事件前夜

主に映画の感想を書いていきます。

カーロ・ミラベラ=デイヴィス『Swallow/スワロウ』

「家」に取り込まれ、やがて「異物」として排泄される「妻」の復讐劇

本作のモチーフとなっている異食症は、爪とか髪の毛とか石とか、とにかく栄養価の無いものを無性に食べたくなる症候で実際に存在するそうだ。そういえば私も一時、爪を噛む癖が治らなかったが、あれも異食症の初期段階だったのだろうか。私に限らず、子供の頃は髪の毛や鼻くそを食べる子供がクラスに必ずいたものだし、氷をガリガリかじる人は大人になっても存在するから、私たちが思っている以上に異食症はポピュラーな症候なのかもしれない。まあ、爪や氷ぐらいなら心配する事もないが、この映画の主人公ハンターの様に釘とか電池まで飲み込む様になると厄介だ。異食症は過度のストレスや精神障害が原因とされ、小児や妊娠中の女性に多いとされる。実際、ハンターが異物を飲み込み始めるのも妊娠が発覚してからなのだが、こうした妊婦が異食症に罹るのは精神的な側面だけでなく、鉄分や亜鉛の欠乏からくる栄養障害が原因とも言われているらしい。映画でもハンターが花壇の土をむさぼり食う場面があるのだが、土というのはミネラルや鉄分などの栄養素が豊富なので不足している栄養を摂取したい、という深層心理が働いているのかもしれない。
ところで、異物であろうが食物であろうが、何かを摂取すれば、必ずそれを排泄する時が訪れる訳で、本作の主人公も摂取と排泄を何度も繰り返す事になる。摂取、つまり異物を嚥下する場面では、ビー玉や押しピンを飲み込むヘイリー・ベネットのエロティックな表情が私たちを魅了してくれるのだが、排泄の場面となると脱糞とか嘔吐とか、どうやっても汚い絵面になるのは避けられない。スタイリッシュな映像を指向する本作において、排泄の場面をどう処理するか興味があったのだが、ヘイリー・ベネットが異物を取り出す為にゴム手袋をはめて便器に手を突っ込んだりなど意外に所帯じみた描写がされていて面白かった。願わくば、変に隠したりせずにもっとウンコとかゲロを真正面から映しても良かったのではないか。実際の話、どんな病気でも大変なのはそうした下世話な側面だったりするのだから。まあ、別にこの映画は異食症患者の実態をリアリスティックに描くのが目的ではなく、むしろある種のメタファーとして用いているので仕方がないのだろう。それでは、本作における異食症は何を象徴しているのだろうか。
ハンターは大企業の御曹司であるリッチー・コンラッドと結婚し、安定した将来を約束されている。しかし、厳格な家父長制の敷かれたコンラッド家の中で、彼女は自分を押し殺し理想的な妻や母の役割を演じ続けねばならない。コンラッド家の価値観にそぐわないと見做された途端、妻は外部から入り込んだ「異物」として排泄されてしまうからだ。また、異食症治療の一環として行われるカウンセラーとの面談において、ハンターは自分が性暴力によって生まれた子供である事を告白する。彼女は望まれない子供として、つまり「異物」として生み落とされたのだと認識しており、それが異食症の発症と関係があるのではないかと自己分析する。
つまり、ハンターは自分自身を排泄されるべき異物と考えているのだ。彼女が嚥下するビー玉と同じく、それは体内で選別され最終的に何の価値もない排泄物として捨てられていく。ハンターの異食症は自分を無用な異物として扱う単一的な価値観への抗いであり、あるいは自己のアイデンティティを獲得しようとする試みでもあるだろう。これまで無価値とされてきた存在を積極的に取り込み、多様な価値観を有したシステムを作り上げる事。それが私たちの目の前に突きつけられた課題である事は改めて述べるまでもない。

最終的に、ハンターは実の父親との対決を通じて(この場面は感涙必死の名場面である)、夫への依存から脱却し己に価値を見出していく。だから、映画の最後にハンターが排泄するのは、今まで彼女の心と身体を縛り付けていた軛なのだ。ハッピーエンドとはとても言えない、暗いエンディングではあるがそこには微かな希望が差し込んでもいる。

 

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透明人間 (字幕版)

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  • 発売日: 2020/12/09
  • メディア: Prime Video
 

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