事件前夜

主に映画の感想を書いていきます。

首藤凜『ひらいて』

強引に扉をこじ開けて入り込んでくる誰かを、私たちは時に必要としている

綿矢りさの小説はデビュー作の『インストール』ぐらいしか読んでおらず、その映画版はいかにもTVマンが演出したといった感じのノリが鼻について楽しめなかったのだが、大九明子が監督した『勝手にふるえてろ』『わたしをくいとめて』は大変面白かった。『ひらいて』は綿矢りさの小説としては4回目の映画化となるが、いずれの作品も肥大した自意識に飲み込まれそうになっている女性が、傍からは異常としか思えない行為にのめり込んでいき、その過程で他者あるいは社会と折り合いを付ける術を学んでいく物語と要約できる。となれば、小説でも映画でも主人公の「いびつさ」が物語のフックになる訳で、それをいかに読者や観客に共感してもらえる様に表現するかが作家の腕の見せどころと言えるだろう。綿矢りさが多くの読者を獲得したのも、その点に長けていたからだろうし、映画版『わたしをくいとめて』のキャッチコピーが「わかりみが深すぎる!」だった事からも分かるとおり、大九明子もまた主人公の「いびつさ」に観客が共感して貰える様に様々な工夫を凝らしていた。
綿矢りさによる原作は一人称小説である。一人称の場合、「語り手=私」となるので、地の文で容易に主人公の内面に分け入る事ができる。主人公がどれだけエキセントリックに振る舞おうと、それがいかなる理由によるのかをロジカル(あくまで主人公なりに筋が通っている、というだけだが)に説明できる訳だ。それに対し、映画は小説で言うところの三人称となる。POV方式の映画ならともなく、カメラが写す映像はあくまで客観描写であり、であるが故に主人公の内面に深く立ち入る事は難しい。なぜなら、心情や感情というものは眼に見えないからだ。映像は、不可視の対象に対してあくまで無力である。だからこそ、多くの映画監督たちは演者の表情や仕草など、細やかな描写を積み重ねる事によって、不可視である筈の心理を観客に伝えてきたのであり、それこそが映画における演出というものなのだが、よくつまらない邦画で、登場人物が思っている事を何でもかんでも言葉にして喋る、みたいなのがあるでしょう。演出の下手な監督に限って、全てを台詞で説明したがり、そのせいで映画から躍動感が失われてしまうのだ。
だから、過剰な自分語りを止めようとしない『勝手にふるえてろ』の良香や『わたしをくいとめて』のみつ子は、映画にとってすこぶる都合のいい存在だった。愛情も憎悪も希望も絶望も怒りも哀しみも全部ひっくるめて台詞として表現する彼女たちは、その自己分析が徹底しているが故に逆に異常な印象を残す。過剰な語りが対話(ダイアローグ)ではなく独白(モノローグ)として発せられる点も、彼女たちの「いびつさ」を浮き上がらせるだろう。こんな風に何もかも言葉で説明してしまうと、普通なら書き割りじみた平板なキャラクターになってしまうのを、大九明子は主人公の「いびつさ」を表現する手段として逆利用し、キャラクターにはっきりとした輪郭を与えている。男子だろうが女子だろうが、この手のこじらせ系は何か行動を起こす前にあれこれと理屈をこねて頭の中でシミュレーションを繰り返し、いざ本番で予期せぬ事態が起こるとパニックに陥る、というのが常だから、彼女たちの自分語りが饒舌になればなるほど、現実との落差が浮き立ち、コメディとしての面白さが増していく仕掛けになっていた。
ところが、『ひらいて』の主人公、木村愛は良香やみつ子の様な自己をめぐる饒舌さとは無縁である。彼女を印象付けるのは他人が自分の内面を覗く事を頑として拒否する様な不愛想さと寡黙さだからだ。愛はクラスメイトの西村たとえに恋心を抱きながら、自分の気持ちを伝えられずにいる。その意味では、良香やみつ子と同じ境遇に立っているとも言えるが、彼女は脳内で妄想を膨らませたり、シミュレーションを繰り返したりする代わりに、不可解なほどに突発的な衝動に身を委ねてしまう。
西村たとえは新藤美雪という同級生と交際を続けており、たとえの大学進学に合わせて二人で上京しよう、と将来を約束していた。周囲には隠したまま交際を続ける二人にとって、校内で取れる唯一のコミュニケーションは美雪がたとえの机の中に忍ばせる手紙だけが、愛がたまたまその手紙を見つけてしまった時から、事態は急転していく。たとえに自らの好意を告白する傍ら、美雪と同性愛的な関係を結ぶ愛の行動に、私たちは戸惑うしかない。確かに、その一貫性の無い行動こそが、綿矢作品ではおなじみの「いびつさ」の証ではあるだろう。しかし、『インストール』や『勝手にふるえてろ』『わたしをくいとめて』といった作品とは異なり、本作はその「いびつさ」がいかなるロジックによるものなのか劇中では説明されないので、最後まで主人公に全く共感できない人もいるかもしれない。監督の首藤凜が「愛って特殊な時期の狭い層にしか響かないキャラクターなのかもしれない」とインタビューで答えているのも、それを指しているのだろう。
人によって本作の受け取り方は様々だと思うが、私はこの木村愛という少女を衝き動かしているのは、「自分が他人にとって何の意味もない事」への怒りなのではないか、と思う。本作は、西村たとえと新藤美雪の純愛物語としても捉える事ができ、その観点からすると愛は全くの脇役、というかその他大勢のクラスメイトにしか過ぎない。はっきり言ってしまえば、たとえと美雪の物語にとって、木村愛という存在は本来不要だった筈である。しかし、愛はその支離滅裂としか思えない行為によって、たとえと美雪の間に分け入り、強引に居場所を確保しようとする。愛がたとえに対し「好きになってくれないなら嫌われた方がいい」と訴えるのも、恋人たちの物語に自分の存在を刻みつけようとする欲望の表れだ。かくして、静かに愛を育んでいた、たとえと美雪の関係性は木村愛という存在によって決定的に変質してしまう。
結果的に、たとえと美雪の物語の中で愛がどの様な役割を果たしたのかは様々な解釈が可能だろう。二人の仲を引き裂こうとした敵役と考える事もできるし、この奇妙な三角関係に友情を見出す事も可能である。いずれにせよ、たとえと美雪の紡ぐ物語において愛は重要な位置を占める事となった。『インストール』『勝手にふるえてろ』『わたしをくいとめて』を、主人公が他者を受け入れていく物語だったと解釈するなら、『ひらいて』は閉じた関係性を強引に押し開く他者の暴力性を、一人の少女の姿を通して描いたのだとも言える。それはいかにもはた迷惑な話ではあるが、一概に悪い事だとは言い切れない。強引に扉をこじ開けて家に入り込んでくる他者を、私たちの人生は時に必要とするからだ。

 

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綿矢りさ作品、女子高生が主人公という意味では本作が最も近いと思うのだが、登校拒否中の女子高生が小学生とエロチャットのバイトを始める、という原作のプロットを額面通りに受け取っている為か、ものすごく下品な演出になっている。男性監督に綿矢作品は難しいのかもしれない。