事件前夜

主に映画の感想を書いていきます。

ガス・ヴァン・サント『ドント・ウォーリー』

 

とりあえず、この映画で心に残ったシーンをふたつ挙げておこう。ひとつは主人公ジョン・キャラハンがポートランドの町を電動車椅子で疾走する冒頭場面である。私はこれまで、車椅子がこれほどのスピードで走る映画を観た事が無い。それだけでも本作を観た甲斐があった。もうひとつはジョンが病院で看護婦にクンニをしている場面…ではなく、自分の漫画をバーで見せてまわり感想を求めるシーンである。その漫画は工事現場に「立ち入り禁止。警備員はレズビアンです」という貼り紙が貼られ、それを目にした通りすがりの男が震えている、というものだが、これは現在のポリコレ的観点から怒りだす人がいてもおかしくない内容だ。レズビアン(=セクシャルマイノリティ)を馬鹿にしているのか、と。しかし、バーの酔客はこう分析する。レズビアンとは男性を必要としない女性である。自分を必要としない人間ほど恐ろしいものはない。これは男性であろうと女性であろうと同じである。その為、この貼り紙は「猛犬注意」の貼り紙と同じ効果を人々にもたらすのだ、と。これは実に見事な見識で、その過激さに眉をひそめる人の多いジョン・キャラハンの漫画への的確な批評となっている。

さて、この作品は半身不随でアルコール依存症の漫画家ジョン・キャラハンの半生を描いた作品である。母親に棄てられたトラウマを紛らす為にアルコール依存症となったジョンが、交通事故で下半身麻痺となったどん底の状態から、周囲の人々の力を借りながら漫画家として成功し、遂にはアルコール依存症から脱却する姿を追った成長ドラマだ。しかし、ガス・ヴァン・サントは各エピソードを細かく裁断し、更に時系列をシャッフルして配置している為、非常に複雑な語り口になっている。各エピソードにそれ程の時間的隔たりが無い為、登場人物を見てもその人が前後の場面より若くなったのか老けたのかが分かりにくい。また、各エピソードは禁酒会の参加者や町中で出会ったスケボー少年たちにジョンが話した内容である、という入れ子構造にもなっているので、余計に混乱してしまう。実際、このとっ散らかった構成に戸惑った方も多いのではないか。

なぜ、ガス・ヴァン・サントはここまで錯綜した語り口を採用したのか。私見だが、こうした複雑で混乱した「生」に秩序を与え、順序立てる事が人間としての成熟だ、と伝えたいのかもしれない。参加する禁酒会で、ジョンはヘルパーへの不満をぶちまける。車椅子での生活を余儀なくされている彼にとって、日々感じるストレスは生活の大半を頼るヘルパーへと向かわざるを得ない。しかし、禁酒会の主催者ドニーは、ジョンがなぜヘルパーに頼る事になったのか、その原因を皆の前で明らかにする事を強いる。他者への不満や鬱憤が全てだったジョニーに、過去を遡るという過酷な作業を通して秩序が与えられ、彼は初めて自分と向き合う事になる。禁酒会ではこうした治療プログラムを12のステップに分けているが、おそらく、重要なのは各ステップの内容ではない。各ステップを順序立ててクリアさせる事で、患者に達成感を与える事こそが自立への道に繋がるのだ。

以上の観点から見れば、本作では混乱し複雑化した事象を何らかのルールに基づいて整理していく場面が数多く挿入されている事に気づく。ジョンが自作の漫画を「面白い」「面白くない」「再検討」といったカテゴリーに分けていくのもそうだし、彼が過去に出会った人々をリスト化し、謝罪の為に訪ねて回る場面も同様である。混乱をそのまま放置していても、ただ負の感情に絡めとられるだけである。世界を自らが決めたルールに従って整理し立ち向かう術を探る態度こそが最終的な癒しに繋がるのだ。

本作で象徴的に扱われている漫画がある。ゾウリムシが魚になり、恐竜になり、原始人になり、やがてタキシードを着た紳士になって表彰式のスピーチで感謝を述べる、という漫画だ。ジョンはこの進化の過程をどう描くかで悩んでいた。間に三葉虫を挟んだ方が良いのか、魚か鳥かどちらが適切か…結局、映画の中盤では結論は下されず、この漫画は「検討中」のカテゴリーに放り込まれる事になるのだが、自らの生を順序立て秩序を取り戻そうとする彼の悲壮な決意が、そこでは既に描かれていた様に思う。

 

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