事件前夜

主に映画の感想を書いていきます。

庵野秀明『シン・エヴァンゲリオン劇場版』

ひたすら増殖し続けてきた「エヴァンゲリオン」の物語を終わらせようとする、並々ならぬ強い意志

言わずもがなの話だが、1995年10月に放映がスタートしたTVアニメシリーズ『新世紀エヴァンゲリオン』は『宇宙戦艦ヤマト』『機動戦士ガンダム』と並び、日本のアニメにとって最も重要な作品のひとつである。同じく1995年に起きたオウム真理教による地下鉄サリン事件と共に、80年代から続いてきたオタク文化に引導を渡す役割を果たしたとも言っていいだろう。特撮映画やロボットアニメ、SF小説や聖書などあらゆるジャンルからの引用が散りばめられた自己言及的な物語は、日本のサブカルチャーの総決算とも言うべき唯一無二の存在感を未だに放ち続け、監督の庵野秀明が自負するとおり、以後12年間エヴァより新しいアニメは存在しなかったと言っても過言ではない。
当時、大学生だった私も1994年に創刊された『Quick Japan』の「エヴァンゲリオン」特集などを読み漁っていたが、TVシリーズが最終回を迎えると急速に熱が冷めていった。別に、毀誉褒貶を生んだ最終話の内容に憤慨した訳ではない。作り手としては色々と考えていたものの上手くまとめきれなかった、という事なのだろうし、そもそも上手くまとめる事がこの作品に相応しいのか、という問題もある。それよりも、最終回の内容や残された謎をめぐって、皆が自分なりの解釈を議論し続けるのが気持ち悪く、嫌でたまらなかった。というのも、それらの言説が『新世紀エヴァンゲリオン』という作品に仮託して、自分について語っている様に見えたからだ。その様な自意識の垂れ流しを誘発する要因が作品の中にあったのなら、さっさと忘れ去られてしまえばいい、とすら思った。だから、その後の「エヴァンゲリオン」については、TVシリーズとは全く異なる結末を描いた旧劇場版も観ていない。今回の新劇場版で久しぶりにエヴァの世界を訪れた訳である。
完結編に備えてAmazon Primeで「序/破/Q」をおさらいしたが、改めてビジュアル面での圧倒的なクオリティには圧倒させられる。そもそも、TVシリーズ版は納期に追われていた為か、エピソードによって作画の質にバラツキがあり、中にはデッサンが狂っているのではないかと思うものすらあった。費やされる予算と時間が格段に増えた新劇場版では、TVアニメシリーズの原画や資料を再利用しながらも全ての絵が新たに描き起こされ、当然ながら作画の質は一定に保たれている。肝心のアクションシーンについても、新たにデジタル撮影と3DCGが採用された結果、エヴァ使徒の動きは更に複雑かつ精緻になり、それらを縦横無尽に動き回るカメラが的確に捉えていく。1シーン、1カット毎に途轍もない労力が費やされている事が素人目にも分かる。まさに、今の時代に合わせてリビルド(再構築)された「エヴァンゲリオン」と呼ぶに相応しい。
ただ、(一部で改変されているとはいえ)TVシリーズ版のダイジェストとも言える内容だった「序」や「破」が、テンションの上がる熱い展開だったのに対し、映画版オリジナルのストーリーが語られる「Q」は、TVシリーズ後半を思わせる陰々滅々とした話が続き、またこんな感じになるのかあ…と正直げんなりしたのも事実である。案の定、「Q」についてはこれぞエヴァ、と賛辞を贈る者がいる一方、爽快感に乏しい鬱展開には批判が集まった様だ。「Q」では「破」で引き起こされたニアサードインパクトから14年が経った世界が舞台となるが、浦島太郎のごとくひとり取り残された主人公、碇シンジの周囲の人々が「序」「破」を観てきた者からはまるで理解不能の、感情移入を拒む様な言動を繰り返す。「Q」で観客が置いてけぼりにされたと感じるのはこの点だと思うのだが、それは「破」で引き起こされたニアサードインパクトが世界に、人の心にどの様な影響を及ぼしたか、という点について(登場人物の口を借りてぼんやりと説明されるものの)具体的な描写が全く無かった点に起因する。「破」と「Q」の間で起きたであろう絶対的な変質を、シンジ同様に観客も実感できない。その意味で「Q」のモヤモヤした展開は、シンジの内面世界がストーリーのレベルにまで投影されたもので、観客はシンジの懊悩を否応なく追体験させられる訳だ。これはいかにも「エヴァンゲリオン」らしい仕掛けだとは言える。
完結編である『シン・エヴァンゲリオン劇場版』の序盤において、ニアサードインパクトの避難民たちが住む村の生活を事細かく描き、綾波レイが農作業に従事する姿まで挿入したのは、前述した「Q」の欠落部分を補填する事で、葛城ミサト式波・アスカ・ラングレーの変質に説得力を持たそうと意図したものだろう。ここで初めて、観客は四部作の中で据わりの悪かった「Q」の物語の意味を知る事になる。あまり細かい点にまで立ち入るつもりはないが、この完結編に感じるのはTVシリーズ版を端緒にあらゆるジャンルに増殖していった「エヴァンゲリオン」の物語を終わらせようとする、並々ならぬ強い意志なのだ。もしくは、「エヴァンゲリオン」の物語に触れた人々全てを満足させようとするサービス精神、と言えばいいだろうか。従って、藤田直哉「主観的な印象としては、10点満点中で350万点ぐらいの作品なのだが、『新劇場版』から入り、『破』が一番好きだという観客にとっては意味不明で3点ぐらいの作品なのではないかと危惧」するのは全くの杞憂というか大きなお世話というか、なぜこの手の論者は優越感に浸りたいが為にファンを分断する様な事を言いたがるのか、と腹が立ってくるのだが、本作が庵野秀明の言葉通り「誰もが楽しめるエンターテイメント映像」に仕上がっている事は保証しよう。
映画の終盤では怒涛の「説明」が待っている。過去作に散りばめられた謎の欠片は悉く拾いあげられ、ひとつひとつあるべき場所に嵌められていく。もちろん、最初から全てが計算され尽くしていた訳ではないだろう。中には強引に嵌め込まれたピースもあるし、最終的に出来上がった全体図もまた極めて歪なものではある。更に言えば、絶対的な父権を中心とした家族の物語だった『宇宙戦艦ヤマト』と父親に反抗する放蕩息子を主人公とする『機動戦士ガンダム』に対し、父の不在を描いていた筈の『新世紀エヴァンゲリオン』が、典型的な「父殺し」の物語に帰結した事に物足りなさを感じなくもない。しかし、これだけ物語の説明に時間を費やしながらも、最後まで動く絵としてのアニメーションの面白さを損なっていないのは驚異的である。この圧倒的な「絵」の前では、もはや「物語」などどうでもいいではないか、と思わてくれる。
女性キャラクターのセクシュアルな描写については少し気になった。新キャラクターの真希波・マリ・イラストリアスも含め、いくら何でもあざと過ぎるのではないか。もちろん、これも「サービス」のひとつではあるのだろうが、1990年代ならいざ知らず、今の風潮には若干そぐわない様に思ったのだが、その点について指摘した意見をついぞ聞かないのは不思議である。

