事件前夜

主に映画の感想を書いていきます。

バルディミール・ヨハンソン『LAMB/ラム』

信じがたいほどの怪異は、北欧映画「らしさ」の中に取り込まれていく

本作が監督デビュー作となるヴァルディミール・ヨハンソンは、これまで「ゲーム・オブ・スローンズ」や『ローグ・ワン/スター・ウォーズ・ストーリー』などで特殊効果を担当していたらしいが、なぜかサラエヴォタル・ベーラから映画製作の講義を受けた、という謎の経歴を持つ。その他、ガス・ヴァン・サントアピチャッポン・ウィーラセタクンからも指導を受けたらしいが、エンタメ指向と実験映画精神が混ざり合った、複雑な作家性を持っているのかも知れない。
以前、『ハッチング ー孵化ー』というフィンランドのホラー映画を紹介した際に、あまり北欧映画らしさを感じない、という感想を述べた。じゃあ北欧映画のらしさって何だよ、と問われた際に、はっきりとした答えを出すのは難しいが、例えばアイスランドスウェーデンポーランドの合作である本作『LAMB/ラム』を模範回答として挙げる事ができるだろう。どちらもモンスターが生まれる怪異を扱っているにもかかわらず、両者のアプローチは正反対である。『ハッチング ー孵化ー』でははっきりと恐怖の対象であった異形の存在が、『LAMB/ラム』では子供のいない夫婦の心を慰める存在として描かれるからだ。怪異が恐怖の対象として描かれていない以上、『LAMB/ラム』をホラー映画と呼ぶのは無理があり、むしろ「桃太郎」や「かぐや姫」といった民話に近い。美しい自然の風景とつつましやかな牧羊家の暮らしが静謐なタッチで描く本作には、同じくアイスランドを舞台にした羊飼いたちの映画『ひつじ村の兄弟』に似た印象を抱く。北欧について知識がない故の雑な括り方かもしれないが、『LAMB/ラム』は物語の中心に羊頭人という異形の存在を据えつつも、いかにも北欧映画らしい佇まいを具えている様に思う。
もちろん、怪異を怪異として認識する人間がいない訳ではない。主人公のイングヴァルとマリア夫妻は羊が産み落とした羊頭人をアダと名付け、実の子の様に可愛がっていたが、インクヴァルの兄であるペートゥルだけはアダを見て驚き、恐怖を覚える。当たり前と言えば当たり前の感情だが、しかし、その感情も長続きはしない。共に生活を送る内にペートゥルはアダと打ち解け、やがて実の姪として扱う様になるからである。夫妻と義兄が羊の頭を持った子供を易々と受け入れてしまう、という流れは奇異に映るだろうし、前述した様にそれこそが本作のホラー映画としての機能を失調させているのだが、実際に映画を観るとこの展開がごく自然な事の様に思えてくるから不思議だ。アダという存在は、自然と本作の北欧映画らしさの中に取り込まれていく。イングヴァルやマリアの行動が、『ひつじ村の兄弟』に登場する年老いた羊飼いが羊たちを家族の様に扱っていたのとそれほど変わりがない様に見えてくるのだ。
だからこそ、本作のラストの展開には違和感を覚える方も多いだろう。それはあまりにもB級映画然としたオチに思えるし、映画全体から浮いていて、いささか取って付けた様な印象を受けるかも知れない。しかし、みんな仲良く羊頭人と一緒に暮らしましたとさ、で終わられてもこっちが困る訳で、この様な意外性を用意しないと物語を上手く閉じられない、という事情があったのだろう。また、このラストによって子供に対する親の執着、というテーマがはっきりと示され、実はその点においてだけ『ハッチング ー孵化ー』と共鳴し合うのだった。

 

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ひつじ村の兄弟(字幕版)

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  • シグルヅル・シグルヨンソン
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第68回カンヌ国際映画祭「ある視点」部門で受賞に輝いたアイスランド製のヒューマンドラマ。40年来口をきいていなかった羊飼いの兄弟が、伝染病による羊の殺処分をきっかけに絆を取り戻していく姿を描く。

