事件前夜

主に映画の感想を書いていきます。

S・クレイグ・ザラー『ブルータル・ジャスティス』

S・クレイグ・ザラーの新作が、日本で初めて劇場公開された!と言って、喜ぶ人が何人いるのだろうか…『トマホーク ガンマンVS食人族』も『デンジャラス・プリズン ―牢獄の処刑人』もDVDスルーだった事を考えれば喜ぶべきなのだろうが、それにしても日本国内の上映館がたったの3館とは余りにも寂しい話だ。メル・ギブソン主演のアクション映画、というだけで客が入る時代でない事は分かっているが、それにしてもヒットするのはコミック原作ものとアニメだけ、という我が国の映画界の状況には心底うんざりする。そりゃ、菅とかいう生まれた瞬間から誰かの腰巾着になる事を運命付けられた様な貧相な顔の親父を総理大臣に掲げる国だけの事はあるよ…誰もが周りと同じものを享受し、そこからはみ出した異物には冷淡な眼差しを向けて何の疑問も持たない。皆が新しいiphoneを片手に『鬼滅の刃』を観に行ってばか騒ぎをしている傍ら、こうした反時代的な傑作がひっそりと公開され、誰の目にも止まらないまま消えていくのである。実際、私も劇場公開されている事に気づいた段階では既に大阪での上映が終了していた為、尼崎の映画館まで行く羽目になった。しかし、今回初めて訪れた塚口サンサン劇場は、新作に混じって『仁義なき戦い 広島死闘篇』をリバイバル上映したりと、中々信頼できる映画館の様で羨ましく思った。尼崎市民は、自分たちが非常に恵まれた映画環境に生きている事を感謝した方が良い。それはさておき、まずは本作のあらすじを簡単に紹介しておこう。
ベテラン刑事であるブレットとその相棒トニーは、ある麻薬ディーラーに関わる強引な捜査がマスコミで問題視され、6週間の無給停職処分を受けてしまう。ただでさえ薄給の平刑事だったブレットは生活費にも事欠く様になり、切羽詰まった挙句に犯罪者の金を強奪する計画を立てる。ブレットはトニーと共に犯罪を企んでいると思しきヴォーゲルマンという男に目を付け、密かに追跡し始めるのだが…
と、ざっくりまとめればこういった話なのだが、本作は主人公のブレットだけではなく、複数の登場人物の視点を切り替えながら物語を進めていく構成となっている。一見、何の繋がりも無い様な登場人物や挿話が一点に向けて収斂していく、まあ映画や小説では珍しくもない手法のひとつだろう。しかし、『ブルータル・ジャスティス』を観た人々は、この映画に対して非常に座りの悪い、何やら歪な印象を持ったのではないか。一般的な娯楽映画であれば、何でもない会話の中に実は伏線が巧みに隠されていたり、ただの傍役だと思っていた人物が後に重要な役回りを果たしたり、メインのストーリーラインを補完する目的で様々な登場人物やエピソードが配置されている。しかし、本作では何の意味も無さそうな会話は最後まで本当に無意味なのだ。あまつさえ、ここまで事細かに描写されるからにはさぞかし重要な役回りなのだろう、と思っていた人物が、次のシークエンスでぶち殺されるだけの端役だったりもする。要するに、映画を構成する諸要素が物語の推進力とならず、単なる迂回や逸脱としてしか機能していないのだ。『トマホーク ガンマンVS食人族』でも、原住民に攫われたカウボーイの妻を救出に行く旅の途中で、リチャード・ジェンキンス演じる補佐官が本筋とは全く関係のない、どうでもいい無駄話をする場面が数多く挿入されていたが、『ブルータル・ジャスティス』ではあの会話シーンが全面的に展開されていると思っていい。本作の上映時間が159分にまで膨らんだのもこうした物語に奉仕しない、どうでもいい会話や不必要としか思えない描写が過剰に盛り込まれているからだ。主人公たちの道程という事であれば、比べものにならないぐらい長い旅が描かれる(しかも、その内の1人は足を骨折していたりするので余計に時間が掛かる)『トマホーク ガンマンVS食人族』の上映時間が132分だった事を考えると、これは異常な長さである。
