事件前夜

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今泉力哉『街の上で』

『街の上で』は何も始まらない時間だけが持つ豊かさを私たちに教えてくれる

新型コロナウイルスの影響により延期となっていた今泉力哉の新作『街の上で』がようやく公開された。本来なら、2020年5月に予定されていた訳だから、およそ1年も遅れた事になる。そして、この1年の断絶がより複雑な相貌をこの映画にもたらした様に思う。
もちろん、コロナ禍の影響を被った映画は本作に限らない。劇場公開が予定されていたのにサブスクでの配信やDVDスルーに変更されたり、あるいは未だに公開のめどが立っていないものすらある。しかし、実際に作品に接してみれば、それらの映画もコロナウイルスとは無関係な表情でいつも通り私たちを楽しませてくれるだろう。だから、映画が被ったコロナ禍の影響とは、公開延期に伴う興行的な損失など、あくまで作品外のレベルに留まっている筈だ(もちろん、それも非常に重大な影響であるのは間違いないが)。
それに対して『街の上で』はどうだろう。若葉竜也や古川琴音が歩く下北沢の街並みは、おそらくコロナ禍前に撮影されたものに違いない。では2021年4月の現在、スクリーンに映し出された古着屋や古本屋やバーやライブハウスは、今も変わらずそこにあるのだろうか。街を歩いていた人々は、今でもそこにいるのだろうか。折しも3度目の緊急事態宣言が布告された現在、下北沢に限らず私たちの住む街は更なる変容を迫られている。公開が延期された事で、本作は期せずしてコロナウイルスがもたらした、ある種の「切断」を抱え込んでしまう事となった。
もちろん、劇中でも語られるとおり、コロナウイルスにかかわらず街はいつだって変わり続け、二度と同じ姿を見せる事はない。その繰り返しの中で生きている私たちは、その変化を当然の事と受け止めている。行きつけの本屋が潰れコンビニに変る。美味しいコーヒーの飲めた喫茶店がいつの間にかコインパーキングになっている。けれども私たちはやがて、かつてそこに本屋や喫茶店があった事すら忘れてしまうだろう。しかし、本作の主人公である荒川青は言う。街がいくら変わっても、そこにあった、という事実は失くならないと。その荒川青が出演する自主映画の1シーンから映画が始まる事は、だから極めて象徴的である。その演技があまりにも拙すぎた為、彼の出演場面は最終的に使用されない事になるのだが、映画においてカットされたシーンとはまさに「誰も見ることはないけど確かにここに存在してる」ものだからだ。
「」に括った部分は本作のキャッチコピーであり、荒川青が通う古書店の店員、田辺冬子の劇中の台詞でもある。今は姿を見る事はできないが、かつて確かに存在したもの。それを「幽霊」と呼ぶなら、本作は「幽霊」についての映画だと言う事もできるだろう。その様な観点から見れば、かつて田辺冬子と愛人関係にあったらしい古書店の店主が既に死亡しており、店の留守番電話に吹き込まれた声だけが、彼の存在あるいは不在を示す、というのはいかにも「幽霊」じみた話に思えてくるが、いずれにせよ田辺冬子にとってはある者の「非在」が「存在」と同じぐらいの重みを持つ事は間違いない。荒川青は、留守番電話に遺された店主の声を媒介に、田辺冬子と今は亡き店主を、生きる者と死んだ者を繋げようと試みる。店主の声が流れるスマホを荒川青が田辺冬子にそっと手渡すシーンは感動的だ。その後、彼女は愛した男にどの様な言葉を掛けたのか。シーンはそこでふっつりと途切れ、彼女の言葉は虚空へとかき消える。
荒川青に映画の出演を依頼した学生監督の高橋町子が言うとおり、映画にとっての編集、つまりシーンとシーンを繋ぎ合わせ、その過程で不必要なシーンを削除する事は必要不可欠な作業である。この編集という工程を経て、映画はシーン毎の「切断」―映画とは撮られた時間も場所もバラバラの映像を繋ぎ合わせたものに過ぎない―を隠蔽し、首尾一貫とした物語をねつ造する事ができるからだ。しかし、『街の上で』は、編集によって巧妙に作り上げられた物語を否定する。城定イハと荒川青の会話を長回しで捉えた場面は、通常の映画であればカットされるか、あるいは編集によって短く切り詰められるだろう。それは映画が語ろうとする物語に何の貢献もしないばかりか、一貫したスムーズな物語の進行を阻害さえしかねないからだ。人によってはこの場面を退屈に感じもするだろう。だがその何気ない、退屈な時間の中から不意に生きる事の生々しい相貌が露出する。語るべき物語に貢献しない、という意味でこのシーンは非生産的かもしれないが、私たちの人生だってそのほとんどが何も生み出さない時間で占められているのだ。その虚無に耐えきれない者は、無意味な時間の断片を繋ぎ合わせ、意味のある物語を作ろうとする。『街の上で』を称賛すべきなのは、その無意味な時間の集積をありのままに捉える事で、「切断」を「切断」として受け入れようとする覚悟に他ならない。

こうして、映画は物語の呪縛から逃れ、再びバラバラの映像へと戻っていく。その「切断」された映像たちは、何かが始まろうとする予兆だけを感じさせ、しかし何も始まらない、宙吊りの時間に私たちを置き去りにする。そこでは「生」と「死」が、「存在」と「非在」が何ら矛盾する事なく同居しているのだ。その豊かさに、とりあえず私たちは驚いてみるべきだろう。

 

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