 

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「誰もが楽しめるエンターテイメント映像」であるとはいえ、さすがにこの3作を観ていないとチンプンカンプンだとは思う。

 

ジョン・コニー『サン・ラーのスペース・イズ・ザ・プレイス』

Sun Raは自分の思想が普遍性を獲得できない事を自覚していたのではないか

Sun Raの『Space Is The Place』は大好きなアルバムで普段からよく聴いているのだが、ジャズの熱心なファンでもない私には、Sun Raの膨大な音源を全てフォローできるはずもなく(最近はサブスクでほとんど聴ける様になったが)、彼の音楽の核となっている思想についてもほとんど何も知らない。そんな訳で、Sun Raが主演、脚本、音楽を務めた本作が日本で初めて劇場公開されると知り、楽しみにしていた。この映画はあくまでSF娯楽映画という体裁をとっているので、まずはあらすじを簡単に紹介しておこう。
1969年頃に地球から姿を消していた大宇宙議会・銀河間領域の大使Sun Raは大宇宙を航行した果てに、遂に地球と異なる理想の惑星を発見した。音楽を燃料とする同位体瞬間移動によって米国にいる黒人たちを移送しようと考えたSun Raはさっそく地球に戻るが、やがて彼の技術を盗もうとするアメリカ航空宇宙局NASA)の魔の手が迫るのだった…
と、分かった様な分からない様な話だが、この現実離れした設定は、Sun Ra独自の宇宙哲学に根差したものである。彼の思想及びその芸術活動はアフロフューチャリズムの先駆とも言われているが、何じゃそら、という人に簡単に解説しておけば、そもそも、アメリカの黒人たちはアフリカ大陸やカリブ諸島から拉致されてきた奴隷を祖先とする。従って、彼らは生まれながら故郷を奪われた存在としての運命を享受せねばならない。アフロフューチャリズムは、黒人たちの郷愁の対象を宇宙に求めようとする思想である。自分たちは宇宙から地球へ連れ去られてきたのであり、真の故郷は宇宙にあると考え、そこに人種差別など存在しないユートピアを見出す。また、黒人の白人社会への同化による差別解消を潔しとせず、黒人が権力を握っていた古代エジプトに対してシンパシーを抱いて、結果的に「ブラック・ナショナリズム」と深く結びついていく。こうして、アフリカと古代エジプト、科学技術とニューエイジ思想がごた混ぜになった、唯一無二の世界観が形成されていくのである。誤解の無い様に言っておくが、別にSun Raがアフロフューチャリズム、という概念を提唱した訳ではない。Sun Raに影響を受けた後続の黒人音楽家たち―Earth,Wind & FireやP-FunkAfrika BambaataaJeff Millsなど、ソウル/ファンクからデトロイトテクノに至るブラックミュージックの系譜―に垣間見られる宇宙志向がやがて注目され、文学や映画でも引用されるようになり、その創始者としてSun Raが再発見された、という事なのである。
そんな訳で、本作をアフロフューチャリズム、更にはブラックスプロイテーション映画の始祖として捉えるなら、その子孫として『ブラックパンサー』といった作品を置いてみる事も可能だろう。もちろん、映画については素人のSun Raが主演と脚本を務めている本作は、娯楽映画としての完成度という意味では『ブラックパンサー』とは比べものにならないぐらいにユルユルである(そのキッチュなアートデザインは『バーバレラ』みたいなレトロフューチャーSFが好きな人なら気に入るかもしれない。お色気要素もほんの少しあるし)。
ただ、Sun Raの脚本にはなかなか面白いところがあって、自らの思想を世間に広く伝える為に娯楽映画のフォーマットを利用する、というのは、例えば宗教団体の作った映画なんかでも常々やっている事だが、その手の映画では核となる思想や教義は絶対的に正しい真理として描かれ、劇中で疑念を持たれる事はないのが常である。何しろ、むこうは無知な大衆を啓蒙する目的で映画を作っているので自分が正しい、という姿勢は絶対に崩さない。しかし、そもそもその思想やら教義に普遍性が欠けているからこそ、映画まで作って広めようとしていた訳で、その結果、一般の観客からすればチンプンカンプンの理屈が何の疑問もなく全肯定される、よくわからない映画ができあがるのだ。この手の映画が結局は信者に向けたノベルティの域を出ないのもその為である。
しかし、Sun Raは自分の思想がその様な普遍性を獲得できない事を自覚していたのではないかと思う。映画の中盤、黒人たちを音楽によって宇宙へ送り届ける為にオーケストラのメンバーを集める必要に駆られたSun Raが、オーディションを行う場面がある。そこで彼は失職したばかりで生活に困っている応募者から報酬について問われるのだが、「宇宙には報酬という概念が無いのでノーギャラだ」と答えた瞬間、「あ、すいません。次の予定があるもんで失礼します」と逃げられてしまう。もちろん、この場面には資本主義に頭からどっぷり浸かっているアメリカ白人を揶揄する意味合いもあるのだろう。しかし、観客からすればどう考えてもSun Raの方が頭がおかしいのである。
おそらく、Sun Raはその事を十分に意識し、彼の思想を理解できない観客にも笑って楽しんでもらえる様に本作の脚本を書いている。この客観性こそ、Sun Raのアバンギャルドな音楽が多くのファンを獲得した原因だったのではないか、と思う。

