事件前夜

主に映画の感想を書いていきます。

今泉力哉『あの頃。』

ただ消費するだけの存在として生き、そして死んでいく

私はこれまでアイドルにハマった、という経験が一度もない。そんな人間でも毎週欠かさず「ASAYAN」を見ていたぐらい、当時のモー娘。は飛ぶ鳥を落とす勢いだった。つんくによるツボを押さえた楽曲もさる事ながら、加入と脱退を繰り返すメンバー編成によって、常に新鮮さを保ち続けた事が成功の原因なのだろう。しかし、私はその目まぐるしい変化についていけず、第4期を最後に完全に興味を失った。だから、『あの頃。』で描かれている第6期以降については全くの無知と言っていい。第5期以降のメンバー、高橋愛とか道重さゆみは名前を知っているだけで顔が浮かばないし(正直に言うと、道重さゆみ重盛さと美とごっちゃになっていたのだが…)、その他のメンバーは名前すら知らないのだ。それでも、2000年代初頭のハロオタ達の青春を描いたこの映画は非常に面白かった(と共に、こんな最近の事ですらノスタルジーの対象となってしまう事に愕然とする…そりゃ、歳もとる訳だ)。
本作は劔樹人によるコミックエッセイ『あの頃。男子かしまし物語』の映画化作品である。大学院受験に失敗し、音楽で食っていくという夢も果たせず、悶々とした毎日を送っていた主人公の劔は、友人から借りたDVDで松浦亜弥の『桃色片想い』のPVを見て涙を流すほどの感動を覚える。それ以来、ハロプロアイドルにのめり込んでいった彼はある日、「ハロプロあべの支部」というファングループのイベントに参加し、強烈な個性を持ったハロオタ達と邂逅するのだった…
アイドルオタの世界に興味があったので原作も買って読んでみたのだが、驚いたのは映画版が原作にほぼ忠実な作りとなっていた事である。『あの頃。男子かしまし物語』は杉作J太郎命名した「マンコラム(マンガと活字コラムが合体した表現形式)であって、時系列に沿った物語というより、執筆時点の著者が記憶している面白いエピソードを徒然なるままに語っていくエッセイ的な性格が強い。それを一篇の青春映画として再構成するにはそれなりの脚色が必要となりそうなものだが、本作はそうした改変を最小限にとどめ、各挿話をできるだけ忠実に再現しながら、その配置や構成上の工夫によって、青春映画として首尾一貫したドラマを作り上げているのだ。このあたり、末井昭の自伝を映画化した『素敵なダイナマイトスキャンダル』の冨永昌敬による脚本の力が大きいのだろう。しかし、この見事な手際と言ってもいい脚本が、別の問題を生んでいる様にも思えた。
主人公の劔が所属するハロプロファングループ「ハロプロあべの支部」、及び彼らの主催するイベント「恋愛研究会。」の本作での描かれ方に、少なからず違和感を覚えた方も多いと思う。全体に漂うホモソーシャルな空気は当時のアイドルオタを取り巻く環境から仕方がないにしても、「だいたいのことは笑ってしまえばいい」という仲間内で共有されている「ノリ」が、他者を深く傷つけるという可能性に彼らは最後まで無自覚なのだ。それが最もグロテスクな形で表れたのが、仲野太賀演じるコズミンをめぐる公開裁判のシーンだろう。「恋愛研究会。」のメンバー、アール君の彼女である奈緒ちゃんを口説き落とそうとしたコズミンの所業を公開イベントの場で暴き立て糾弾するこの場面は、最終的にコズミンとアール君の和解、という形で決着するものの、奈緒ちゃんという1人の女性の尊厳や人格は完全に無視されている。極めてプライベートで繊細な話を本人の許可も得ずに公の場で笑いものにする主人公たちの態度は、彼らが寝取ったとか寝取られたとか、その様な対象としか女性を見ていない、という事実を示している。ならば、彼らが崇拝する松浦亜弥モーニング娘。もまた、結局は消費の対象に過ぎないのではないか。彼らのアイドルに対する純粋な想いが物語の肝である筈なのに、身近にいる女性に対するこの無神経な扱いが、本作の青春映画としての輝きを曇らせてしまっている様に思う。
