事件前夜

主に映画の感想を書いていきます。

ウェス・アンダーソン『フレンチ・ディスパッチ ザ・リバティ、カンザス・イヴニング・サン別冊』

ウェス・アンダーソンの映画は、いつか読んだはずの物語を思い出させてくれる

ウェス・アンダーソンの新作、個人的に非常に楽しみにしていたのに感想を書くのを忘れていた…別につまらなかったとかそういう訳ではないのだが…最近、私生活でつらい事が多すぎて何もやる気が起きない。コロナ禍で勤め先の業績も下降を辿る一方で、先日の決算賞与もクソみたいな金額だった。もらえるだけマシじゃないか、と言われるかもしれないが、その賞与をあてにしてゲームやBlu-rayや本を買いまくっていたので実質マイナスである。世の中にはYou tuberとかいう奴らが他人の作ったコンテンツを消費するだけの動画で大金を稼ぎいでいるのに、こっちは毎日あくせく働いてはした金しか手に入らない。当然、こんな金にもならないブログやSNSなんて後回しになる訳だ。
そんな私からすると、常に自分の美学を貫いて作りたいものを作り評論家からも高い評価を受け、それでいて興行的にも成功する、というサイクルを何年も続けているウェス・アンダーソンは大変うらやましい存在である。今のハリウッドで彼の様な恵まれた立場にいる映画監督がどれほどいるだろうか。その意味で、作風は全く異なるがウェス・アンダーソンヴィスコンティの様な貴族的な作家だと言えるかもしれない。
『フレンチ・ディスパッチ ザ・リバティ、カンザス・イヴニング・サン別冊』という、おそろしく長い題名は、本作を1冊の雑誌になぞらえているからだ。アメリカ中西部で発行されている「ザ・リバティ、カンザス・イヴニング・サン」という架空の新聞の、これまた架空の別冊として定期刊行されていた「ザ・フレンチ・ディスパッチ」という雑誌は、創刊者であり編集長だったアーサー・ハウイッツァー・Jr.が死去した事により廃刊を迎える事となった。その最終号に掲載された1つのルポ、3つのストーリーがそのまま劇中の挿話として描かれる。要するに、4つのエピソードからなるオムニバス形式の映画なのだが、冒頭部分と結末、更に各挿話の幕間には「ザ・フレンチ・ディスパッチ」の編集長アーサーと編集者たちのユーモラスなやりとりが挿入され、物語の額縁的な役割を果たす。メタフィクションというと大げさだが、いかにもウェス・アンダーソンらしい、「物語を語るという事」にスポットを当てた映画になっている訳だ。
確かに、ウェス・アンダーソンの映画というのは、かつてどこかの雑誌で読んだ物語、といった雰囲気がある。それを自分がいつ読んだのか、何という雑誌に載っていたのかはっきりとは思い出せないのに、奇妙な読後感だけがずっと残っていて、ふとした拍子にその記憶が鮮やかにが甦ってくる。けれども、溜め込んだ雑誌のバックナンバーを引っ繰り返したところで、そんな記事も小説も見つける事ができない。結局、自分が本当にそれを読んだのか、あるいは知らぬ間に作り上げた偽りの記憶なのかも分からなくなってくるのだが、それでも、確かに私はその物語を知っている、という確信めいた記憶だけが残り続けるのである。
何でもウェス・アンダーソンの自宅には過去50年分の「ニューヨーカー」のバックナンバーが保管されているそうで、それらが彼にインスピレーションを与えている事は間違いないだろう。けれども、それは雑誌に掲載された記事や小説から直接的に映画の着想を得ている、という事でもない。いつか読んだ筈の物語が遺した印象が心の奥底に積み重なり、やがてその一部が意識の表層に浮かび上がってくる。しかし、その記憶は長い年月の中で徐々に変質し、あるいは他の記憶と混ざり合い、既に原典とはかけ離れた、私だけの、あなただけの物語になっているかもしれないのだ。『フレンチ・ディスパッチ』の編集者たちが執筆した記事にも同じ事が言えるだろう。アートやグルメ、学生運動についてのレポートが、いつしか思いもよらぬ方向へと話がずれていき、戦争や犯罪、愛についての荒唐無稽な物語が繰り広げられていく。あまりにも自由で奔放な記者たちの原稿に編集長のアーサーは驚きと戸惑いを覚えながらも、決して書き直しを命じる事はない。物語とは語り手によって幾らでも変質し、無限のバリエーションを生み出していくものなのだ。誰かの語る物語を受け入れるとは、その人の存在を受け入れる事と同義である。ウェス・アンダーソンの映画の心地良さとは、常に誰かを迎え入れ、受け入れようとする、その寛容さから生じているのではないか。

 

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