 

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こちらはSun Raのインタビューとライブ映像が収められたドキュメンタリー作品…なのだが、なぜか劇映画に見えてしまうのがSun Ra先生の徳の致すところ。ライブシーンでのSun Raのキーボード演奏はとにかく凄まじいの一言。 

岨手由貴子『あのこは貴族』

階級がもたらす断絶を軽やかに超えて繋がっていく女たち

山内マリコの小説はこれまで『ここは退屈迎えに来て』と『アズミ・ハルコは行方不明』の2作が映画化されているが、『グッド・ストライプス』の岨手由貴子が監督を務めた本作は、原作者がコメントを寄せているとおり、「2021年の日本映画の大収穫の一つ」と言ってもいい出来栄えである。山内マリコ名画座に足繁く通うぐらいのシネフィルだから、この仕上がりは本当に嬉しかっただろう。いや、むしろ嫉妬すら覚えたのではないかと想像する。岨手由貴子は原作の筋書きを忠実になぞりつつ、最小限の脚色と細やかな演出によって原作以上の豊かさを映画にもたらしているからだ。結婚相手を探す主人公の榛原華子が姉の麻友子に男性を紹介してもらう場面や、もう一人の主人公である時岡美紀が地元の同窓会で同窓生からホテルに誘われる場面では、映画版独自の台詞が追加されていて、それらはほんの少しの付けたしであるにもかかわらず、男から受けるマウンティングに女たちがいかにうんざりしているかをある種の痛快さをもって描いている。あくまで華子と美紀にスポットを当て、その他の人々は脇役的な扱いだった原作に対し、映画版では華子の夫である青木幸一郎や華子と美紀を引き合わせるきっかけとなる相楽逸子、美紀の学友である平田里英といった人物にもより細やかな演出が加えられいて、例えば青木幸一郎と時岡美紀、そして相楽逸子が顔を合わせるシャンパンパーティの場面での、マカロンタワーの一番上に乗ったマカロンをつまみ食いした後に、その代わりに赤い花をちょこんと乗せる相楽逸子や、借り物の名刺の裏に連絡先を書く為、気安く青木幸一郎の背中を借りる時岡美紀の印象的な姿も、映画版で追加されたものだ。こうした繊細な描写が人物の造形に厚みをもたらし、「階級」を超えた人と人との繋がりをすんなりと観客に受け入れさせる。
更に、本作のテーマとなっているその「階級」についても、岨手由貴子は「移動」という極めて映画的なモチーフを使って的確に表現している。本作では榛原華子はタクシーを、時岡美紀は自転車を主要な移動手段として利用しているのだが、それは異なる「階級」に生まれた2人の女性の金銭感覚の違いを示しているだけではない。運転手に行き先を命じれば、後は座席に座って目的地に到着するのを待てばよいタクシーを主に利用する華子は、人生もまた目指すべき場所へ誰かが連れて行ってくれるものだと考えている。だから、彼女にとって理想の結婚相手とは理想的な運転手と同じなのだ。これは、目的地へ向けて自らの足で自転車のペダルを漕ぐ美紀と対象的である。自転車に乗る美紀は流れる風を肌で感じ、アスファルトの匂いを嗅ぎ取り、人々の騒めきを聞き分け、やがて自らもまた東京という街の一部となるだろう。華子にとっての「移動」が目的地に着くまで潜り込まなければならない、外部から隔絶された孤独な時間であるのに対し、美紀にとってのそれは、自由で開かれた瞬間を生きる事そのものなのである。
だからこそ、青木幸一郎との結婚生活に悩む華子と美紀が再開する場面が、映画版では非常に重要な意味を持つ。原作では、華子が美紀にLINEでメッセージを送るだけで果たされた再会が、映画版ではタクシーに乗った華子と自転車に乗った美紀が東京の街で偶然に出会う、というドラマチックな展開を通じて実現する。次の目的地に到着するまでの空虚な時間を過ごしていた華子が、東京の街を自らの意思と身体で軽やかに疾走する美紀の姿を車窓越しに発見した時、彼女は初めて目的地に向かうタクシーを途中下車し、予定調和に満ちた世界を抜け出すきっかけを掴み取るのだ。この瞬間、彼女を外部から遮断していた「階級」の壁に風穴が穿たれる。美紀の部屋を訪れた帰り、タクシーを降りて自分の足で歩き始めた華子が、自転車で二人乗りをする少女達に向かって手を振るシーンは、彼女たちの間には既にいかなる障壁も存在しないという事を指し示す。実際は、華子と少女たちの間には車道が横たわり、互いの姿もはっきりとは見通せず、声も聞こえないぐらいに両者の距離は離れているかもしれない。それでも、彼女たちは同じ街に住む者としてーあるいは同じ苦しみと喜びを分かち合う者として―確かな繋がりを共有しているのだ。
それは、離婚から1年後にとある音楽会で再開する事になった華子と青木幸一郎も同様である。吹き抜けの空間を挟んで差し向かいの回廊に立つ華子と元夫は、音楽に耳を傾けながら密やかに視線を交わす。ラストシーンに置かれた見つめ合う2人の切り返しショットは、彼女たちの短い結婚生活の間では遂に果たせなかった、心と心の交流がようやく始まりつつあるのだ、と予感させる。

