事件前夜

主に映画の感想を書いていきます。

高橋ヨシキ『激怒』

製作者の怒りは伝わるが、それを作品化する為の手段が安易に過ぎる

うーん…私はデザイナー、映画評論家としての高橋ヨシキ氏の事は信頼しているし、共同脚本を務めた『冷たい熱帯魚』も非常に良い作品だと思っているが、これはいくら何でもチープ過ぎやしないか。チープ、というのは単に低予算の映画だから、という訳ではなくて(そういう意味では本作は非常に頑張っていると思う)、この映画に込められた批判精神と、その表現の仕方があまりにも安っぽいのだ。
『激怒』製作陣が分断の進む社会情勢を憂い、それに全く有効な手立てを打てないでいる我が国の政治に苛立ちを募らせている事は分かる。2013年に成立した「特定秘密保護法案」や、コロナ禍での「自粛警察」など、安心安全を旗印に人々の行動を監視抑制しようとする権力と、いとも簡単にそれに同調する大衆の姿に嫌悪を覚えたのも当然の事だろう。現代の日本社会に対する危機意識があったからこそ、本作は単なる暴力刑事ものの範疇を超え、管理社会の恐怖を描いたディストピアSFの要素を含む事になったと想像する。
現代を生きる私たちが漠然と感じている不安や恐怖を戯画化し、やがて到来するかもしれない悪夢の様な未来社会を描く作品をディストピアSFと呼ぶなら、確かに本作の劇中でもその様な未来の姿が描かれている。しかし、イマジネーションを具体化する為のディテールが不足しているが故に、極めて皮相的なものにしか映らないのだ。例えば、街中を見守る自警団(町内会が肥大化した様な組織)が警察に勝る権力を持つに至った経緯も全く説明されない。彼らがルールを破った者に加える一方的な暴力が、法的根拠に基づいたものなのか、正義感の暴走なのかそれも判然としない。ここで描かれた社会の姿が、現代の我が国に充満する息苦しさから敷衍された事は分かるが、絵空事であろうとひとつの社会を描き出す為の工夫が全く足りていないのである。
もちろん、本作はあくまで暴力映画として撮られたのであって、上述した設定は単なる舞台背景に過ぎないのだからどうでもいいじゃないか、という意見もあるだろう。しかし、本作は二部構成になっていて、前半では私たちが暮らす日本とほぼ変わらない社会を、後半では権力によって徹底的に管理された社会を舞台にしている。だから、どうしたって前半と後半で描かれた日本社会の落差が目に付くし、幾ら自民党政権下の今の日本が酷いからって、何がどうなったらこんな社会になるんだよ、という疑問が終始付きまとう。その不自然さを、本作はアメリカで強制的に精神治療を受けていた主人公が久々に帰国したら日本がすっかり変わっていました、という浦島太郎みたいな設定で切り抜けようとするのだが、これはいくら何でもご都合主義に過ぎるだろう。『ダーティ・ハリー』と『ゼイリブ』を折衷する、というアイデアは面白いものの、眼高手低と言ってしまえばそれまでだが、こうした安易さを否定したところから、映画は始まるべきではないのか。良くも悪くも、私たちの世界は多様さ、複雑さに満ちている。それに目をつぶり単純化する事で共感を得ようとするのは、製作者が憎悪する権力者たちと同じ過ちを犯す事にしかならないと思う。

 

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