事件前夜

主に映画の感想を書いていきます。

ハリー・クレフェン『エンジェル、見えない恋人』

 

エンジェル 見えない恋人 [DVD]

エンジェル 見えない恋人 [DVD]

  • 発売日: 2019/04/27
  • メディア: DVD
 

透明人間というと、どちらかといえばホラー映画の主人公というイメージが強い。では、なぜ私達は映画の中の透明人間に恐怖を覚えるのだろうか。それは、透明人間が他者には決して見えず、ただ一方的に「見る」事を許された存在だからである。つまり、透明人間とは「視線」のメタファーなのだ。この映画は、透明人間=視線という構造を強調すべく、その大部分を透明人間の主観ショットで占めている。
本作の冒頭、精神を病んだ母親と病室で暮らしていた透明人間のエンジェルは、病院の裏手に住む盲目の少女マドレーヌと出会う。彼女は視力を奪われているがゆえに、エンジェルが透明人間である事に気づかず、やがてふたりは惹かれあう様になる。盲目の人間にとっては、相手が透明であろうと不透明であろう見えないのだから、逆に透明人間の非視認性は無効化されてしまう。ならば、透明人間を恐怖ではなく恋愛の対象として捉える事も可能だろう。これはなかなか上手いアイデアである。
最後に残るのは、果たしてこの映画の透明人間は本当に存在したのか、という疑問である。エンジェルが精神を病んだ母親の妄想の産物ではないとは言いきれない。それは、恋人のマドレーヌにしても同様であろう。友人がひとりもいない孤独な少女が生み出した空想上の人物としてエンジェルを捉える事もできる。
いや、そもそもマドレーヌという少女が本当に存在したかどうかも分からないのだ。先に述べた他者に視認される事のない、特権的な視線とはまさに映画のカメラにほかならない。本作に限らず映画の俳優たちは、常にカメラの存在を意識しながら決してカメラを直視する事はできない。俳優たちがカメラの存在に気づいてしまっては、虚構としての映画は崩壊してしまう。だからこそ、彼らはカメラの暴力的な視線に、じっと我が身をさらし続けるしかない。そして、その瞬間にだけ私達はスクリーン上に彼らの姿を認める事ができる。鏡を観る事のできない盲目のマドレーヌが、透明人間エンジェルの視線を浴びる事で自らの髪を、眼を、肌を取り戻した様に、映画にとっての俳優とは視線を向けられた瞬間にだけぼんやりと浮かび上がる、透明な存在なのである。