デヴィッド・クローネンバーグ『クラッシュ 4K無修正版』

バラードとクローネンバーグ、2人の異才の欲望が刻み付けられたスキャンダラスなポルノ

子供の頃にTVで放映された『ザ・フライ』が初めての出会いだったと思うが、その後もデヴィッド・クローネンバーグの作品は色々と観てきてはいる。かといって、それほど熱心なファンだった訳でもない。『クラッシュ』も公開当時、瀬戸川猛資がケチョンケチョンに貶している映画評を読んで面白そうだな、と思ったものの、その頃はSFにあまり興味が無かった事もあって、結局映画館に出掛ける事はなかった。本作を観るにあたり、クローネンバーグのフィルモグラフィをネットで調べたところ、『裸のランチ』から始まる90年代の作品は全く観ておらず、かろうじてケーブルテレビで『イグジステンズ』を鑑賞したぐらいである。これは初期の傑作『ヴィデオドローム』をわかりやすくリメイクした様な一品で、ジュード・ロウが出演しているわりにものすごく地味な印象を与える作品だった。そもそも、『マトリックス』が公開された1999年の映画にしては、作中のバーチャル・リアリティをめぐる描写が古臭いので(何かケーブルプラグを人体に装着するとかそういうのだった。まあ、P・K・ディックをやりたかったのだろうが…)、SFファンにもウケなかっただろう。しかし、ジャンル映画として観てみるとやっぱり面白いのである。
これを機会に過去作品を年代順に観ていたのだが、比較的ウェルメイドな作りだった『デッドゾーン』や『ザ・フライ』の反動からか、90年代のクローネンバーグはジャンル映画としての洗練を放棄し、むしろ物語的な破綻を積極的に受け入れようとしていたかに見える。『裸のランチ』にしても、ウィリアム・S・バロウズの小説を忠実に再現するというより(まあ、そんな事は不可能だろうが…)、クローネンバーグ自身の強迫観念や潜在的な欲望のありかを探偵映画のプロットを借りて探し出そうとする試みだったのだろう。そうした自己探求の旅の果てに原点回帰とも言える『イグジステンズ』を撮ったクローネンバーグは、傑作『ヒストリー・オブ・バイオレンス』を頂点とする2000年代の作品へと移行していく。
さて、『裸のランチ』の後にクローネンバーグが撮ったのが、本作『クラッシュ』である。何年か前に「ヘア解禁ニューマスター版」がソフト化されていたが、今回は「4K無修正版」となって久々に劇場公開される事となった。本作はイギリスのSF作家、J・G・バラードが1973年に出版した小説の映画化だが、プロットそのものは『裸のランチ』と異なり、原作に忠実な作りとなっている。クローネンバーグは以前からバラードの小説のファンだったらしいが、そういえば両者の作風の変遷には似ているところがある。滅びつつある世界とそこに生きる人々の姿を詩情豊かに描いた「破滅三部作」と呼ばれる作品群を経て、バラードは濃縮小説集『残虐行為展覧会』を挟み、70年代から「テクノロジー三部作」と呼ばれる作品を発表していく。『クラッシュ』『コンクリート・アイランド』『ハイ・ライズ』と続くこの三部作では、それまでの終末世界から近現代に舞台を移し、テクノロジーによって人間の精神がいかなる変容を遂げるか、その可能性が追及されていた。それまでの冒険小説的なプロットは影を潜め、文体は晦渋さを増し、自己言及的な仮構世界を舞台に人々は未知の欲望に突き動かされながら突発的な暴力や奇怪極まる性行為へと身を投じていく。ジャンル映画から身を引き離したクローネンバーグが、中期バラードの代表作である『クラッシュ』を映画化しようと試みたのは必然だったろう。
テクノロジーによって人間の精神が変化し、それが肉体の変容を招く、というのはクローネンバーグが初期から追及していたテーマである(『ヴィデオドローム』『ザ・フライ』『イグジステンズ』をクローネンバーグ版「テクノロジー三部作」と呼んでもいいかもしれない)。クローネンバーグの肉体変容描写というのは基本的にメタファーが可視化した様なものが多い。無意識の怒りが皮膚にできた腫物となり、やがて怪物へと成長する『ザ・ブルード/怒りのメタファー』が最も分かりやすいが、スナッフビデオの魅力に憑りつかれた男の腹にヴァギナの様なビデオ挿入口ができたり、『スキャナーズ』みたいに頭痛が高じて頭が爆発したり、クローネンバーグの映画では精神と同じく肉体もまた可塑的なものに過ぎず、だから男が女に、女が男にも容易く変ってしまう。クイア(変態)な快楽に向けての潜在的な欲望が肉体に変化を生じさせる。特に、『裸のランチ』『クラッシュ』『エム・バタフライ』と並ぶ90年代の作品はゲイである事への憧れと恐れがない混ぜになっていて、明確な対象を欠いた(私が好きなのは女/男なのか?あるいは女/男のイメージに過ぎないのか?)ラブストーリーとして観る事ができるだろう。『クラッシュ』について言えば、バラードの原作では欲望の対象とされていたエリザベス・テイラーが映画版では省かれており(その代わりに、同じく交通事故死した名優ジェームス・ディーンがクローズアップされている)、1967年に事故死した女優ジェーン・マンスフィールドに扮し、自らもまた事故死しようと目論むスタント・ドライバーが原作以上の存在感を放つ。交通事故によって車両の外装が切り刻まれ、ボディフレームがひしゃげ、フェンダーが醜く変形し、フロントパネルが運転者の身体を圧し潰すその瞬間を、性的エクスタシーと重ね合わせたのはバラードの発明だが、クローネンバーグは性差の融化、というテーマを強調する事で自らの潜在的欲望を刻み付けたのだと言える。

