事件前夜

主に映画の感想を書いていきます。

フロリアン・ゼレール『ファーザー』

錯綜し破綻したヒッチコック的語り口が垣間見せる、認知症患者の見る世界

私の母は、死の数か月前から認知症の兆候があらわれ始めていた。既に他界した筈の父が家にやってくる、と私に電話を掛けてくる様になったのはいつ頃からだろうか。当初は、父が既に死んでいる事、母も葬儀に立ち会った事を説いて聞かせると納得していたのだが、段々と電話を掛けてくる回数も多くなり、常軌を逸した話を繰り返す様になった。公営住宅の5階に住んでいるのに誰かが窓から覗いていると怯え、父が夜中にやってきて財布から金を盗んでいくと交番に駆け込む。認知症の家族に対する接し方として、本人の妄想や幻覚を頭ごなしに否定するのは孤立感を深め良くない、と聞いたので、私も母の訴えにできるだけ話を合わせる様に務めていたのだが、さすがに「小人ぐらいの大きさになった父親が、ドアの郵便受けから入り込んでくる」などという話をどうやって受け入れたらいいのか分からない。次第に私も苛立ちが募り喧嘩をする回数も増え、そろそろ施設に入れる事も検討し始めていた矢先、もともと心臓の弱かった母は不意にこの世を去った。母の遺体の傍らには、夫婦関係についてのレクチャー本が置かれていた。彼女が死の直前どの様な世界を見ていたのか、私には分からない。
オリヴィア・コールマン演じるアンが父の住むロンドンの家を訪れる場面から、『ファーザー』は始まる。アンソニー・ホプキンス演じる父親アンソニーは、自分が認知症である事を認めようとせず、アンの手配した介護人を次々と追い出していた。3人目の介護人を追い払った理由をアンが訪ねると、その介護人には盗癖があり、大事にしていた腕時計を盗まれた、などと嘯く。もちろん、これは彼の被害妄想に過ぎず、腕時計はちゃんと家の中にあった。アンは自分が恋人と一緒にパリへ移り住む事、介護人を受け入れられないのなら、施設に入ってもらうしかない事を父親に告げる―この冒頭場面は、「難病もの」の映画の出だしとしては順当と言っていい。普通であれば、ここから父親の病状の進行や、介護に追われる娘の苦悩、徐々に移ろっていく親子関係、などが描かれていく筈だが、本作はここから思いがけない展開を見せていく。
アンソニーはある日、家の中で見知らぬ男がソファに座って新聞を読んでいるのを目撃する。男は、自分はアンの夫であり、ここは自分たちの家で逆にアンソニーの方こそ居候なのだ、と主張して譲らない。しかし、アンは数年前に離婚し、新しく出来た恋人とパリへ行くのだと、ついこの間父親に聞かせたではないか―困惑し自分の記憶を疑い始めるアンソニーの前に、買い出しから帰ってきたアンが姿を現すが、それは父が知っている娘とは似ても似つかない全くの別人だった―
まるでヒッチコックの映画じみた展開だが、もちろん本作は『白い恐怖』の様な記憶喪失をテーマにしたサスペンスではない。アンソニーの周りにいる人たちは次々と顔を変え、その時々で話す内容も変わりアンソニーを不安と混乱に陥れる。映画としてのストーリーも時系列がめちゃくちゃに入れ替えられ、同じ場面がループしたりもするので、観客である私たちもまるで迷宮に迷い込んだかの様な感覚を味わう。しかし、この不可解な現象はサスペンス映画の「謎」とは異なり、最後に「真相」が用意されている訳ではない。
さらに本作が面白いのはストーリーに限らず、被写体を写すカメラも現実と妄想を区別していない点にある。例えば、本作ではアンソニーの娘アンを、オリヴィア・コールマンオリヴィア・ウィリアムズという2人の女優が演じている。ある日突然、見知った筈の人が赤の他人に見えてしまう認知症患者の症状を再現する為の演出だが、カメラはオリヴィア・コールマンオリヴィア・ウィリアムズを全く同列に扱っている為、どちらが現実でどちらが妄想か、という判断が観客にもできない。例えば、アンソニーの目線に立った主観ショットでは女優A、その他の客観ショットでは女優B、という風にはっきりと使い分けされていれば、観客も女優Bこそが本当の娘の姿で、それが認知症の父には女優Aに見えるんだな、と容易に納得できる。しかし、『ファーザー』では、主観ショットと客観ショットの別なく、同じ登場人物を異なる俳優が、あるいは異なる登場人物を同じ俳優が演じているので、首尾一貫した物語を求める観客はいよいよ混乱してしまうのだ。
これを小説で例えるなら、物語の「語り手」だけでなく「地の文」すらも信用できない、という事になる訳で、完全な反則である。よく言われる「信用できない語り手」とは、物語内の固有の人格を持った登場人物が担わなければならない。無色透明な「地の文」は「語り手」になる事はできないからだ。従って、本作は「難病もの」の映画のごとく、私たちの考える「正常」を担保に、認知症の「異常」を語ろうとしているのではない。むしろ、その「異常」をストーリラインや語り口に積極的に取り込む事で、認知症患者の見る世界を観客に体感させようとする。
この錯綜し破綻した世界で観客をナビゲートしてくれるのが、アンソニー・ホプキンスによる見事な演技だろう。彼は、不思議の国に迷い込んだアリスの様に、あるいは入り組んだ謎に取り組む名探偵の様に、身の回りで起こる不可解な事象に立ち向かい、混乱に満ちた世界から逃れ出ようとする。もちろん、最初に述べたとおり、本作には「謎」や「真相」などというものは存在せず、全てはアンソニーの精神が反映されたものに過ぎない。その事実に向き合わざるを得なくなった時、彼が見せる痛切な表情は私たちの胸を打つ。本作でのアンソニー・ホプキンスの演技が評価されたのは、何も認知症患者の真似が上手かったから、という訳ではない。彼は1人の人間として、この混乱した世界を生き抜き、闘い、そして敗れ去ったのだ。私たちが目撃したのは、その悲痛な闘いの記録なのである。

 

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