この公開裁判の話は確かに原作にも存在するのだが、映画版に比べるとなぜか読んでいてそこまで不快な気持ちにはならない。これはひとえに、原作がエッセイという形式を採用している事と無関係ではないだろう。このエピソードはあまりにもくだらない思い出話のひとつとして紹介されるだけで、物語上そこまでの深い意味がある訳ではない。映画版では割愛されているが、奈緒ちゃんはこの後アール君に愛想を尽かし、三下り半を叩きつける(もちろん、コズミンに乗り換えた訳でもない)。思い余ったアール君は奈緒ちゃんの家に押し入り、別れるぐらいなら殺してくれと騒ぎ立て、そのクズっぷりを存分に発揮するのだが、要するに、原作では作者の劔樹人も含めた当時のハロオタ界隈のダメさ加減を自虐的に描く、という客観的な視点が存在しているのである。Berryz工房の握手会を前に興奮を抑えられず拳で自分の顔面を殴り続ける男や、ハロプロアイドルのイベントやライブに必ず現れる、近鉄バッファローズのユニフォームを着た双子の中年(落合博満似)など、原作ではこうしたアイドルオタの暗部というか、どう考えてもヤベえ奴が面白おかしく紹介されているのだが、つまり、当時のアイドル業界にはこうしたアンダーグラウンドな側面が存在したのである。AKB48の出現によって、その様な地下世界にもスポットライトが当てられ、アイドルオタはアイドルファンとして市民権を得た(もちろん、ヤベえ奴はどの時代にもいるものだが)。だから、ひと口にアイドルオタと言っても、『あの頃。男子かしまし物語』で描かれた時代と現在の間には大きな断絶が存在する。
しかしながら、映画『あの頃。』には原作の自虐的な視点が抜け落ちている。なぜなら、この映画化にあたって「生きがいを失った若者がアイドルの存在によって救われ、様々な仲間との交流を通じて人間的な成長を遂げていく」という、作品全体を貫く物語が用意され、全てのエピソードがそれを引き立たせる為に配置されていくからだ。「あの頃があったからこそ、今の自分がいる」というのは原作でも映画版でも共有されているテーマだが、エッセイの形式を採る原作と比べて映画版はかなりあざとくなったというか、登場する友人もアイドルも、結局は主人公が成長する為の養分に使われるので、いくら何でも都合が良すぎるんじゃないか、と感じてしまう。特に、上述のエピソードは奈緒ちゃんがこの後いっさい登場しなくなる、という面も含めて、男たちの物語に都合よく利用されている、という感が否めない。これは劇映画として物語性を強調したが故に生じた問題と思う。
さて、原作者の劔樹人は「神聖かまってちゃん」の初代マネージャーを務めた後、アイドルにまつわるエッセイを執筆する傍ら、現在はダブバンド「あらかじめ決められた恋人たちへ」のベーシストとしても活動している。つまり、「消費する」存在から「消費される」存在へと「成長」した訳だ。オタクというのは、自分が他者の作ったコンテンツを「消費する」だけで、決して「消費される」側に立つ事はできない、という残酷な現実に常に曝されている。その残酷さに耐えきれず、消費の対象(アイドル、ゲーム、アニメ何でもいい)について言葉を費やせば費やすほど結果的にその対象から遠く離れていく。「ハロプロあべの支部」の面々が定期的にイベントを開催していたのは、自分たちも「消費される」存在になりたい、という欲望の表れだろう。コズミンが私たちに強い印象を残すのも、ガン細胞に侵されていく病床の彼の姿が、ただ「消費する」だけの存在として生き、そして死んでいく、言わばオタクの求道者の様に映るからではないだろうか。

 

あわせて観るならこの作品

 

素敵なダイナマイトスキャンダル [Blu-ray]
 

本作で脚本を担当した冨永昌敬が伝説のエロ雑誌『写真時代』の編集長、末井昭の自叙伝を映画化した一作。題材が題材だけにホモソーシャルな空気は『あの頃。』以上だが、富永は壮絶な自殺を遂げた末井の母にスポットを当て、その不可解さを不可解さとして描く事で毒気を中和している。決して、何か結論めいた事を口走ったりはしていないのだ。