 

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テクノロジーの影響で変容する肉体と精神。男の腹部に突如あらわれる女性器。『クラッシュ』で描かれたテーマの萌芽が既にここにある。

 

ハイ・ライズ(字幕版)

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『クラッシュ』と同じく、J・G・バラード「テクノロジー3部作」の映画化。以前に感想も書きました。『コンクリート・アイランド』も映画化&復刊お願いします。 

今泉力哉『あの頃。』

ただ消費するだけの存在として生き、そして死んでいく

私はこれまでアイドルにハマった、という経験が一度もない。そんな人間でも毎週欠かさず「ASAYAN」を見ていたぐらい、当時のモー娘。は飛ぶ鳥を落とす勢いだった。つんくによるツボを押さえた楽曲もさる事ながら、加入と脱退を繰り返すメンバー編成によって、常に新鮮さを保ち続けた事が成功の原因なのだろう。しかし、私はその目まぐるしい変化についていけず、第4期を最後に完全に興味を失った。だから、『あの頃。』で描かれている第6期以降については全くの無知と言っていい。第5期以降のメンバー、高橋愛とか道重さゆみは名前を知っているだけで顔が浮かばないし(正直に言うと、道重さゆみ重盛さと美とごっちゃになっていたのだが…)、その他のメンバーは名前すら知らないのだ。それでも、2000年代初頭のハロオタ達の青春を描いたこの映画は非常に面白かった(と共に、こんな最近の事ですらノスタルジーの対象となってしまう事に愕然とする…そりゃ、歳もとる訳だ)。
本作は劔樹人によるコミックエッセイ『あの頃。男子かしまし物語』の映画化作品である。大学院受験に失敗し、音楽で食っていくという夢も果たせず、悶々とした毎日を送っていた主人公の劔は、友人から借りたDVDで松浦亜弥の『桃色片想い』のPVを見て涙を流すほどの感動を覚える。それ以来、ハロプロアイドルにのめり込んでいった彼はある日、「ハロプロあべの支部」というファングループのイベントに参加し、強烈な個性を持ったハロオタ達と邂逅するのだった…
アイドルオタの世界に興味があったので原作も買って読んでみたのだが、驚いたのは映画版が原作にほぼ忠実な作りとなっていた事である。『あの頃。男子かしまし物語』は杉作J太郎命名した「マンコラム(マンガと活字コラムが合体した表現形式)であって、時系列に沿った物語というより、執筆時点の著者が記憶している面白いエピソードを徒然なるままに語っていくエッセイ的な性格が強い。それを一篇の青春映画として再構成するにはそれなりの脚色が必要となりそうなものだが、本作はそうした改変を最小限にとどめ、各挿話をできるだけ忠実に再現しながら、その配置や構成上の工夫によって、青春映画として首尾一貫したドラマを作り上げているのだ。このあたり、末井昭の自伝を映画化した『素敵なダイナマイトスキャンダル』の冨永昌敬による脚本の力が大きいのだろう。しかし、この見事な手際と言ってもいい脚本が、別の問題を生んでいる様にも思えた。
主人公の劔が所属するハロプロファングループ「ハロプロあべの支部」、及び彼らの主催するイベント「恋愛研究会。」の本作での描かれ方に、少なからず違和感を覚えた方も多いと思う。全体に漂うホモソーシャルな空気は当時のアイドルオタを取り巻く環境から仕方がないにしても、「だいたいのことは笑ってしまえばいい」という仲間内で共有されている「ノリ」が、他者を深く傷つけるという可能性に彼らは最後まで無自覚なのだ。それが最もグロテスクな形で表れたのが、仲野太賀演じるコズミンをめぐる公開裁判のシーンだろう。「恋愛研究会。」のメンバー、アール君の彼女である奈緒ちゃんを口説き落とそうとしたコズミンの所業を公開イベントの場で暴き立て糾弾するこの場面は、最終的にコズミンとアール君の和解、という形で決着するものの、奈緒ちゃんという1人の女性の尊厳や人格は完全に無視されている。極めてプライベートで繊細な話を本人の許可も得ずに公の場で笑いものにする主人公たちの態度は、彼らが寝取ったとか寝取られたとか、その様な対象としか女性を見ていない、という事実を示している。ならば、彼らが崇拝する松浦亜弥モーニング娘。もまた、結局は消費の対象に過ぎないのではないか。彼らのアイドルに対する純粋な想いが物語の肝である筈なのに、身近にいる女性に対するこの無神経な扱いが、本作の青春映画としての輝きを曇らせてしまっている様に思う。
