ぎないのか?)ラブストーリーとして観る事ができるだろう。『クラッシュ』について言えば、バラードの原作では欲望の対象とされていたエリザベス・テイラーが映画版では省かれており(その代わりに、同じく交通事故死した名優ジェームス・ディーンがクローズアップされている)、1967年に事故死した女優ジェーン・マンスフィールドに扮し、自らもまた事故死しようと目論むスタント・ドライバーが原作以上の存在感を放つ。交通事故によって車両の外装が切り刻まれ、ボディフレームがひしゃげ、フェンダーが醜く変形し、フロントパネルが運転者の身体を圧し潰すその瞬間を、性的エクスタシーと重ね合わせたのはバラードの発明だが、クローネンバーグは性差の融化、というテーマを強調する事で自らの潜在的欲望を刻み付けたのだと言える。

 

あわせて観るならこの作品

 

ビデオドローム [Blu-ray]

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  • 発売日: 2012/06/20
  • メディア: Blu-ray
 

テクノロジーの影響で変容する肉体と精神。男の腹部に突如あらわれる女性器。『クラッシュ』で描かれたテーマの萌芽が既にここにある。

 

ハイ・ライズ(字幕版)

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  • 発売日: 2017/02/08
  • メディア: Prime Video
 

『クラッシュ』と同じく、J・G・バラード「テクノロジー3部作」の映画化。以前に感想も書きました。『コンクリート・アイランド』も映画化&復刊お願いします。 

今泉力哉『あの頃。』

ただ消費するだけの存在として生き、そして死んでいく

私はこれまでアイドルにハマった、という経験が一度もない。そんな人間でも毎週欠かさず「ASAYAN」を見ていたぐらい、当時のモー娘。は飛ぶ鳥を落とす勢いだった。つんくによるツボを押さえた楽曲もさる事ながら、加入と脱退を繰り返すメンバー編成によって、常に新鮮さを保ち続けた事が成功の原因なのだろう。しかし、私はその目まぐるしい変化についていけず、第4期を最後に完全に興味を失った。だから、『あの頃。』で描かれている第6期以降については全くの無知と言っていい。第5期以降のメンバー、高橋愛とか道重さゆみは名前を知っているだけで顔が浮かばないし(正直に言うと、道重さゆみ重盛さと美とごっちゃになっていたのだが…)、その他のメンバーは名前すら知らないのだ。それでも、2000年代初頭のハロオタ達の青春を描いたこの映画は非常に面白かった(と共に、こんな最近の事ですらノスタルジーの対象となってしまう事に愕然とする…そりゃ、歳もとる訳だ)。
本作は劔樹人によるコミックエッセイ『あの頃。男子かしまし物語』の映画化作品である。大学院受験に失敗し、音楽で食っていくという夢も果たせず、悶々とした毎日を送っていた主人公の劔は、友人から借りたDVDで松浦亜弥の『桃色片想い』のPVを見て涙を流すほどの感動を覚える。それ以来、ハロプロアイドルにのめり込んでいった彼はある日、「ハロプロあべの支部」というファングループのイベントに参加し、強烈な個性を持ったハロオタ達と邂逅するのだった…
アイドルオタの世界に興味があったので原作も買って読んでみたのだが、驚いたのは映画版が原作にほぼ忠実な作りとなっていた事である。『あの頃。男子かしまし物語』は杉作J太郎命名した「マンコラム(マンガと活字コラムが合体した表現形式)であって、時系列に沿った物語というより、執筆時点の著者が記憶している面白いエピソードを徒然なるままに語っていくエッセイ的な性格が強い。それを一篇の青春映画として再構成するにはそれなりの脚色が必要となりそうなものだが、本作はそうした改変を最小限にとどめ、各挿話をできるだけ忠実に再現しながら、その配置や構成上の工夫によって、青春映画として首尾一貫したドラマを作り上げているのだ。このあたり、末井昭の自伝を映画化した『素敵なダイナマイトスキャンダル』の冨永昌敬による脚本の力が大きいのだろう。しかし、この見事な手際と言ってもいい脚本が、別の問題を生んでいる様にも思えた。
