事件前夜

主に映画の感想を書いていきます。

ヴァーツラフ・マルホウル『異端の鳥』

原作はユダヤポーランド人作家、ジャージ・ニコデム・コジンスキーによる小説で、原題は『The Painted Bird 』という。現在は同題で松籟社から翻訳が出ているが、『異端の鳥』という邦題はこの映画の為に付けられたものではなく、1972年に角川書店から初めて翻訳が出版された時の題名である。今ではどれも絶版だが、ニコデム・コジンスキーの小説は日本でもいくつか翻訳されていて、その中の1作『庭師 ただそこにいるだけの人』は、ハル・アシュビーによって『チャンス』というタイトルで映画化されている。映画版『異端の鳥』の公開を機に、コジンスキーの小説が復刊されるかと期待していたのだが、現在の出版状況では厳しいのだろう。

第二次世界大戦中、ドイツ軍によるユダヤ人迫害が苛烈を極める中、コジンスキーはホロコーストから逃れる為に両親と生き別れになる。そのショックで、彼は5年間口が利けなくなったというが、こうした生い立ちが『異端の鳥』の主人公に投影されているのは間違いない。その為、同作は半自伝的な作品として世間から受け止められた様だが、その後、小説に書かれた内容が事実でないと分かり、大変な非難を引き起こした。後に作者自身が語っている様に、この小説はあくまでフィクションとして書かれてはいる。しかし、そこにはドイツ占領下のポーランドでコジンスキー少年が目の当たりにした凄惨な光景がはっきりと刻み込まれていた筈で、特にポーランドの農民たちがナチスによるユダヤ人狩りに進んで協力していた、という内容は多くの読者に衝撃を与えたに違いない。一部の人々による『異端の鳥』へのヒステリックな反発は、この作品を完全な作り話と決めてかかる事で、自国の負の歴史そのものを否定したい、という心理が働いたのだろう。特に、コジンスキーは社会主義体制下のポーランドからアメリカへ亡命した人物であり、祖国にとっては既に邪魔な存在だった(実際、彼はCIAと接触していたと噂されている)。羽に色を塗った鳥を群れに返しても、仲間の鳥たちから排斥されてしまい、二度と群れに帰る事はできない。原題『The Painted Bird 』の由来ともなったこのエピソードは映画にも登場するが、コジンスキー自身も、群れから見放された異端の鳥として生きざるを得なかったのだ。

ここまで読んで、「なんか気の滅入りそうな映画だなあ…」と思われた方がいるかも知れないが、実際その通りである。映画は、主人公の少年(名前は伏せられている)が、森の中を何者かに追われている場面から始まるのだが、追手に捕まるや否や思わず目を背けたくなる様な酷い目に遭わされる。しかし、こんなところで目を背けていては、3時間ずっとスクリーンから目を逸らしていなければならないだろう。文字通り、この場面はまだ序の口であって、親と生き別れ流浪の旅を続ける少年を、その後も凄まじい暴力が襲う事になる。あまりにも救いのない展開に、人によっては途中でギブアップしてしまうかもしれない。

少年が第二次大戦下のヨーロッパで地獄を見る、というプロットはソ連戦争映画の傑作『炎628』を想起させるが、あの作品の場合はナチスによる民間人の虐殺を扱っていたので、どんなに酷い展開が続いても「やっぱりナチスはとんでもない悪者だったんだなあ」という心の拠り所は確保されており、いま眼にしている非道な行いは、自分とは全く異なる世界に住む人間のやった事なのだ、と思い込む事ができた。しかし、寓話性の強い『異端の鳥』では、ナチスの存在感はむしろ希薄で、一般庶民たちの無慈悲な所業を描く事に重点が置かれている。明確な悪役が用意されていないので、観ている側も気持ちの逃げ場が無い。劇中の少年と同じく、次第に追い詰められた気持ちになってくる。人間は状況次第で、ここまで残酷になる事ができるのだ。それは人間が本来的に持つ弱さの表れであり、もちろん私たちも同じものを共有している筈である。
だから、この映画で描かれる弱者とは、ホロコーストから逃れて旅をする少年の方ではない。その少年を前にした瞬間、人々は己の欲望に支配され理性を失い、あさましい獣へと成り果ててしまう。前述の鳥だけではなく、本作には山羊や鼠、馬など様々な動物が登場するが、もはや人間たちとそれを区別するものなど、この世界では失われてしまっているのだ。終盤に登場するラピーナという女が己の性欲を満たす為に山羊とまぐわうのは、その象徴と言えるだろう。確かに、少年は暴力の対象とはなるものの、その悲劇性が強調される訳ではなく、己の弱さに呑み込まれた人々を見据える視線としての役割を担わされている。それは映画におけるカメラ、小説におけるペンの如き存在であり、少年から名前と言葉がはく奪されているのはその透明性、非在性を担保する為だ。だからこそ、少年がバスの窓を指でなぞって、自らの名前を書きつけるラストシーンに、私たちは感動せざるを得ない。それは、人間が人間でなくなってしまった世界を潜り抜けた後に、もう一度自らの存在を獲得しようとする試みであり、父親の肌に刻み込まれた収容所の識別番号―それはまさに人間を家畜へと変えてしまう記号であろう―への、精いっぱいの抗いなのである。

 

あわせて観るならこの作品

 

チャンス (字幕版)

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本文で述べたとおり、コジンスキーの小説は1979年にも映画化されている。ハル・アシュビー監督によるこの作品は、コジンスキー自身が脚本も手掛けた。シニカルな『フォレスト・ガンプ/一期一会』といった内容の寓話だが、ピーター・セーラーズ晩年の好演が堪能できる。 

 

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ナチス占領下のヨーロッパで少年が体験する地獄巡り。あまりにも救いの無い展開がトラウマ映画として取り上げられる本作だが、実はその狂騒的な語り口はドストエフスキー的というか、ロシア文学的な味わいもある。