この公開裁判の話は確かに原作にも存在するのだが、映画版に比べるとなぜか読んでいてそこまで不快な気持ちにはならない。これはひとえに、原作がエッセイという形式を採用している事と無関係ではないだろう。このエピソードはあまりにもくだらない思い出話のひとつとして紹介されるだけで、物語上そこまでの深い意味がある訳ではない。映画版では割愛されているが、奈緒ちゃんはこの後アール君に愛想を尽かし、三下り半を叩きつける(もちろん、コズミンに乗り換えた訳でもない)。思い余ったアール君は奈緒ちゃんの家に押し入り、別れるぐらいなら殺してくれと騒ぎ立て、そのクズっぷりを存分に発揮するのだが、要するに、原作では作者の劔樹人も含めた当時のハロオタ界隈のダメさ加減を自虐的に描く、という客観的な視点が存在しているのである。Berryz工房の握手会を前に興奮を抑えられず拳で自分の顔面を殴り続ける男や、ハロプロアイドルのイベントやライブに必ず現れる、近鉄バッファローズのユニフォームを着た双子の中年(落合博満似)など、原作ではこうしたアイドルオタの暗部というか、どう考えてもヤベえ奴が面白おかしく紹介されているのだが、つまり、当時のアイドル業界にはこうしたアンダーグラウンドな側面が存在したのである。AKB48の出現によって、その様な地下世界にもスポットライトが当てられ、アイドルオタはアイドルファンとして市民権を得た(もちろん、ヤベえ奴はどの時代にもいるものだが)。だから、ひと口にアイドルオタと言っても、『あの頃。男子かしまし物語』で描かれた時代と現在の間には大きな断絶が存在する。
しかしながら、映画『あの頃。』には原作の自虐的な視点が抜け落ちている。なぜなら、この映画化にあたって「生きがいを失った若者がアイドルの存在によって救われ、様々な仲間との交流を通じて人間的な成長を遂げていく」という、作品全体を貫く物語が用意され、全てのエピソードがそれを引き立たせる為に配置されていくからだ。「あの頃があったからこそ、今の自分がいる」というのは原作でも映画版でも共有されているテーマだが、エッセイの形式を採る原作と比べて映画版はかなりあざとくなったというか、登場する友人もアイドルも、結局は主人公が成長する為の養分に使われるので、いくら何でも都合が良すぎるんじゃないか、と感じてしまう。特に、上述のエピソードは奈緒ちゃんがこの後いっさい登場しなくなる、という面も含めて、男たちの物語に都合よく利用されている、という感が否めない。これは劇映画として物語性を強調したが故に生じた問題と思う。
さて、原作者の劔樹人は「神聖かまってちゃん」の初代マネージャーを務めた後、アイドルにまつわるエッセイを執筆する傍ら、現在はダブバンド「あらかじめ決められた恋人たちへ」のベーシストとしても活動している。つまり、「消費する」存在から「消費される」存在へと「成長」した訳だ。オタクというのは、自分が他者の作ったコンテンツを「消費する」だけで、決して「消費される」側に立つ事はできない、という残酷な現実に常に曝されている。その残酷さに耐えきれず、消費の対象(アイドル、ゲーム、アニメ何でもいい)について言葉を費やせば費やすほど結果的にその対象から遠く離れていく。「ハロプロあべの支部」の面々が定期的にイベントを開催していたのは、自分たちも「消費される」存在になりたい、という欲望の表れだろう。コズミンが私たちに強い印象を残すのも、ガン細胞に侵されていく病床の彼の姿が、ただ「消費する」だけの存在として生き、そして死んでいく、言わばオタクの求道者の様に映るからではないだろうか。

