事件前夜

主に映画の感想を書いていきます。

ナタリー・エリカ・ジェームズ『レリック―遺物―』

あなたの知らない間に、親たちはゆっくりと変質していく

タイトルを見て、ピーター・ハイアムズが昔撮ったクリーチャー・ホラーのリメイクかな?と思った方は悪しからず。日系オーストラリア人の女性監督ナタリー・エリカ・ジェームズのデビュー作は、ジャンル分けすればホラー映画の範疇に入るだろうが、脳みそを喰らって進化する怪物は登場せず、どちらかと言えば同じオーストラリア産のホラー映画『ババドック 暗闇の魔物』に近い。両作ともホラー映画のフォーマットを用いながら「家族」という枠組みが私たちにもたらす閉塞感や鬱屈を描いている。そこに「老い」や「認知症」という切実なテーマを盛り込んだ点がこの映画の面白いところだ。
映画は、郊外で一人暮らしを営む老女エドナが突然姿を消した、という知らせを受け、娘のケイと孫のサムが森に囲まれたエドナの家を訪れたところから始まる。部屋の中は物が散らかり、キッチンには腐った食べ物が放置され、やるべき事を書いたメモがそこかしこに貼られていた。それらはエドナが認知症である事を示していたが、仕事が忙しく母親とは疎遠になっていたケイは、今まで気づかなかったらしい。やがて、エドナは何事もなかったかの様に家に戻ってくる。安心したケイとサムだが、やがてエドナは常軌を逸した言動を繰り返す様になり、奇怪な出来事が起こり始めるのだった―
少し前に『呪われた老人の館』という、老人ホームを舞台にしたホラー映画があった。謎の怪物に襲われ老人たちが次々と命を落とす中、主人公の老女は家族に危機を訴えるのだが、「お婆ちゃん、ボケちゃったねえ」と言わんばかりに誰も信じてくれない。アンソニー・ホプキンス認知症患者を演じた『ファーザー』もそうだったが、認知症(の疑いがある)人物の視点に立つ映画では、日常に現実離れした怪奇が入り込み、それが果たして現実に起きている事なのか、それとも病が生み出した妄想なのか、主人公はもちろん観客にも判断できない。認知症患者の抱える恐怖とは、こうして現実と虚構の境界が曖昧になっていくある種の崩壊感覚なのだ。
では『レリック―遺物―』で起きる怪奇現象はどうなのだろう。これは現実なのか、それとも妄想なのか。確かに、ケイやサムはエドナの家で異常な現象に巻き込まれ、命を脅かされもする。しかし、当のエドナにとってそれは恐怖でも何でもなく、受け入れるべき当然の出来事に過ぎない。本作が特異なのは、認知症であるエドナの視点ではなく、介護者とでも言うべきケイやサムの視点で語られていく点だ。従って、仮に超常現象が妄想の産物なのだとしたら、それはエドナではなくケイやサムが生み出したものと考えるべきだろう。同じ理由で、本作に描かれている恐怖は認知症患者の視点に立ったものではない。自らの親が見知らぬ他人へと変貌していく過程を、ただ何もできずに見守る事しかできない子供たちの恐怖なのである。そして、その恐怖は認知症患者を親に持つ者だけでなく誰もがが共有している筈だ。
私たちは、幼少時代に作り上げた親に対するイメージを大人になっても手放す事ができない。しかし、私たちが独り立ちし、家を出た後も親たちの人生は続いていく。その日々の中で人知れぬ葛藤や苦悩を抱く事もあるだろう。私たちの知らない間に親たちの内面が徐々に変質していくのはむしろ当然な話だ。その変化が認知症という明確な理由によってもたらされたのであれば、まだ納得もできるだろう。しかし多くの場合、人は全く不可解な、他人には窺い知る事のできない理由でそれまでとは全く異なる人間に変貌してしまう。その際、私たちはそれまで信じていた現実が剥がれ落ち、未知の世界が顔を覗かせる瞬間を目撃する。本作のラストに描かれる「脱皮」は、ケイやサムがエドナの真の姿を、そして自分自身の真の姿を発見した事を示しているのだ。

 

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