事件前夜

主に映画の感想を書いていきます。

「映画秘宝」について―崩壊する目利きと好事家たちのコミュニティ

映画雑誌「映画秘宝」の編集長、岩田和明氏が「映画秘宝」に(正確には岩田編集長が出演したラジオ番組の内容に)批判的なツイートをした女性に対し、「死にたい」とか何とか、気色の悪いDMを送り付けた件で大きな問題になっている。

岩田氏の行った事は脅迫、恫喝、変質者、何と言われてもしようがない話である。精神的にまいってたんじゃないか、過労じゃないか、みたいな弁護をする人(岩田氏本人も含めて)もいる様だが、そんなもん知ったこっちゃない。過労で精神的に参ってるならわざわざエゴサーチなんかするなよ。

ただ、岩田氏が「映画秘宝」公式アカウントでDMを送った事や、被害者から双葉社にクレームがあった事を考えるとこれは岩田氏個人の問題ではなく、映画秘宝編集部及び双葉社の問題と考えた方が良い。岩田氏の謝罪文や町山智弘、柳下毅一郎が相談役を務める合同会社「オフィス秘宝」による声明でも、この件と双葉社は無関係である事を強調している。町山氏によると洋泉社から切られた「映画秘宝」を双葉社から復刊させるにあたり、どの様なトラブルがあっても「オフィス秘宝」が責任を持つ、という約束があったらしいが、問題を起こした編集部が責任を持つのは当たり前として、だから発行元の双葉社に責任が及ばない、などというのはあまりにも楽天的な考えで、そんな事を本気で信じているのは社会人として見識が無さすぎると言わざるを得ない。今回の件はDMの内容もそうだが、被害者の女性が双葉社に抗議を申し入れた後、岩田氏の独断で本人に直接電話を掛けた、という点にも問題がある。いくら謝罪の為とはいえ、被害者の感情をいっさい無視した様な対応であり、この事が事態をより深刻化させているのだが、ここからもDMの件を双葉社から(要するに「映画秘宝」という雑誌から)引き離し、当人同士の(密室的な)協議によって解決しようとする態度が感じられる。問題を矮小化して雑誌に対するダメージをできるだけ避けたい、という思惑が透けて見えるのだ。

映画秘宝」が再生するには今回の事態を深刻に受け止め、誠実に対応し、再発防止に努めるしかないのだが、その手始めにDMを公開した被害者を愉快犯呼ばわりしたジャンクハンター吉田の様な人間との関りを一切断ち切った方がいい。氏は自分なりに「映画秘宝」の行く末を心配しているのかもしれないが、彼のツイートを読む限り、「映画秘宝」周辺にはこんな程度の低い人間しかいないのか、というネガティブな印象しかもたらさない。「映画秘宝」はジャンクハンター吉田氏と当誌はいっさい無関係です、という声明を一刻も早く出すべきだ。

ところで、この騒動を受けて「映画秘宝」周辺をとりまくホモソーシャルな空気感を指摘する声が上がっている。しかし、だからといってそうした価値観を振り払うのはなかなか難しいのではないかと思う。そもそも「映画秘宝」という雑誌がこれだけの支持を受けてきたのも価値観を共有する人々をターゲットに絞った戦略が成功したからである。それは別に「映画秘宝」が性差別主義者に読まれているとかいう事ではなく、そもそも「映画」の中に希少ながら存在する「秘宝」を発見し、紹介するという姿勢そのものがはらむ問題なのだと思う。雑誌「映画秘宝」の前身となったムック版「映画秘宝」の原型である「悪趣味洋画劇場」(雑誌版「映画秘宝」の二代目編集長だった田野辺尚人が編集を担当している)の前文にはこう書かれている。

 

この本に紹介されている映画たちは(中略)ロクな評価もされず、アッという間に忘れ去られたモノばかりだ。(中略)その多くはアッという間に1本100円の投げ売りビデオコーナーに回される仕打ちを受けるような映画たちだ。

 

要するに、無数に存在する映画の中でも多くの人から無視され、冷遇されてきたジャンル映画をピックアップし、過剰な思い込みとマニアックな知識を込めた文章で熱く語る、というのが「映画秘宝」の一貫した姿勢であり、そこにはZ級映画ばかり観て楽しんでいる「オタク」が抱え込まざるを得ない自虐的な自己認識と、逆に自分の好きなものを理解しようとしない世間に対する防衛心理が内在しているだろう。おそらく、町山智弘が編集長を務めていた頃の「映画秘宝」は、(「SCREEN」の読者に代表される)ハリウッドの二枚目俳優目当てに映画を観る女性や、(「CUT」の読者に代表される)映画をファッションのひとつとして消費する人々を仮想敵としていた筈で、だからこそルチオ・フルチジェス・フランコなど、一般の人が見向きもしないゲテモノ映画を好んで取り上げてきたのである。

確かに、その意味で「映画秘宝」の果たした功績は大きいと言えるだろう。世界中で大量に作られている映画の、ほんの一部しか観ていない私たちにとって、低予算だが工夫に富んだ佳作や、あるいは大作映画には無いキッチュな魅力を持った迷作を紹介してもらう事は大変有意義だからである。だが、こうした「秘宝」探しはやがて、日頃から大量の映画を観て、映画的教養を蓄えた一部の人々だけに許される秘儀めいたものに変わっていく。そうしたヒエラルキーを下支えしていたのが、レンタルビデオ文化であった事は間違いない。大量のビデオが陳列棚に並ぶレンタルビデオ店は、映画がこれまで培ってきた歴史そのものである。その広大な海の底から誰もまだ観ていないお宝を発掘するには目利きとしての知見が必要だろう。発掘されたお宝は同じ様な嗜好を持つ人々に珍重され、やがて語り継がれていく。そのサイクルを繰り返すうちに、好事家たちの築いたコミュニティは非常に閉鎖的、排他的なものになっていった。彼らが好んだエログロ要素の多いジャンル映画は、男性的な欲望に裏打ちされたものが多いので、女性からの支持は受けにくく必然的にミソジニーを呼び起こす事にもなるだろう。

クエンティン・タランティーノの様に、発掘された宝をパッチワークの様に組み合わせて、「SCREEN」や「CUT」の読者にもウケそうな映画を作る人間まで現れた事を考えれば、こうした好事家たちは世界中に存在するし、彼らが創造した映画史というものも確かに貴重な財産である。だが、サブスクリプション・サービスが発達し、ゲテモノ映画だろうがハリウッド超大作だろうが韓国映画だろうがインド映画だろうが全てが横並びに並列され、頼まなくてもレコメンドというかたちで紹介されていく現代において、「映画秘宝」の様な、目利きと好事家たちの相互依存的なネットワークがもはや無効になってきたのではないか。今となっては、ほとんどの映画ファンはレンタルビデオ店に行かずにサブスクリプション・サービスで済ましているし、そこで配信されない映画など存在していないのと同じなのだ。つまり、誰も観ていない映画は観る価値がない、だから「秘宝」など存在しない、という身も蓋もない話になってきたのである。その様な風潮がいいかどうかはともかく(全くいいとは思わないが)、今回の騒動は「映画秘宝」が作り上げてきたコミュニティがこうした外部からの視線に今や耐えられなくなった事の証ではないか。

折しも、新型コロナウイルスの影響で映画館で映画を観る、という事の意味が限りなく希薄になっている昨今、自分たちのコミュニティを守ろうと躍起になっている一部の人々、これを好機と捉えてコミュニティの外部から攻撃的に攻め立てる一部の人々の姿を見て、色々と曲がり角に差し掛かっているのではないかと思った。