ブレント・ウィルソン『ブライアン・ウィルソン 約束の旅路』

地上に遣わされた天使についてのドキュメンタリー

私もポップス/ロックファンのはしくれとして、ザ・ビーチ・ボーイズ の『ペット・サウンズ』と、ブライアン・ウィルソンのソロ・アルバム『スマイル』はCDを持っております。とはいえ、それほど熱心なファンという訳ではないので『ペット・サウンズ』と幻のアルバム『スマイル』をめぐるゴタゴタについてはロック史の有名なエピソードとして、何となく知っているレベルである。自信作だった『ペット・サウンズ』の売上不振、創作上のプレッシャーなどによってブライアンは深刻な精神的危機に陥り、音楽活動を継続する事が不可能となってしまう。『ペット・サウンズ』の異様なほど緻密に作り込まれたスタジオ・ワークは、当時のブライアンをめぐる醜聞と相まってパラノイアックな印象を与え、言葉は悪いが「狂気のアルバム」というイメージがひとり歩きした感がある。しかし、多重録音や音響処理を駆使した同アルバムは世界中のポップ・ミュージックに影響を与えた。本作でも少し触れられているが、ブライアンはビートルズの65年のアルバム『ラバー・ソウル』から影響を受けて『ペット・サウンズ』を製作したという。そして、『ペット・サウンズ』に衝撃を受けたビートルズのメンバーが67年に発表したアルバムがあの『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』だとされている。この1965年から67年に掛けての作品を介した両者のやり取りは、ロックファンならずとも興味深いものに違いない。
本作を観るに、ブライアンは未だにメンタル・ヘルス面での不安を抱えて生きているのだろう。それでも音楽を鳴らし続けようとする彼の姿は、まるで地上に遣わされた天使の様に見える。ブライアンは生き馬の目を抜くショー・ビジネスの世界で生きていくにはあまりに純粋過ぎた。幼少期から父親に虐待を受け続けていた少年が獲得した、唯一の救いであり自己表現の手段が音楽だった筈だ。しかし、豊かな才能を持つが故に、それはいつしか金を生む商品に貶められていく。全てをむしり取ろうと群がる人々から己の魂と音楽を守る為に、彼は狂気へと至る道を選んだのである。
良き友人でもある元ローリング・ストーン誌の記者、ジェイソン・ファインによるインタビューは、ブラインに最大限の配慮をはらいながら、私たちロックファンが訊きたい事について、それとなく話を差し向けていく。自らを襲った悲劇について語るブライアンの表情はまだ不安そうで、それでもレコーディング・スタジオやライブホールで歌い、演奏する彼の穏やかな表情を見ると、彼は長い回り道を経てやっと自分の音楽を取り戻したのだ、と実感する。

 

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ザ・ローリング・ストーンズによる「悪魔を憐れむ歌」のレコーディング風景を写したドキュメンタリーパートと、社会運動にまつわるドラマパートを組み合わせたジャン=リュック・ゴダール68年の作品。脱退直前のブライアン・ジョーンズの姿がカメラに収められた作品としても有名。脱退から1か月後、深刻な薬物中毒だったブライアンは自宅で死亡しているのを発見された。

