事件前夜

主に映画の感想を書いていきます。

クォン・オスン『殺人鬼から逃げる夜』

殺人鬼に追われる主人公の孤独は、聴覚障害者に対する社会的無関心と繋がっている

日本でも吉岡里帆主演でリメイクされた韓国映画『ブラインド』は交通事故で視力を失った主人公がサイコキラーに狙われるスリラーだったが、本作の主人公ギョンミは聴覚と発話に先天的な障害があり、同じ様にサイコキラーに追われる事になる。そこで思うのが、もし殺人鬼に襲われたら眼が見えないのと耳が聞こえないのと、どっちの方が大変なんだろう、という事だ。馬鹿みたいな事を訊くな、と怒られそうだが、要するに視覚障害者と聴覚障害者の抱える困難こそが、映画としてはむしろサスペンス性を高める利点となる。そこがきっちり描かれていないと単なる企画倒れに終わってしまうだろう。
『ブラインド』の主人公スアは眼が見えないという絶対的なハンディを負っている。例えば、殺人鬼がすぐ隣に立っていても彼女は気づかないのだ。その代わり、彼女は音やにおい、振動に対しては非常に敏感で、視覚以外の全ての感覚を研ぎ澄ませて襲い来る殺人鬼と対峙する。映画ではスアの感じる世界を映像として表現する為、画面が暗転し音だけが聞こえる、といったショットがしばしば挿入され、スアがにおいや振動によって人や物の存在を検知した時は、暗闇の中にぼやっとした白いシルエットが浮かび上がる、という処理がなされていた。映画とは本来「見る」ものなので、「見えない」事を表現するのは難しい。それを逆説的に視覚化している訳だ。その他にも、点字ブロックの上を介助犬に引かれて逃げるチェイスシーンなど、主人公の特性を活かした工夫もふんだんに盛り込まれており、なかなかに秀逸な作品だった。
それでは、本作はどうだろう。映画において「聞こえない」事を表現するのは簡単でその場面だけ無音にしてしまえばいい。サイレント映画を例に挙げるまでもなく、基本的に映画とは無音でも成立してしまうものなのである。逆に言えば、「聞こえない」という主人公の困難を、映画というメディアは引き受ける事ができない。本作が聴覚障害者の抱える困難をスリラーの演出に活かそうとあの手この手を使いつつ、結局は主人公ギョンミと殺人鬼ドシクの単なる追いかけっこに帰着してしまったのはそのせいだろう。例えば、ギョンミの家にドシクが忍び込む場面など、真後ろに殺人鬼が立っているのにギョンミがその存在に気づかない、という描写は聴覚障害という設定を活かしている様に見えて、実は『ブラインド』と何も変わらない。鉄扉の錠を外そうと苦闘するギョンミが、その行為によってどれだけ大きな音を立てているかが分からず、逆に自分の居所をドシクに教えてしまう、という序盤のシーンなどは、聴覚障害という主人公の特性を上手く活かしていたのに、こうした場面がほとんど無かったのは残念である。
従って、本作のサスペンスはギョンミが「聞こえない」事よりも「喋れない」事に多くを負っている。彼女は普段、手話という方法を用いて意思伝達を行う。コミュニケーションを成立させる為には送り手と受け手、両方にある程度のスキルが求められるのはいかなる言語も同じだが、危機的な状況下で都合よく手話の理解できる人物が現れる筈もない。狡知に長けたドシクの策略にはまり、ギョンミは身の危険を周囲に伝える事もかなわず、怯えながら夜の町をただ逃げ回るしかないのだ。ギョンミが陥ったこの絶望的な状況が、聴覚障害者に対する社会の無理解から生まれている事は明らかである。本作の欠点として、警察のあまりの無能ぶりがご都合主義的過ぎる、という点を挙げる人は多いだろう。私も概ね同意するが、そこには私たちの社会でいつの間にか疎外されていた人々の絶望を描きたい、という作り手の意図があった筈だ。
監督のクォン・オスンは本作の企画が生まれたきっかけについて、大声で話す人々に囲まれて静かに手話で会話する2人の聴覚障害者をカフェで見かけ、その姿に言いようのない孤独を感じたからだ、と語っている。このカフェの障害者の姿がそのまま反映されたのが、映画冒頭の飲み会の場面である事は間違いないだろう。デリカシーのかけらも無い下品なおっさんに心ない言葉を浴びせられても、ギョンミはただ笑っている事しかできない。彼らが何を言っているかギョンミには分からず、相手も何を言っても分からないと高をくくっている。その不毛なやりとりの中でも、聞こえない言葉に込められた悪意だけははっきりとギョンミに伝わり、それが彼女をより孤独な立場へと追い詰めていく。
だからこそ、ギョンミはせめてもの抵抗として、愛想笑いを浮かべながら、おっさんどもに手話で罵詈雑言を浴びせかけるのだ。その怒りはやがて、女たちを欲望のままに殺めていくドシクへと向けられる。暴力に蹂躙された弱き者たちの静かな怒りを込めて、ギョンミの手は辛辣なメッセージを描いていく。

 

あわせて観るならこの作品

 

斬新な設定と堅実な演出で大ヒットとなり、中国と日本でリメイクされたシチュエーション・スリラーの佳作。「見えない」事を「見える」化する様々な工夫が凝らされている。