事件前夜

主に映画の感想を書いていきます。

ケネス・ブラナー『ベルファスト』

どんなに悲惨な状況でも、人は愉しみや喜びを求め続ける

ケネス・ブラナーロイヤル・シェイクスピア・カンパニー出身の舞台俳優としてキャリアを積み重ねながら映画にも進出し、主にシェイクスピア作品の映画化でこれまで高い評価を得てきた。しかし、そうした文芸作品の合間にもっと娯楽色の強い作品を何本も撮っている。最近では『オリエント急行殺人事件』や『ナイル殺人事件』など、アガサ・クリスティ作品を監督していたのが記憶に新しいが、まあクリスティの作品はよく舞台劇にもなるから演劇畑のケネス・ブラナーが監督を務めるのは分からなくもない。推理劇『スルース』の再映画化を試みたのも同じ理由だろう。しかし、演劇とは全く無関係な、例えば『エージェント:ライアン』や『マイティ・ソー』といったアクション大作まで手掛けているのは謎である。職人監督に徹している、という事なのだろうか…それにしては、アクション・シーンの演出があまり上手くないのだが。
ベルファスト』は北アイルランド出身であるケネス・ブラナーの幼少期の体験が反映された、半自伝的作品である。全編モノクロでの撮影という事もあり、アルフォンソ・キュアロン『ROMA/ローマ』を思い出す人も多いだろう。ケネス・ブラナーが1960年、アルフォンソ・キュアロンが1961年生まれだから、この2人はほぼ同年代だ。生まれ育った地こそ遠く離れているものの、彼らの記憶には北アイルランドとメキシコの歴史、両国民が直面せざるを得なかった血と暴力の痕跡がはっきりと刻み込まれている。だから、彼らの追憶は決して甘いノスタルジーだけには終わらない。しかし、だからといって悲惨な体験だけに過去が埋め尽くされている訳でもないのだ。
北アイルランドにおけるプロテスタント系住民とカトリック系住民の対立―それがやがてテロリズムの勃興と権力による苛烈な弾圧へと繋がっていくのだが―その悲劇性を『ベルファスト』の主人公であるバディ少年は当然ながら把握できていない。幸いにも彼はプロテスタントの一家に生まれたので、暴徒化したプロテスタント系住民たちに襲われる事もない。彼にとっては、大人たちが騒ぎ立てている宗派間の対立などより、想いを寄せるクラスメートと少しでも近づきになる事の方が重要なのである。
『ROMA/ローマ』に『大進撃』や『宇宙からの脱出』といった映画が登場した様に『ベルファスト』にも数多くの映画が引用されている。『恐竜100万年』『チキ・チキ・バン・バン』『真昼の決闘』『リバティ・バランスを射った男』…おそらくは、当時のケネス・ブラナー少年が夢中になったタイトルなのだろう。カトリック派との共生を望むバディ少年の父親と、プロテスタント系過激派の男が対峙する場面では『真昼の決闘』のテーマ曲が流れ、西部劇を思わせる切り返しのカットが挿入される。この過激派の男の名が『OK牧場の決斗』でデニス・ホッパーが演じた悪役から採られている事を考え合わせれば、ケネス・ブラナーの意図は明白だろう。バディ少年にとって、ある日突然にやって来た暴徒たちは西部劇の悪党であり、父親はそれに敢然と立ち向かう正義の保安官なのだ。彼はいつの間にか、TVでいつも観ていた西部劇の世界に入り込んでしまったのである。暴徒たちの侵入を防ぐ為に築かれたバリケードは、ベルファストの街を外部から隔絶する。一家がアメリカへと旅立つまでの間、ベルファストはバディ少年の想像力のキャンバスとなり、モノクロ撮影の中で例外的にカラーで映し出される映画の様に、鮮やかな色彩で染め上げられていく。
それは現実と想像がごちゃ混ぜになった、いかにも子供らしい世界の捉え方かもしれない。しかし、バディ少年にとってはそれこそが過酷な現実に対抗する唯一の手段だった。その流れで登場するのが前述のマイティ・ソーアガサ・クリスティの名前である。不穏さと緊張の漂う街角でバディ少年が読むアメリカン・コミック。経済的に窮乏しつつある両親からクリスマスにもらった、アガサ・クリスティ推理小説。これが実体験に基づく描写なのか、それともファン向けの楽屋オチなのかは分からない。それでも、どんなに悲惨な状況にあっても些細な愉しみを求め喜びを見出そうとするのが人間なのだ、というケネス・ブラナーのメッセージは伝わってくるし、2022年4月の今だからこそ、私たちはその事実を忘れてはならないと思う。

 

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