ギヨーム・ブラック『みんなのヴァカンス』

思い出す事も取り戻す事も不可能な体験について

いやあ、素晴らしいね!ギヨーム・ブラックというと、『女っ気なし』がDVD化されたきりで、ソフト化も進まないし、サブスクで配信される事もないし、なかなか観る機会に恵まれなかったが、それが惜しまれるぐらいの出来栄えである。その軽やかで瑞々しい人間描写とか、可笑しさと哀しさの入り混じる繊細な会話とか、それでいて俳優たちは長編映画に出演した経験すらない学生たちであるとか、本当に驚きと発見に満ちた映画なのだが、それでいてモテない男たちがリゾート地へ遊びに出かけてダラダラ会話しているのを撮っただけの様に見えるのがミソだ。要するに、先日感想を書いた作品の様なわざとらしさが無いのである(偶然にもその監督が本作の公式サイトにコメントを寄せているのだが)。
本作の佇まいはどことなくエリック・ロメールの作品を想起させ、ロメールの作品がそうである様に大した出来事が起きなくても無頼に面白い。物語は主人公のフェリックスがアルマという少女に出会い、恋をする事から始まるが、彼らの恋の行方が映画の中心となる訳ではない。フェリックスとその友人シェリフ、マッチングアプリで知り合った青年エドゥアールによる、男3人のヴァカンス旅行はやがて、リゾート地に集う人々との交わりを通じて思いもかけぬほど豊かで掛け替えのない体験へと変わっていく。
映画が終わった時、人々は「そうそう、ヴァカンスってこういうもんだよな」という感想を抱くだろう。気心の知れた家族や友人たちとの何気ない会話、ちょっとした言い争い、他人との不意の出会い、やがて訪れる別れ。肌に触れる水の冷たさ、髪を撫でる風の匂い。それらは、過ぎ去ってしまうと決して取り戻す事のできない「体験」である。ヴァカンスから帰った私たちはやがて日常に戻り、ふとした瞬間にその記憶が探ったりもするのだが、手にするのはいつも「思い出」という不完全な断片に過ぎず、「体験」そのものを取り戻す事は決して不可能なのだ。いつしか消え去ってしまう、日常の空隙としての時間。その時間の痕跡は、私という内面の奥底に、はっきりとは言い表せないささやかな変化として息づいている。
これは、映画館で映画を観る、という行為が、DVDやサブスク配信で作品を観るのと決定的に異なる「体験」を私たちにもたらすのと似ている様に思う。ギヨーム・ブラックの作品がソフト化や動画配信といった視聴方法と縁遠いのも仕方がないのかもしれない。本作を観るという行為は、日常生活にぽっかりと生じた、ヴァカンスの様な時間を潜り抜けるのとどこかしら似ているからだ。

 

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ヌーヴェルバーグのバカンス映画で調べてるみると、エリック・ロメールの『コレクションする女』が出てきたのだが残念ながら未見。代わりに追悼の意味を込めてこの名作を。

 

深田晃司『LOVE LIFE』

増し増しのストーリーとミニマルな演出の齟齬

とにかく色んな事が起こる映画だな、という印象である。もちろん、エンタメ系ではそんな作品はたくさんあるだろうが、いかにもミニシアター映画然としたミニマルな演出が徹底されているのに、次々とドラマチックな出来事が降り掛かり、主人公を含む登場人物たちも驚くべき言動を繰り返すので、全体として非常にいびつな、すわりの悪い印象を受けてしまう。以前に感想を書いた『よこがお』も筋だけを取り上げれば相当変な話だったが、あの作品は筒井真理子演じる主人公がある犯罪事件に巻き込まれ精神的に追い詰められていく、というニューロティク・サスペンスの要素を持っていたので、主人公の言動がいかに突拍子なく思えても、何となく受け入れる事ができた。
しかし、本作の登場人物は―それぞれ様々な問題を抱えつつも―私たちの身近にいそうな市井の人々として描かれているし、俳優陣もずっと白目を剥いたり、よだれを垂らしているのなら、ああコイツは頭がおかしいんだな、と納得もしようが、別にそんな事はないのに言動だけ常軌を逸しているので違和感だけが残る。
例えば、映画の序盤、木村文乃演じる主人公の妙子が義父から「中古にもいいものもあれば悪いものもある」という言葉を投げつけられる。もともと、この義父は初婚である息子が子連れの妙子と結婚する事を快く思っていなかった。たまたま趣味である魚釣りの話から、中古の竿に話が及び、上記の発言に至るのだが、こんな嫌味を言う野郎は性根の腐った、最低の人間だと思うだろう。しかし、田口トモロヲ演じるこの義父は、無神経ではあるが特に変わったところの無い、ごく普通の人物として描かれているのである。
もちろん、一般的に普通、として認識されている人物が、時に暴力的な言葉で人を傷つける事はよくある話だし、本作もその様な普通、の背後に潜む悪意を描こうとはしているのだろう。しかし、それならそれで、この義父が息子の妻を中古呼ばわりするに至った心理的な葛藤や苦悩を描くべきなのに、いきなりポーンとこんな言葉だけが投げ出される。本作は始終こんな感じである。なぜなら、筋立てを盛り込み過ぎて、登場人物の内面を掘り下げていく暇が無いからだ。息子が風呂で溺れ死に、失踪していた元夫が現れ、義母がキリスト教に入信し、夫は元恋人と密会する。最終的に妙子は元夫のパク(ろう者の韓国人)と共に韓国へと旅立つに至るのだが、それだけで1本の映画の主題となりそうなエピソードが123分の映画の中で矢継ぎ早に描かれていく。こうした経験を通じて、登場人物たちがどの様に変化していったのか、それもよく分からない。もしかすると、どんな事が起きても人間はそうそう変わらない、という事が描きたかったのかもしれないが、だったらわざわざ映画なんて観なくていい様な気もする。
本作は矢野顕子の楽曲「LOVE LIFE」にインスピレーションを得て、構想20年の末に映画化されたらしいが、はっきり言ってそれが良くなかったのではないか。長い年月にわたって推敲を重ねてきた結果、様々なアイデアが膨れ上がって全てを盛り込まないと気が済まなくなった…という様な、「大作」と呼ばれる作品群によく見られる語りの性急さを本作にも感じるからだ。それが静かなタッチの演出と齟齬を来し、行間を大事にしているのか説明不足なのかよく分からなくなってしまった。深田晃司はアート系映画とエンタメ映画の間で上手くバランスを取りながら作品を作っていく監督だと思うが、本作はいささか凝りすぎた感がある。

