事件前夜

主に映画の感想を書いていきます。

クリント・イーストウッド『クライ・マッチョ』

「葬送」から「越境」へー自らの弱さを引き受けること

クリント・イーストウッドの映画について語る時、どうしても彼の年齢に触れざるを得ない。何しろ、御年91歳である。もちろん、100歳を過ぎても映画を撮り続けていたマノエル・ド・オリヴェイラみたいな例もあるが、製作、監督、主演も兼任し、更に毎年1本新作を公開する男など世界中どこを探してもいないだろう。本作は批評家筋からの評価はそれほど高くなかった様だが、その批評家たちの中で91歳まで仕事を続けられる者などほとんどいない事を考えれば、もはやイーストウッドは評価がどうとかいった地平を遥かに超えた場所にいると言っていい。
そして、この『クライ・マッチョ』だが元ロデオスターの晩年の姿を描く、という意味で『ブロンコ・ビリー』の続編っぽくもあり(遠景ショットにカントリーソングが重なるオープニングも似ている)、少年を引き連れた男が警察に追われながら目的地を目指すロードムービーとしてのプロットは『パーフェクト・ワールド』を思い起こさせ、もちろん老人と少年の交流という意味では『グラン・トリノ』のイメージも重なってくる。とにかく、これだけのキャリアを積み重ねてきた映画人だから、様々な過去作品との共通点を探してみたくなるのだが、しかし、今作が最も似ているのは2018年の佳作『運び屋』である事は間違いない。『グラン・トリノ』以降の監督作で主演も務めたのがこの2作しかない事は重要だ。『グラン・トリノ』でイーストウッドは、自らのタフガイ的イメージを相対化し最後には葬ってみせた。アカデミー賞4部門に輝いた『ミリオンダラー・ベイビー』を最後に監督業に専念するつもりだったイーストウッドが、再びカメラの前に身を晒したのは自らに対する―あるいはアメリカ映画に対する―「葬送」としての意味もあったのだろう。
しかし、『運び屋』と『クライ・マッチョ』のイーストウッドは『グラン・トリノ』から方針を転換した様に見える。自らの老いと向き合い、これまでのキャリアを自己パロディ化する手法は同じだが、虚構としての「死」を自らに与えて「葬送」するのではなく、「越境」という行為によって生きたままスクリーンから退場する姿を衆人の前に晒す様になったのだ。
そもそも『グラン・トリノ』の最後で、コワルスキーが銃を抜かないまま悪党たちに撃ち殺された時、その役を演じていたクリント・イーストウッドという男の「マッチョ」なイメージが葬り去られたかと言えばそうではない。隣に住む中国系移民一家を守る為、自らの命を差し出すその姿は、むしろ私たちのイーストウッド像を補強するものでもあっただろう。彼はこれまでもヒーローとして生身のまま何度も暴力に立ち向かい、全身に負うた傷をカメラの前で隠そうともしなかった。『グラン・トリノ』のコワルスキーが最期に選んだのが暴力の否定であったとしても、それもまたイーストウッド流の美意識に回収され得るものなのだ。
しかし、『クライ・マッチョ』のイーストウッドは、これまで自らの身体に刻み付けていた傷をエドゥアルド・ミネット演じる少年の身体へと移し変え、「マッチョ」の称号すら鶏に継承させる。そして、迂回と寄り道を繰り返す長い道程の果てに、アメリカ国境の向こう側に留まり続ける事を選択するのだ。このラストが、『運び屋』のそれと対応しているのは一目瞭然だろう。主人公アールはある偶然から麻薬の運び屋となり、金の為にそれを続けてしまう。最終的に彼は刑務所へと収監されてしまうのだが、そこで最後に見せた穏やかな表情は、彼が高い壁によって社会と峻別された、向う側の世界に安寧の地を見出した事を指し示す。平安を求めて静かに去っていく老いた男。ここにイーストウッド自身の心情が吐露されているのは間違いない。自らの命と引き換えに少年を救った『グラン・トリノ』のラストに比べ、それは何と弱々しい事か。そして、何と正直である事か。
イーストウッドは自らのキャリアを額縁に入れて飾っておくような男ではない。過去の栄光で現在の老いや衰えを隠そうとする男でもない。『クライ・マッチョ』のイーストウッドにははっきりと老いの影響が見て取れる。歩くのも遅いし、台詞回しにもいちいち間が空く。もちろん、ロデオもスタント任せで『ブロンコ・ビリー』の見る影もない。そうした弱さを全身にまとい付かせながら、イーストウッドは自身の似姿の様な人物を生み出し、彼らをこの世から未知の世界へと「越境」させていく。クリント・イーストウッドは、自らの老いを、そして死の予感をフィルムに定着させる事で、映画人としてのキャリアを更新し続けているのだ。

 

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