実際の話、監督のS・クレイグ・ザラーは映画会社からいくら何でも長すぎるから120分ぐらいにカットしろ、と言われたらしい。この120分というのもかなり妥協した条件で、本作のプロットだけを取り出せばジョニー・トーなら90分ぐらいでまとめてしまえそうな話である。しかし、S・クレイグ・ザラーはその申し出を断固として断った。その為、色々と不遇な扱いを受けたらしいが(日本の上映館がたったの3館、というのもそのひとつかもしれない)、しかしその選択は正しかった様に思える。一見するとダラダラとしたやり取りや持って回った語り口が、本作に独特のリズムを与えているからだ。こうした冗長さを意図的に娯楽映画に導入した映画作家として真っ先に思い浮かぶのはクエンティン・タランティーノだが、本作の冗長さはタランティーノの犯罪映画ともまたテイストが異なる。タランティーノの映画が長くなっていくのは、例えば丁々発止の会話劇とか、過去の映画作品からのマニアックな引用とか、つまり作り手のやりたい事を全部ぶちこんでしまうからであって、言わば意味のある「内容」によって作品の隙間を埋めていく行為と言えるだろう。それとは逆に、S・クレイグ・ザラーは作品の隙間をどんどん広げていくのである。
例えば、本作に対して「無内容」と非難する人がいるかもしれない。本来なら90分で収まるべきプロットを無意味な挿話や描写によって水増ししているだけではないか、という主旨の批判である。なるほど、本作の隙間を「内容」の欠如と捉えるならば、確かに本作は「無内容」な映画なのだろう。しかし、そもそも総合芸術である映画にとって「内容」とは何なのだろうか。
映画を構成する芸術的要素を美術、音楽、演技、脚本と分けて考えるなら、本作には全てがひと通り揃っている訳である(音楽など、そのほとんどが監督自身によるオリジナル楽曲だったりする)。それでも『ブルータル・ジャスティス』が「無内容」との誹りを受けてしまうのは、全ての芸術的要素を明解なストーリーラインに奉仕させる事によって、よくできた物語を享受したいという観客の欲求に応えようとする意思が、作品から全く感じられないからだ。先述した通り、本作の会話場面や人物描写は迂回や逸脱を繰り返し、物語に対する観客の理解を阻害するノイズにしかなっていない。ストーリーそのものは呆れるぐらいに単純なのに、その分断された語り口や描写の不均衡が物語の全体像を歪めてしまうからだ。例えば、『ブルータル・ジャスティス』ってどんなお話なの、と訪ねられた場合に、前述したあらすじを述べただけでは本作の1%も説明した事にはならないだろう。本作のルックは60年代から70年代にかけてのハリウッド犯罪映画を想起させるが、サム・ペキンパードン・シーゲルといった、当時活躍した監督たちの職人的な作劇法をS・クレイグ・ザラーははなから指向していない。
にもかかわらず、ブレットとトニーが銀行強盗の一味と対決する本作のクライマックス場面が与える興奮はほとんど感動的ですらある。既に廃業したガソリンスタンド跡地には、ブレットと強盗団の乗る車が1台ずつ、それと鉄の扉が配置されているだけだ。しかし、S・クレイグ・ザラーは不愛想と言ってもいいぐらい簡素なこの空間の中で、車や人を生き生きと動かし、刑事たちと銀行強盗団の位置関係と距離を更新していく事によって新たな暴力を次々と噴出させる。対象物の運動によって空間を変化させ、また新たな運動を観客に提示する。このスペクタクルこそが、映画が本来持つべき「内容」なのだ。誰も見向きもしない寂れた空き地にカメラを向ける事で、新しい未知の空間が生まれ、そして広がっていく。その得難い瞬間を、S・クレイグ・ザラーは私たちに見せてくれている。

 

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食人族のインディアンに攫われた妻をガンマンが救出に行くという、現代では誰もが避けて通るであろう物語を強引に成立させてしまった反時代的な傑作。絶対観ろ!