 

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カンヌ国際映画祭パルム・ドールを受賞した、ナンニ・モレッティの代表作。ある家族が息子の事故死をきっかけに変質していく様を静かなタッチで描く。

デビッド・リーチ『ブレット・トレイン』

過激なアクションの裏に隠された作り手たちの照れ

『デッド・プール2』『アトミック・ブロンド』のデビッド・リーチ監督作、もちろん製作にはアクションスタジオ87elevenが加わっているという事で、またもやエクストリームなアクション映画になる事が期待された本作、原作は何と日本のエンタメ小説家、伊坂幸太郎の小説『マリアビートル』である。日本人作家の書いた小説がハリウッドで映画化され、しかもブラッド・ピットが主演を務めるとはこりゃすごい、と我々からすれば狂喜するところだが、配役をめぐってアメリカ本国では議論を呼んだらしい。どうやら、原作では日本人だった登場人物のほとんどを白人に変更した事が、いわゆる「ホワイト・ウォッシング」ではないか、と非難された様だ。
確かに、原作と同じく日本を舞台にしているにもかかわらず、本作の日本人キャストの少なさはいささか不自然さを感じさせる。主要なキャストでいえば真田広之と、日系ハーフのアンドリュー・小路ぐらいしか日系俳優がいない。それならいっその事、物語の舞台をアメリカに移し変えてしまえば良かったのに、なぜ製作陣は日本にこだわったのか。もちろん、本作の最も重要な要素である疾走する新幹線内でのアクションを成立させる為、というのが大きな理由のひとつだろう。しかしそれ以外に、リアリティとイマジネーションが入り混ざった、現実とは微妙に異なる日本を描きたい、という想いが作り手にあったのではないか。というのも、本作の前に87elevenが参加したNetflix製作の映画『ケイト』がまさにその様な作品だったからだ。メアリー・エリザベス・ウィンステッドが主演したこの奇妙なアクション映画は、主人公がバニラカーに乗ったり、コスプレバンドBAND-MAIDのライブシーンが挿入されたりといったリアルなジャパニーズ・カルチャーが描かれる一方、いかにもハリウッド映画らしい勘違い日本描写が併存し、そのごった煮的世界の中で東映ヤクザ映画に『ニキータ』を接ぎ木した様な物語が展開する。
『ブレット・トレイン』は新幹線という閉鎖空間を舞台にしている為、それほど日本の文化風俗が細かく描かれている訳ではない。しかし、毒々しいネオンに彩られた新幹線車内の様子は『ブレードランナー』から『ゴースト・イン・ザ・シェル』まで連綿と続くアジアン・ノワールに対するオマージュが窺える。もちろん、こうした日本描写が既に類型的なものになっているのは否めない。しかし、現実にはあり得ない架空の日本を舞台にすれば、日本刀を振り回すヤクザや忍者が登場しても不自然だ、国辱映画だと非難されるリスクは避けられるだろう(今回は思わぬところから批判を受けた訳だが)。
ハリウッドにとって、日本刀を使用したアクションはいまだ発展途上である。クエンティン・タランティーの『キル・ビル』という金字塔があるにはあるが、あの様なパロディめいた形ではなく、現代のアクション映画に殺陣を自然に導入したい、という想いが87elevenとデビッド・リーチにあったのではないか(もちろん『デッドプール2』もその試みのひとつである)。『ジョン・ウィック』連作において香港映画のノウハウを取り込み、ガンアクションとカンフーを合体させたアクション「ガン・フー」を確立させた製作陣は、今度はガンアクションと殺陣を組み合わせた新たなアクション映画の地平を模索しているのかもしれない。残念ながら、本作がその目論見を十分に果たしたとは言えないが、これはブラッド・ピットの演じる主人公にコメディリリーフ的な役割を課した事が影響している。彼は結局、行き当たりばったりの言動で問題を大きくするだけで、物語の全てを背負って決着を付ける存在ではない。その結果、クライマックスの殺陣アクションは真田広之に託すしかなくなり、そのシーンだけが映画全体から浮いた印象を受ける。この様な外し方はある意味、作り手たちの聡明さから来る「照れ」のせいではないかと思うのだが(『デッドプール2』にもその照れは多分にある)、もちろんその様な「照れ」を無視してジャンル映画を作る事は現在において不可能なのだろう。

