事件前夜

主に映画の感想を書いていきます。

大九明子『私をくいとめて』

結局のところ私たちは、生身の他者をどうしても求めてしまう

私には親しい友人というのが一人もいない。一応、結婚して子供もいるのだが、家族以外の誰かと接する機会がほとんど無いので、休日も家でゲームをしたり本を読んだり、たまに出掛ける事があってもおひとりさまの場合がほとんどである。映画館で映画を観る様になったのも、映画館は一人でも孤独を感じない数少ない娯楽施設だからだ。友達と来ようが恋人と来ようが、私の様にぼっちであろうが、館内が暗くなりスクリーンに映画が映し出された瞬間、誰もが一人になる。何となく、いま一人ぼっちなのは俺だけじゃないんだ、という気持ちになって安心できる。本作の主人公、黒田みつ子はおひとりさまライフを満喫する女性として描かれ、劇中でも一人で食品サンプル制作のワークショップに参加したり、一人で焼肉を食べに行ったり、更には一人で日帰り温泉旅行に出掛けたりするのだが、残念ながら映画を観に行くシーンは無かった。まあ、彼女ぐらいの猛者になるとそんなものはとっくにクリアしているのだろうが。
綿矢りさ原作×大九明子監督といえば、『勝手にふるえてろ』が直ちに思い出される。全国でリピーターが続出したあの傑作を生みだしたコンビの新作、しかも今回はのんを主演に迎えるというのだから、否が応でも期待が高まるというものだ。実際、私が訪れた映画館もコロナ禍にしては珍しく席が埋まっており…ただ、友人や恋人同士で観に来た人ばかりで、その中に私の様なおっさんがぽつんと座っているのはなかなか居心地が悪く、映画が始まるまでの時間はやはり孤独感に打ちのめされた。この映画こそ、おひとりさまで観て欲しいものだが…
それはともかく、『勝手にふるえてろ』に心から感動した人間からすれば、本作をその間接的な続編として捉え、あれこれ比較してみたくなるのが人情というものだ。実際、両作の主人公、ヨシカとみつ子の境遇やパーソナリティは何となく似通っているし、アパートの隣人が夜な夜なオカリナを吹いて主人公ヨシカを悩ませたのに対し、みつ子の住むマンションにはホーミー(モンゴルに伝わる喉歌)の練習をする住人が住んでいる。その他にも共通点は多く、多くの観客の求めるものを十分に意識した作りになっている訳だが、本作で加わった大きな要素のひとつに「A」というイマジナリーフレンドの存在がある。日々の暮らしの中でみつ子の悩みに答え、助言を与えてくれる彼は、劇中ではでみつ子にだけ聞こえる「声」として登場(中村倫也が声を当てている)し、スクリーン上に姿を現す訳ではない。だから、観客が眼にするのはキートン山田のナレーションとまる子が会話をする『ちびまる子ちゃん』といった風の奇妙な光景なのである。物語上の登場人物からすれば「A」と会話をするみつ子は大声ではっきりとひとり言を言うアブナイ女に見えるだろうし(もしかするとこの会話も脳内でされているだけなのかもしれないが)、観客からすれば姿の見えないナレーションと対話をしている様に見える訳だ。つまり、みつ子にとってはモノローグとダイアローグの境界が非常に曖昧なのである。
実は、この様な仕掛けは『勝手にふるえてろ』にも存在した。映画の序盤、ヨシカは通いの整骨院の先生や釣り人、コンビニ店員などと気軽に話し、恋の相談などを持ち掛けたりもしていたのだが、中盤でその会話はヨシカの単なる妄想であった事が明かされる。ダイアローグの様に見えた会話場面が、実はモノローグに過ぎなかった、という驚き。彼女は観客が想像した様な、ちょっと変わった街の人気者でも何でもなく、やはり私たちと同じく、孤独に押し潰されそうになっている人間に過ぎなかったのだ。
それに対して『私をくいとめて』では、「A」はみつ子が生み出したイマジナリーフレンドでしかない、という事は最初から観客に明かされているし、みつ子もそれは十分に認識しているふしがある。ヨシカの妄想が現実に対する否認、あるいは願望の顕れであったのに対し、みつ子にとっての「A」は自己批評が形となって表れたものなのである。「A」はみつ子に対し、彼女の他人に対する拒絶的な態度や後ろ向きな考え方を度々たしなめる。しかし、それは結局みつ子が見出した自分の短所の筈だし、みつ子の悩みに対する「A」の回答(「A」は「Answer」の「A」である)も、彼女が彼女自身の為に用意したものに過ぎないだろう。自分が一番望んでいる回答を自分で考えて自分に与えているのだから、それが適切なのは当たり前だ。この様に、みつ子はヨシカと比べて極めて自己完結的であるが故に孤独に悩まされる事がない。彼女はヨシカの様に親しく話しかけられる他人をねつ造せずとも、自分の生み出した架空の友人と会話をする事で充足感を得る事ができる。彼女がおひとりさまで様々なレジャーを楽しめるのも、こうした他者を必要としないエコシステムを確立してしまっているからだろう。
ところが、である。人間というのは非常に難儀なもので、私も時々悩まされるのだが、結局のところ私たちは、実体を伴う生身の他者をどうしても求めてしまうのだ。100点満点の回答を与えてくれる空想の友人よりも、気の利かない、何を考えているのか分からない他者と一瞬でも触れ合いたい、という欲望が私たちを衝き動かし、時には心を苦しめる。みつ子は以前、親友が海外へ旅立っていった寂しさのあまり、行きつけだった歯科医をデートに誘い、極めて不愉快な目に遭わされた、という経験を持つ。現在のみつ子はこれを「A」が自分の身体を乗っ取って行った暴走だと考え、その自責から「A」はしばらく姿を消した、と回想するのだが、もちろん歯科医にアプローチしたのはみつ子自身の意志であり、「A」が姿を消したのも、生身の他者と触れ合いたいという欲求を前に想像上の友人が価値を失ったからに他ならない。誰かと繋がりたい、だけど他人は不愉快だし疲れる。
本作が徹底して追及しているのは、他者に対するアンビバレンツな感情とどの様に折り合いを付ければいいのか、という困難な問題である。だから、『私をくいとめて』は小野寺系の言う様な「女性たちの生きる姿を通すことで姿を表す、社会の実相」を描いた映画ではない。もちろん、そうしたフェミニズム的観点から読み解く事も可能ではあろう。確かに、みつ子は劇中で男性社会のホモソーシャルな価値観に何度も晒され、その度に哀しみ、憤る。『勝手にふるえてろ』のヨシカがそうであった様に、みつ子の部屋もまたそうした不愉快な軋轢や男たちからのセクシュアルな視線から身を守るシェルターの役割を果たしてもいる。しかし、だからといって「社会の側がまず歪みを矯正する(小野寺系)」のを待って、自分の部屋に閉じこもっていればいい、と彼女たちは考えている訳ではない。それは外部から身を守るシェルターであると共に、無数の可能性への道を閉ざす繭でもあるからだ。その繭をいかにして破るか、そして外へと羽ばたいた後に襲い来る苦しみからいかにして身を守るか。それは、性別を超えた実践的な問題として私たちの前にある筈だ。

 

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勝手にふるえてろ

勝手にふるえてろ

  • 発売日: 2018/05/06
  • メディア: Prime Video
 

綿矢りさ×大九明子の第一弾であり、全国でリピーターが続出した驚異的傑作であり、松岡茉優の魅力が爆発した最高の映画であり、2018年の個人的ベストである。