 

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素敵なダイナマイトスキャンダル [Blu-ray]
 

本作で脚本を担当した冨永昌敬が伝説のエロ雑誌『写真時代』の編集長、末井昭の自叙伝を映画化した一作。題材が題材だけにホモソーシャルな空気は『あの頃。』以上だが、富永は壮絶な自殺を遂げた末井の母にスポットを当て、その不可解さを不可解さとして描く事で毒気を中和している。決して、何か結論めいた事を口走ったりはしていないのだ。

渡部亮平『哀愁しんでれら』

エクストリームな結末へと着地する「幸福」をテーマにした現代の童話

監督の渡部亮平はどちらかというと脚本畑の人で、これまで数多くのTVドラマや『3月のライオン』『ビブリア古書堂の事件手帖』といった劇場用映画の脚本を手掛けてきた。映画監督としては2作目となる本作は、TSUTAYAが主催する映像クリエイターと作品企画の発掘プログラム「TSUTAYA CREATORS’PROGRAM FILMS」でグランプリに選ばれた企画が基になっている。とかく原作ものの多い日本の映画界でオリジナル企画の映画を作ろうというこの試みは非常に頼もしい。渡部監督の本作に掛ける熱意も並々ならぬもので、出演を三度も断った土屋太鳳を口説き落として主演に迎えたそうだ。モンスターペアレンツという一風変わったテーマから、監督の敬愛するポン・ジュノ監督『パラサイト 半地下の家族』の様な、社会性とエンターテイメント性を併せ持った映画を作りたい、という想いがひしひしと伝わってくる。実際、本作は邦画によく見られる様なビジュアル的な安っぽさや貧乏くささとは無縁だ。物語の主要な舞台となる豪邸のルックなど、『パラサイト 半地下の家族』にヒケを取らないゴージャスさである。印象的なオープニングから分かるとおり、構図にも1ショット1ショット毎に工夫を凝らしているのが分かるし、ビジュアルは十分に合格点である。それでは、肝心の内容はどうだろうか。
タイトルの通り、本作は全編を『シンデレラ』になぞらえている。開始早々、信じられないほどの災難に次々と見舞われ全てを失った福浦小春(土屋太鳳)。しかし、踏切内で酔いつぶれていた開業医の泉澤大悟(田中圭)をたまたま助けた事から彼女の人生は一変する。大悟は妻に先立たれ、ひとり娘のヒカリを男手ひとつで育ててきた。ヒカリが小春に懐くのを見た大悟は、彼女に理想の母親を見出しプロポーズする。不幸のどん底から一転、小春は玉の輿となり豪壮な大悟の邸宅で幸せな家庭を築いていく筈だったのだが…
と、ここまでが前半。後半からこの絵に描いた様なシンデレラストーリーに不気味な影が差し込み始める。何ひとつ不自由のない暮らしに思えた泉澤家での生活に、しかし小春は不審を感じる様になっていく。大悟の娘に対する執着、ヒカリの度重なる不可解な行動が、彼女の精神を徐々に蝕んでいく。要するに、後妻として嫁いだ先がとんでもない家だった、というペローの『青髭』みたいな展開が待っている訳だが、この手の映画は昔からたくさんあって、例えば本作があからさまに意識しているのはヒッチコックの『レベッカ』だろう。海沿いに建つ家、不気味に漂う先妻の影、閉ざされた秘密の部屋など、『レベッカ』を彩ったゴシックな道具立ては本作でも用意されている。こうした物語は、終盤に隠されていた秘密が明らかになると同時に、それを待ち受けていたかのように惨劇が起き、ヒロインが命からがら逃げだして大団円、というのがお決まりのパターンだ。本作がそこで終わっていれば『シンデレラ』のモチーフも活きてくる。ガラスの靴を拾ってくれた王子様は青髭だった、という訳である。しかし、渡部亮平は物語に更なるツイストを加え誰もが予想しなかったラストへと漂着させていく。そこから『青髭』や『シンデレラ』を超えた、現代的なテーマが浮かび上がってくる、という仕掛けなのだ。
なかなか意欲的な試みだとは思う。しかし、いかんせん色々な要素を詰め込み過ぎた結果、説明不足に陥っている様な気がする。予告編で示されているとおり、小春は最終的に恐るべき罪を犯す事になるのだが、ここまで極端な状況に辿り着くまでの心理的過程が十分に説明されているとは思えないので唐突に見えてしまう。そもそも、ヒカルがなぜ不可解な言動を繰り返すのか、大悟が親としての役割や理想的な家族像に執着するのはなぜか、その理由も登場人物の口を借りて言葉で説明されるだけで具体的な描写が無く、それも通り一遍の内容なので説得力に欠ける。もちろん、具体的な描写や説明の乏しさは、本作を一篇の童話として語るという側面からすれば仕方のないところもあるのだろう。ただ、印象的なエピソードを並べたはいいものの各挿話の繋がりが見えにくいので、全体を貫くテーマが希薄になってしまった。このあたり、物語を前半と後半ではっきりと分けてしまった事に原因があるのではないか。と、色々と言いたい事はあるものの、一見の価値がある力作なのは間違いない。主演の土屋太鳳も非常に難しい役柄を上手くこなしていたと思う。

 