高橋ヨシキ『激怒』

製作者の怒りは伝わるが、それを作品化する為の手段が安易に過ぎる

うーん…私はデザイナー、映画評論家としての高橋ヨシキ氏の事は信頼しているし、共同脚本を務めた『冷たい熱帯魚』も非常に良い作品だと思っているが、これはいくら何でもチープ過ぎやしないか。チープ、というのは単に低予算の映画だから、という訳ではなくて(そういう意味では本作は非常に頑張っていると思う)、この映画に込められた批判精神と、その表現の仕方があまりにも安っぽいのだ。
『激怒』製作陣が分断の進む社会情勢を憂い、それに全く有効な手立てを打てないでいる我が国の政治に苛立ちを募らせている事は分かる。2013年に成立した「特定秘密保護法案」や、コロナ禍での「自粛警察」など、安心安全を旗印に人々の行動を監視抑制しようとする権力と、いとも簡単にそれに同調する大衆の姿に嫌悪を覚えたのも当然の事だろう。現代の日本社会に対する危機意識があったからこそ、本作は単なる暴力刑事ものの範疇を超え、管理社会の恐怖を描いたディストピアSFの要素を含む事になったと想像する。
現代を生きる私たちが漠然と感じている不安や恐怖を戯画化し、やがて到来するかもしれない悪夢の様な未来社会を描く作品をディストピアSFと呼ぶなら、確かに本作の劇中でもその様な未来の姿が描かれている。しかし、イマジネーションを具体化する為のディテールが不足しているが故に、極めて皮相的なものにしか映らないのだ。例えば、街中を見守る自警団(町内会が肥大化した様な組織)が警察に勝る権力を持つに至った経緯も全く説明されない。彼らがルールを破った者に加える一方的な暴力が、法的根拠に基づいたものなのか、正義感の暴走なのかそれも判然としない。ここで描かれた社会の姿が、現代の我が国に充満する息苦しさから敷衍された事は分かるが、絵空事であろうとひとつの社会を描き出す為の工夫が全く足りていないのである。
もちろん、本作はあくまで暴力映画として撮られたのであって、上述した設定は単なる舞台背景に過ぎないのだからどうでもいいじゃないか、という意見もあるだろう。しかし、本作は二部構成になっていて、前半では私たちが暮らす日本とほぼ変わらない社会を、後半では権力によって徹底的に管理された社会を舞台にしている。だから、どうしたって前半と後半で描かれた日本社会の落差が目に付くし、幾ら自民党政権下の今の日本が酷いからって、何がどうなったらこんな社会になるんだよ、という疑問が終始付きまとう。その不自然さを、本作はアメリカで強制的に精神治療を受けていた主人公が久々に帰国したら日本がすっかり変わっていました、という浦島太郎みたいな設定で切り抜けようとするのだが、これはいくら何でもご都合主義に過ぎるだろう。『ダーティ・ハリー』と『ゼイリブ』を折衷する、というアイデアは面白いものの、眼高手低と言ってしまえばそれまでだが、こうした安易さを否定したところから、映画は始まるべきではないのか。良くも悪くも、私たちの世界は多様さ、複雑さに満ちている。それに目をつぶり単純化する事で共感を得ようとするのは、製作者が憎悪する権力者たちと同じ過ちを犯す事にしかならないと思う。

