事件前夜

主に映画の感想を書いていきます。

ロバート・バドロー『ストックホルム・ケース』

先日、アンジャッシュ渡部の謝罪会見の様子を伝えた記事をヤフーニュースで読んでいたところ(おそらく人生で最も下らない時間の使い方だとは思うが)、「妻の佐々木希はなぜこんな目に遭っても離婚しないのか?ストックホルム症候群なのか?」といったコメントが寄せられていた(大きなお世話だとは思うが)。そのコメントを寄せた人は、どうも「ストックホルム症候群」をDV夫に耐える妻に象徴される、相互依存の関係として捉えているらしい。
確かに「ストックホルム症候群」は、心理相互依存症というPTSDの症例として扱われるのが一般的だが、この言葉だけが一人歩きして、犯罪以外のケース、夫の浮気だとかDVだとか、そうした家庭の問題にまで使われるのは違和感がある。妻が夫に逆らえない、離婚を切りだせないのは、女性をめぐる社会通念や経済環境など様々な理由がある筈で、全てを心理的な問題として片づけてしまうと、そうした観点を見落としてしまう事になるからだ。
なぜ、こんな事を書くかと言えば、犯罪者とその被害者の心理的つながり、という側面だけに注目して、それを男女の(疑似)恋愛と結びつけてしまう様な描き方が、主にポップカルチャーにおいてなされてきた結果、「ストックホルム症候群」について誤解が広まっているのでは、と思うからである。この言葉が生まれるきっかけとなった、1973年のノルマルム広場強盗事件を描いた本作においても、もしかするとその様な捉え方をしている人がいるかもしれない。犯人のラース役をイーサン・ホーク、人質のビアンカノオミ・ラパスが演じたこの物語を、一風変わったラブストーリーとして解釈する事は確かに可能だからだ。
ただ、ラブストーリーとして考えた場合、銀行強盗犯と人質が恋に落ちる、というプロセスに説得力を持たせるのはなかなか難しい。特に、ビアンカは夫も子供もいる真面目な女性として設定されているからなおさらである。映画ではラースを心優しい好人物として、反対にビアンカの夫を愚鈍で配慮に欠けた人物として描く事で何とかその恋愛を成立させようとしているが、これはいかにもご都合主義的な感じがして感心しなかった。
要するに「ストックホルム症候群」とは、自分が犯人に生殺与奪の権を握られている、という人質側の恐怖を伴った現実認識とセットになっているのである。だから、それはあくまで暴力を伴う支配関係が変異したものに過ぎないだろう。銃を持った銀行強盗に対して感じるであろう恐怖感を(犯人に好印象を抱かせる為)本作は限りなく薄くしてしまったが故に、観客からは逆に人質と犯人の精神的結びつきが不自然に映る様になってしまった。結果的に、この映画を観に来た人々のほとんどが期待していたであろう「なぜ人質が犯人に好意を抱く様になったのか?」という疑問に対する解答を全く提示できていない(まあ、そんなもん分かる訳ないのかも知れないが…)。
ところで、本作のプロットは「ストックホルム症候群」という言葉の生みの親である精神科医、フランク・オッシュバーグが提唱した三段階のプロセスに基づいていると思われる。第一に、人質の側に犯人に対する愛着や愛情が生まれる。第二に、今度は犯人側がそれに応えるかたちで人質を気遣うようになる。第三に、両者がそろって「外界」に対する軽蔑を抱くようになる、というものだが、第一段階と第二段階については前述の通り不満が残るものの、最後の第三段階、人質と犯人が抱く「外界」に対する敵意については、なかなか面白い描き方をしていると思った。
ここまでラースとビアンカばかりに着目してきたが、実はこの映画には犯人側にもう1人、人質側にもう2人のメンバーが加わる事になる。そして、ラースとビアンカが惹かれ合うのに歩調を合わせて、犯人グループと人質グループは結託し、犯人たちの逃走計画を成功させる為に力を合わせる事になるのだ。これはもはや、男女の恋愛感情などという範疇を超えた心の交流にまで及んでいると言うべきだろう。そして、事件がここまで奇妙な展開を見せたのは、1973年という時代背景と無関係ではない。
1973年といえば、ベトナム戦争が米軍の引き上げによって終結し、ウォーターゲート疑惑によってホワイトハウスが揺れに揺れていた時期である。要するに既存の権威や道徳観が疑われ、若者たちが前世代に対して激しい敵愾心を燃やしていた時代だった。その様な風潮の中で、社会の礎たる金融システムにイリーガルな手段でアクセスし、一獲千金を狙う銀行強盗は、硬直した価値観に風穴を空ける象徴的存在に映っただろう。本作は音楽やファッションの使い方、時折挿入されるニュース映像など、当時の空気感を再現する事に腐心しているが、アメリカン・ニューシネマの傑作『狼たちの午後』からの影響を見て取る事は容易である。シドニー・ルメットが1972年にブルックリンで起きた銀行強盗事件を映画化したこの作品でも、犯人と人質たちの奇妙な連帯関係にスポットが当てられていたからだ。ベトナム帰還兵でありゲイでもある銀行強盗犯ソニーは、やがて当時の若者たちが抱えていた鬱屈や不満を代弁し、権威に牙を剥く英雄へと祭り上げられていく。
要するに、本作はロバート・バドローによるアメリカン・ニューシネマへのオマージュなのだ。アル・パチーノが群衆たちの前で警察権力の横暴を非難した「アッティカアッティカ!」という叫びは映画史に残る名台詞として知られているが、45年もの時を隔てた本作でもその残響を聞き取る事ができる。

 

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こちらも実在の事件をもとにした、アメリカン・ニューシネマを代表する一作。台詞のほとんどがアドリブだった事でも有名。アッティカアッティカ