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レベッカ(字幕版)

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  • メディア: Prime Video
 

ダフニ・デュ・モーリエの小説を原作とする、アルフレッド・ヒッチコック監督の渡米第一作。本作と共通するモチーフが散見される。ジュディス・アンダーソン演じるダンヴァース夫人がとにかく恐ろしい。 

 

かしこい狗は、吠えずに笑う

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  • 発売日: 2015/02/27
  • メディア: Prime Video
 

ぴあフィルムフェスティバルに出品され、一躍脚光を浴びた渡部亮平の初監督作品。ポン・ジュノの『ほえる犬は噛まない』とは関係ありません。リリカルな青春ものと思いきや、後半ではとんでもない展開が待ち受けている。理想的と思えた人間関係が反転し地獄絵図へと変わる、という構造は『哀愁しんでれら』と同じ。

カーロ・ミラベラ=デイヴィス『Swallow/スワロウ』

「家」に取り込まれ、やがて「異物」として排泄される「妻」の復讐劇

本作のモチーフとなっている異食症は、爪とか髪の毛とか石とか、とにかく栄養価の無いものを無性に食べたくなる症候で実際に存在するそうだ。そういえば私も一時、爪を噛む癖が治らなかったが、あれも異食症の初期段階だったのだろうか。私に限らず、子供の頃は髪の毛や鼻くそを食べる子供がクラスに必ずいたものだし、氷をガリガリかじる人は大人になっても存在するから、私たちが思っている以上に異食症はポピュラーな症候なのかもしれない。まあ、爪や氷ぐらいなら心配する事もないが、この映画の主人公ハンターの様に釘とか電池まで飲み込む様になると厄介だ。異食症は過度のストレスや精神障害が原因とされ、小児や妊娠中の女性に多いとされる。実際、ハンターが異物を飲み込み始めるのも妊娠が発覚してからなのだが、こうした妊婦が異食症に罹るのは精神的な側面だけでなく、鉄分や亜鉛の欠乏からくる栄養障害が原因とも言われているらしい。映画でもハンターが花壇の土をむさぼり食う場面があるのだが、土というのはミネラルや鉄分などの栄養素が豊富なので不足している栄養を摂取したい、という深層心理が働いているのかもしれない。
ところで、異物であろうが食物であろうが、何かを摂取すれば、必ずそれを排泄する時が訪れる訳で、本作の主人公も摂取と排泄を何度も繰り返す事になる。摂取、つまり異物を嚥下する場面では、ビー玉や押しピンを飲み込むヘイリー・ベネットのエロティックな表情が私たちを魅了してくれるのだが、排泄の場面となると脱糞とか嘔吐とか、どうやっても汚い絵面になるのは避けられない。スタイリッシュな映像を指向する本作において、排泄の場面をどう処理するか興味があったのだが、ヘイリー・ベネットが異物を取り出す為にゴム手袋をはめて便器に手を突っ込んだりなど意外に所帯じみた描写がされていて面白かった。願わくば、変に隠したりせずにもっとウンコとかゲロを真正面から映しても良かったのではないか。実際の話、どんな病気でも大変なのはそうした下世話な側面だったりするのだから。まあ、別にこの映画は異食症患者の実態をリアリスティックに描くのが目的ではなく、むしろある種のメタファーとして用いているので仕方がないのだろう。それでは、本作における異食症は何を象徴しているのだろうか。
ハンターは大企業の御曹司であるリッチー・コンラッドと結婚し、安定した将来を約束されている。しかし、厳格な家父長制の敷かれたコンラッド家の中で、彼女は自分を押し殺し理想的な妻や母の役割を演じ続けねばならない。コンラッド家の価値観にそぐわないと見做された途端、妻は外部から入り込んだ「異物」として排泄されてしまうからだ。また、異食症治療の一環として行われるカウンセラーとの面談において、ハンターは自分が性暴力によって生まれた子供である事を告白する。彼女は望まれない子供として、つまり「異物」として生み落とされたのだと認識しており、それが異食症の発症と関係があるのではないかと自己分析する。
つまり、ハンターは自分自身を排泄されるべき異物と考えているのだ。彼女が嚥下するビー玉と同じく、それは体内で選別され最終的に何の価値もない排泄物として捨てられていく。ハンターの異食症は自分を無用な異物として扱う単一的な価値観への抗いであり、あるいは自己のアイデンティティを獲得しようとする試みでもあるだろう。これまで無価値とされてきた存在を積極的に取り込み、多様な価値観を有したシステムを作り上げる事。それが私たちの目の前に突きつけられた課題である事は改めて述べるまでもない。

最終的に、ハンターは実の父親との対決を通じて(この場面は感涙必死の名場面である)、夫への依存から脱却し己に価値を見出していく。だから、映画の最後にハンターが排泄するのは、今まで彼女の心と身体を縛り付けていた軛なのだ。ハッピーエンドとはとても言えない、暗いエンディングではあるがそこには微かな希望が差し込んでもいる。

 

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透明人間 (字幕版)

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  • 発売日: 2020/12/09
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インシディアス』シリーズのリー・ワネル がユニバーサルのクラシック・ホラーをリメイクした一作。以前に感想も書きました。ジャンルは違えど、両作とも見えない束縛に囚われた女性が自由を求めて苦闘する姿を描いている。