 

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フリッツ・ラングの渡米第1作。誘拐犯の疑いを掛けられた男ほえの大衆の怒りがエスカレートし、やがて残虐なリンチ事件を引き起こす。暴走した「正義」の恐ろしさを余すところなく描いたラングの手腕を見よ。

ジョーダン・ピール『NOPE/ノープ』

映画史から抹殺された者たちによる西部劇奪還の試み

ジョーダン・ピールの仕事は映画、ドラマ共に大部分をフォローしているつもりだけど、この『NOPE/ノープ』に至ってはうーむ、端倪すべからざる人になっちゃったなあ、という印象。
本作のテーマは序盤からはっきりと、主人公の妹エメラルドの口から語られる。写真家エドワード・マイブリッジが撮影した疾走する馬の連続写真―エジソンがキネトスコープを発明する以前にまで遡り「馬に乗る黒人」から始まった筈の映画がやがて「馬に乗る白人」に奪われてしまった歴史を明らかにする事。つまり、これは黒人側からの「西部劇」奪還の試みなのだ。主人公たちが空から襲い来るモンスターから逃げようともせず、かと言って戦おうともせず、あくまで「撮影する事」にこだわったのはそのためだろう。
では、白人に主役の座を奪われた黒人たちはどの様な役割で映画に登場するのか。それを端的に示しているのが、劇中で語られる『ゴーディ、家に帰る』のエピソードだろう。このホームコメディに出演するチンパンジーの様に、黒人たちは白人に従順な愛玩動物としてのみ、映画に出る事を許される。人気者だったチンパンジーが突如、白人たちに襲い掛かり多くの血が流されるこのエピソードは2009年に起きた実際の事件を元にしている様だが、ペットに過ぎない筈のチンパンジー=黒人が飼主に牙を剥くなど決して許される事ではない。黒人作家ジェームズ・ボールドウィンは言う。「白人が『自由か死か』と叫べば英雄になれるが、黒人が同じ事を叫べば断罪される」と。自由を求め、仲間と連帯しようと手を伸ばした瞬間に射殺されるチンパンジー、ゴーディの運命は現代に至るまで続く黒人たちの苦闘を象徴している。
以上の通り、アメリカ社会における人種問題をジャンル映画という枠組みの中で描くジョーダン・ピールの試みは、本作においても健在だ。ただ、『ゲット・アウト』の様に白人を悪役として描き、黒人が日々感じている恐怖をホラー映画のそれとリンクさせている訳ではない。その様な単純な方法論を、ジョーダン・ピール『アス』において既に乗り越えている。黒人として初めてアカデミー主演男優賞に輝いたシドニー・ポワチエが監督した西部劇『ブラック・ライダー』にオマージュを捧げながら、結局は有色インディアンを敵役にせざるを得なかったポワチエの限界を、ハリウッド製西部劇の限界として位置づけ、インディアンも銃すらも登場しない新たな西部劇像を提示する事。それこそが黒人たちによる西部劇奪還の試みであり、ハリウッド史に対する痛烈な批判なのだ。
ホイテ・ヴァン・ホイテマの手によるダイナミックな撮影もまた、西部劇としての本作の妥当性を担保している。やがて、主人公が神々しい光に包まれるラストシーンにおいて、私たちは「馬に乗る黒人」から始まったアメリカ映画史を再発見する事になるだろう。

 

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様々な先行作にオマージュを捧げた本作だが、UFOの到来を現代における神話として描こうとした点において、M・ナイト・シャマランの傑作『サイン』を想起させる。