主人公の劔が所属するハロプロファングループ「ハロプロあべの支部」、及び彼らの主催するイベント「恋愛研究会。」の本作での描かれ方に、少なからず違和感を覚えた方も多いと思う。全体に漂うホモソーシャルな空気は当時のアイドルオタを取り巻く環境から仕方がないにしても、「だいたいのことは笑ってしまえばいい」という仲間内で共有されている「ノリ」が、他者を深く傷つけるという可能性に彼らは最後まで無自覚なのだ。それが最もグロテスクな形で表れたのが、仲野太賀演じるコズミンをめぐる公開裁判のシーンだろう。「恋愛研究会。」のメンバー、アール君の彼女である奈緒ちゃんを口説き落とそうとしたコズミンの所業を公開イベントの場で暴き立て糾弾するこの場面は、最終的にコズミンとアール君の和解、という形で決着するものの、奈緒ちゃんという1人の女性の尊厳や人格は完全に無視されている。極めてプライベートで繊細な話を本人の許可も得ずに公の場で笑いものにする主人公たちの態度は、彼らが寝取ったとか寝取られたとか、その様な対象としか女性を見ていない、という事実を示している。ならば、彼らが崇拝する松浦亜弥モーニング娘。もまた、結局は消費の対象に過ぎないのではないか。彼らのアイドルに対する純粋な想いが物語の肝である筈なのに、身近にいる女性に対するこの無神経な扱いが、本作の青春映画としての輝きを曇らせてしまっている様に思う。
この公開裁判の話は確かに原作にも存在するのだが、映画版に比べるとなぜか読んでいてそこまで不快な気持ちにはならない。これはひとえに、原作がエッセイという形式を採用している事と無関係ではないだろう。このエピソードはあまりにもくだらない思い出話のひとつとして紹介されるだけで、物語上そこまでの深い意味がある訳ではない。映画版では割愛されているが、奈緒ちゃんはこの後アール君に愛想を尽かし、三下り半を叩きつける(もちろん、コズミンに乗り換えた訳でもない)。思い余ったアール君は奈緒ちゃんの家に押し入り、別れるぐらいなら殺してくれと騒ぎ立て、そのクズっぷりを存分に発揮するのだが、要するに、原作では作者の劔樹人も含めた当時のハロオタ界隈のダメさ加減を自虐的に描く、という客観的な視点が存在しているのである。Berryz工房の握手会を前に興奮を抑えられず拳で自分の顔面を殴り続ける男や、ハロプロアイドルのイベントやライブに必ず現れる、近鉄バッファローズのユニフォームを着た双子の中年(落合博満似)など、原作ではこうしたアイドルオタの暗部というか、どう考えてもヤベえ奴が面白おかしく紹介されているのだが、つまり、当時のアイドル業界にはこうしたアンダーグラウンドな側面が存在したのである。AKB48の出現によって、その様な地下世界にもスポットライトが当てられ、アイドルオタはアイドルファンとして市民権を得た(もちろん、ヤベえ奴はどの時代にもいるものだが)。だから、ひと口にアイドルオタと言っても、『あの頃。男子かしまし物語』で描かれた時代と現在の間には大きな断絶が存在する。
しかしながら、映画『あの頃。』には原作の自虐的な視点が抜け落ちている。なぜなら、この映画化にあたって「生きがいを失った若者がアイドルの存在によって救われ、様々な仲間との交流を通じて人間的な成長を遂げていく」という、作品全体を貫く物語が用意され、全てのエピソードがそれを引き立たせる為に配置されていくからだ。「あの頃があったからこそ、今の自分がいる」というのは原作でも映画版でも共有されているテーマだが、エッセイの形式を採る原作と比べて映画版はかなりあざとくなったというか、登場する友人もアイドルも、結局は主人公が成長する為の養分に使われるので、いくら何でも都合が良すぎるんじゃないか、と感じてしまう。特に、上述のエピソードは奈緒ちゃんがこの後いっさい登場しなくなる、という面も含めて、男たちの物語に都合よく利用されている、という感が否めない。これは劇映画として物語性を強調したが故に生じた問題と思う。
さて、原作者の劔樹人は「神聖かまってちゃん」の初代マネージャーを務めた後、アイドルにまつわるエッセイを執筆する傍ら、現在はダブバンド「あらかじめ決められた恋人たちへ」のベーシストとしても活動している。つまり、「消費する」存在から「消費される」存在へと「成長」した訳だ。オタクというのは、自分が他者の作ったコンテンツを「消費する」だけで、決して「消費される」側に立つ事はできない、という残酷な現実に常に曝されている。その残酷さに耐えきれず、消費の対象(アイドル、ゲーム、アニメ何でもいい)について言葉を費やせば費やすほど結果的にその対象から遠く離れていく。「ハロプロあべの支部」の面々が定期的にイベントを開催していたのは、自分たちも「消費される」存在になりたい、という欲望の表れだろう。コズミンが私たちに強い印象を残すのも、ガン細胞に侵されていく病床の彼の姿が、ただ「消費する」だけの存在として生き、そして死んでいく、言わばオタクの求道者の様に映るからではないだろうか。

 

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素敵なダイナマイトスキャンダル [Blu-ray]
 

本作で脚本を担当した冨永昌敬が伝説のエロ雑誌『写真時代』の編集長、末井昭の自叙伝を映画化した一作。題材が題材だけにホモソーシャルな空気は『あの頃。』以上だが、富永は壮絶な自殺を遂げた末井の母にスポットを当て、その不可解さを不可解さとして描く事で毒気を中和している。決して、何か結論めいた事を口走ったりはしていないのだ。