事件前夜

主に映画の感想を書いていきます。

岨手由貴子『あのこは貴族』

階級がもたらす断絶を軽やかに超えて繋がっていく女たち

山内マリコの小説はこれまで『ここは退屈迎えに来て』と『アズミ・ハルコは行方不明』の2作が映画化されているが、『グッド・ストライプス』の岨手由貴子が監督を務めた本作は、原作者がコメントを寄せているとおり、「2021年の日本映画の大収穫の一つ」と言ってもいい出来栄えである。山内マリコ名画座に足繁く通うぐらいのシネフィルだから、この仕上がりは本当に嬉しかっただろう。いや、むしろ嫉妬すら覚えたのではないかと想像する。岨手由貴子は原作の筋書きを忠実になぞりつつ、最小限の脚色と細やかな演出によって原作以上の豊かさを映画にもたらしているからだ。結婚相手を探す主人公の榛原華子が姉の麻友子に男性を紹介してもらう場面や、もう一人の主人公である時岡美紀が地元の同窓会で同窓生からホテルに誘われる場面では、映画版独自の台詞が追加されていて、それらはほんの少しの付けたしであるにもかかわらず、男から受けるマウンティングに女たちがいかにうんざりしているかをある種の痛快さをもって描いている。あくまで華子と美紀にスポットを当て、その他の人々は脇役的な扱いだった原作に対し、映画版では華子の夫である青木幸一郎や華子と美紀を引き合わせるきっかけとなる相楽逸子、美紀の学友である平田里英といった人物にもより細やかな演出が加えられいて、例えば青木幸一郎と時岡美紀、そして相楽逸子が顔を合わせるシャンパンパーティの場面での、マカロンタワーの一番上に乗ったマカロンをつまみ食いした後に、その代わりに赤い花をちょこんと乗せる相楽逸子や、借り物の名刺の裏に連絡先を書く為、気安く青木幸一郎の背中を借りる時岡美紀の印象的な姿も、映画版で追加されたものだ。こうした繊細な描写が人物の造形に厚みをもたらし、「階級」を超えた人と人との繋がりをすんなりと観客に受け入れさせる。
更に、本作のテーマとなっているその「階級」についても、岨手由貴子は「移動」という極めて映画的なモチーフを使って的確に表現している。本作では榛原華子はタクシーを、時岡美紀は自転車を主要な移動手段として利用しているのだが、それは異なる「階級」に生まれた2人の女性の金銭感覚の違いを示しているだけではない。運転手に行き先を命じれば、後は座席に座って目的地に到着するのを待てばよいタクシーを主に利用する華子は、人生もまた目指すべき場所へ誰かが連れて行ってくれるものだと考えている。だから、彼女にとって理想の結婚相手とは理想的な運転手と同じなのだ。これは、目的地へ向けて自らの足で自転車のペダルを漕ぐ美紀と対象的である。自転車に乗る美紀は流れる風を肌で感じ、アスファルトの匂いを嗅ぎ取り、人々の騒めきを聞き分け、やがて自らもまた東京という街の一部となるだろう。華子にとっての「移動」が目的地に着くまで潜り込まなければならない、外部から隔絶された孤独な時間であるのに対し、美紀にとってのそれは、自由で開かれた瞬間を生きる事そのものなのである。
だからこそ、青木幸一郎との結婚生活に悩む華子と美紀が再開する場面が、映画版では非常に重要な意味を持つ。原作では、華子が美紀にLINEでメッセージを送るだけで果たされた再会が、映画版ではタクシーに乗った華子と自転車に乗った美紀が東京の街で偶然に出会う、というドラマチックな展開を通じて実現する。次の目的地に到着するまでの空虚な時間を過ごしていた華子が、東京の街を自らの意思と身体で軽やかに疾走する美紀の姿を車窓越しに発見した時、彼女は初めて目的地に向かうタクシーを途中下車し、予定調和に満ちた世界を抜け出すきっかけを掴み取るのだ。この瞬間、彼女を外部から遮断していた「階級」の壁に風穴が穿たれる。美紀の部屋を訪れた帰り、タクシーを降りて自分の足で歩き始めた華子が、自転車で二人乗りをする少女達に向かって手を振るシーンは、彼女たちの間には既にいかなる障壁も存在しないという事を指し示す。実際は、華子と少女たちの間には車道が横たわり、互いの姿もはっきりとは見通せず、声も聞こえないぐらいに両者の距離は離れているかもしれない。それでも、彼女たちは同じ街に住む者としてーあるいは同じ苦しみと喜びを分かち合う者として―確かな繋がりを共有しているのだ。
それは、離婚から1年後にとある音楽会で再開する事になった華子と青木幸一郎も同様である。吹き抜けの空間を挟んで差し向かいの回廊に立つ華子と元夫は、音楽に耳を傾けながら密やかに視線を交わす。ラストシーンに置かれた見つめ合う2人の切り返しショットは、彼女たちの短い結婚生活の間では遂に果たせなかった、心と心の交流がようやく始まりつつあるのだ、と予感させる。