事件前夜

主に映画の感想を書いていきます。

庵野秀明『シン・エヴァンゲリオン劇場版』

ひたすら増殖し続けてきた「エヴァンゲリオン」の物語を終わらせようとする、並々ならぬ強い意志

言わずもがなの話だが、1995年10月に放映がスタートしたTVアニメシリーズ『新世紀エヴァンゲリオン』は『宇宙戦艦ヤマト』『機動戦士ガンダム』と並び、日本のアニメにとって最も重要な作品のひとつである。同じく1995年に起きたオウム真理教による地下鉄サリン事件と共に、80年代から続いてきたオタク文化に引導を渡す役割を果たしたとも言っていいだろう。特撮映画やロボットアニメ、SF小説や聖書などあらゆるジャンルからの引用が散りばめられた自己言及的な物語は、日本のサブカルチャーの総決算とも言うべき唯一無二の存在感を未だに放ち続け、監督の庵野秀明が自負するとおり、以後12年間エヴァより新しいアニメは存在しなかったと言っても過言ではない。
当時、大学生だった私も1994年に創刊された『Quick Japan』の「エヴァンゲリオン」特集などを読み漁っていたが、TVシリーズが最終回を迎えると急速に熱が冷めていった。別に、毀誉褒貶を生んだ最終話の内容に憤慨した訳ではない。作り手としては色々と考えていたものの上手くまとめきれなかった、という事なのだろうし、そもそも上手くまとめる事がこの作品に相応しいのか、という問題もある。それよりも、最終回の内容や残された謎をめぐって、皆が自分なりの解釈を議論し続けるのが気持ち悪く、嫌でたまらなかった。というのも、それらの言説が『新世紀エヴァンゲリオン』という作品に仮託して、自分について語っている様に見えたからだ。その様な自意識の垂れ流しを誘発する要因が作品の中にあったのなら、さっさと忘れ去られてしまえばいい、とすら思った。だから、その後の「エヴァンゲリオン」については、TVシリーズとは全く異なる結末を描いた旧劇場版も観ていない。今回の新劇場版で久しぶりにエヴァの世界を訪れた訳である。
完結編に備えてAmazon Primeで「序/破/Q」をおさらいしたが、改めてビジュアル面での圧倒的なクオリティには圧倒させられる。そもそも、TVシリーズ版は納期に追われていた為か、エピソードによって作画の質にバラツキがあり、中にはデッサンが狂っているのではないかと思うものすらあった。費やされる予算と時間が格段に増えた新劇場版では、TVアニメシリーズの原画や資料を再利用しながらも全ての絵が新たに描き起こされ、当然ながら作画の質は一定に保たれている。肝心のアクションシーンについても、新たにデジタル撮影と3DCGが採用された結果、エヴァ使徒の動きは更に複雑かつ精緻になり、それらを縦横無尽に動き回るカメラが的確に捉えていく。1シーン、1カット毎に途轍もない労力が費やされている事が素人目にも分かる。まさに、今の時代に合わせてリビルド(再構築)された「エヴァンゲリオン」と呼ぶに相応しい。
ただ、(一部で改変されているとはいえ)TVシリーズ版のダイジェストとも言える内容だった「序」や「破」が、テンションの上がる熱い展開だったのに対し、映画版オリジナルのストーリーが語られる「Q」は、TVシリーズ後半を思わせる陰々滅々とした話が続き、またこんな感じになるのかあ…と正直げんなりしたのも事実である。案の定、「Q」についてはこれぞエヴァ、と賛辞を贈る者がいる一方、爽快感に乏しい鬱展開には批判が集まった様だ。「Q」では「破」で引き起こされたニアサードインパクトから14年が経った世界が舞台となるが、浦島太郎のごとくひとり取り残された主人公、碇シンジの周囲の人々が「序」「破」を観てきた者からはまるで理解不能の、感情移入を拒む様な言動を繰り返す。「Q」で観客が置いてけぼりにされたと感じるのはこの点だと思うのだが、それは「破」で引き起こされたニアサードインパクトが世界に、人の心にどの様な影響を及ぼしたか、という点について(登場人物の口を借りてぼんやりと説明されるものの)具体的な描写が全く無かった点に起因する。「破」と「Q」の間で起きたであろう絶対的な変質を、シンジ同様に観客も実感できない。その意味で「Q」のモヤモヤした展開は、シンジの内面世界がストーリーのレベルにまで投影されたもので、観客はシンジの懊悩を否応なく追体験させられる訳だ。これはいかにも「エヴァンゲリオン」らしい仕掛けだとは言える。
完結編である『シン・エヴァンゲリオン劇場版』の序盤において、ニアサードインパクトの避難民たちが住む村の生活を事細かく描き、綾波レイが農作業に従事する姿まで挿入したのは、前述した「Q」の欠落部分を補填する事で、葛城ミサト式波・アスカ・ラングレーの変質に説得力を持たそうと意図したものだろう。ここで初めて、観客は四部作の中で据わりの悪かった「Q」の物語の意味を知る事になる。あまり細かい点にまで立ち入るつもりはないが、この完結編に感じるのはTVシリーズ版を端緒にあらゆるジャンルに増殖していった「エヴァンゲリオン」の物語を終わらせようとする、並々ならぬ強い意志なのだ。もしくは、「エヴァンゲリオン」の物語に触れた人々全てを満足させようとするサービス精神、と言えばいいだろうか。従って、藤田直哉「主観的な印象としては、10点満点中で350万点ぐらいの作品なのだが、『新劇場版』から入り、『破』が一番好きだという観客にとっては意味不明で3点ぐらいの作品なのではないかと危惧」するのは全くの杞憂というか大きなお世話というか、なぜこの手の論者は優越感に浸りたいが為にファンを分断する様な事を言いたがるのか、と腹が立ってくるのだが、本作が庵野秀明の言葉通り「誰もが楽しめるエンターテイメント映像」に仕上がっている事は保証しよう。
映画の終盤では怒涛の「説明」が待っている。過去作に散りばめられた謎の欠片は悉く拾いあげられ、ひとつひとつあるべき場所に嵌められていく。もちろん、最初から全てが計算され尽くしていた訳ではないだろう。中には強引に嵌め込まれたピースもあるし、最終的に出来上がった全体図もまた極めて歪なものではある。更に言えば、絶対的な父権を中心とした家族の物語だった『宇宙戦艦ヤマト』と父親に反抗する放蕩息子を主人公とする『機動戦士ガンダム』に対し、父の不在を描いていた筈の『新世紀エヴァンゲリオン』が、典型的な「父殺し」の物語に帰結した事に物足りなさを感じなくもない。しかし、これだけ物語の説明に時間を費やしながらも、最後まで動く絵としてのアニメーションの面白さを損なっていないのは驚異的である。この圧倒的な「絵」の前では、もはや「物語」などどうでもいいではないか、と思わてくれる。
女性キャラクターのセクシュアルな描写については少し気になった。新キャラクターの真希波・マリ・イラストリアスも含め、いくら何でもあざと過ぎるのではないか。もちろん、これも「サービス」のひとつではあるのだろうが、1990年代ならいざ知らず、今の風潮には若干そぐわない様に思ったのだが、その点について指摘した意見をついぞ聞かないのは不思議である。

 

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「誰もが楽しめるエンターテイメント映像」であるとはいえ、さすがにこの3作を観ていないとチンプンカンプンだとは思う。