事件前夜

主に映画の感想を書いていきます。

濱口竜介『ドライブ・マイ・カー』

テクストを読む、という行為を通じてゆるやかに織り上げられていく物語

本作はカンヌ国際映画祭で日本映画としては史上初となる脚本賞の栄誉に輝いた。原作は『女のいない男たち』と題された、「いろんな事情で女性に去られてしまった男たち、あるいは去られようとしている男たち」をテーマとする短篇集に収められている。別にこの本に限らなくとも村上春樹はいつも「女性に去られてしまった男たち」を描いてきたと思うのだが、まあそれはいい。以下では、監督と脚本を務める濱口竜介が文庫本にして50頁の短篇小説をどの様にして179分の長編映画に膨らませていったのか、原作小説に沿いながら詳しく見ていきたい。
『ドライブ・マイ・カー』というタイトルから分かるとおり、本作は何よりもまず車の映画であり、原作小説の黄色いカブリオレから変更された赤いサーブ900が東京や広島、北海道を静かに走っていくする姿が何よりも強く印象に残るのだが、サーブの持ち主である俳優兼演出家の家福悠介が、緑内障の影響で交通事故を起こして車の運転ができなくなった為、渡利みさきという女運転手を雇う、というくだりは映画も小説も同様だ。ただ、原作では愛車の修理を依頼した知人に運転手を紹介された、という風に説明されていたのが、映画版では広島で開催される演劇祭の主催者に斡旋された、という風に改変されている。些細な変更点に見えるが、悠介が参加する事になったこの演劇祭というイベントそのものが映画版独自の要素なのだ。悠介はこの演劇祭でチェーホフの「ワーニャ伯父さん」の演出を任される事になり、映画では芝居の稽古風景や俳優たちとのやり取りに尺が割かれ、そこに送迎を担当するみさきとの車中での会話場面や、悠介の亡き妻、家福音とのかつての生活を描いた回想場面が挿入されていく、という構成になっている。短篇小説という事もあって悠介とみさきの車中での会話劇というかたちを採っていた原作に対し、映画版は登場人物が増え、物語の舞台が広島、東京、北海道にまで広がった事もあり、長編映画のシナリオに相応しくよりドラマッチックな展開が用意されていると言えるだろう。
公式サイトに書かれているとおり、短編小説から映画のシナリオを膨らませるにあたって、濱口竜介は前述の『女のいない男たち』に収録されたその他の短篇、「シェラザード」「木野」のエピソードを物語の中に取り込んでいる。例えば、「シェラザード」は性行為の後に不可解な物語を話す主婦とそれを聞く男の話だったが、その関係性がそのまま悠介とその妻である家福音に投影されている(語られる物語の内容もほぼ同じ)。悠介が音の浮気現場をたまたま目撃してしまう、という展開は「木野」から採られたものだろう。小説版「ドライブ・マイ・カー」の悠介は、妻の不貞を確信していたものの、実際に目撃した訳ではないからだ。「木野」は主人公の木野が妻との離婚を機にジャズバーを開店し、そこで不可解な出来事に遭遇する、といういかにも村上春樹らしい幻想譚だが、小説の最後に木野が漏らす悔恨の言葉が、映画『ドライブ・マイ・カー』では悠介の言葉として使われている。
つまり、小説版「ドライブ・マイ・カー」をベースに「シェラザード」や「木野」のエピソードを象嵌したのが映画『ドライブ・マイ・カー』のストーリーだと言えるのだが、もちろん象嵌とは素材をそのまま嵌めこむ訳ではなく、必要に応じて彫刻や研磨を施し、細部が全体の意匠を形作る様に配置していく事の筈だ。それでは、『ドライブ・マイ・カー』において「シェラザード」や「木野」のエピソードはどの様な細工を施され、どの様にシナリオの中に嵌め込まれたのか。そして、そこから浮かび上がる全体の意匠とは何なのだろうか。
「私」と「他者」の間に広がる暗く深い断裂。その裂けめに架けられた「コミュニケーション」という名の危うくも脆い橋。本作を鑑賞し終えた観客の多くが「私」と「他者」をめぐるこうした困難に思いを馳せた筈だが、もちろん、これは濱口竜介の過去作品も含むあらゆる創作物が扱ってきたテーマのひとつだろう。『ドライブ・マイ・カー』ではそこに他者の言葉をひとつのテクストとして読む、という視点を導入し、テクスト(=他者の言葉)を読んだ者が徐々に変質していく姿を「演技」と捉える事で、演じる事と生きる事をシームレスに繋げていく。これは村上春樹の原作でも描かれていたテーマだが、本作は実際に俳優たちが演技をする映画、というメディアの特性上、より深い洞察がなされていると感じた。
象徴的なのは、上述した「シェラザード」のエピソードだろう。性行為の後、朦朧とした意識の中で物語を紡いでいく音はしかし、翌朝になると自分が何を語ったのかまるで覚えていない。妻の話した内容を記憶しておくのは悠介の仕事であり、夫の記憶を頼りにシナリオを作り上げる事が、家福音という脚本家の創作方法である、と映画では説明されるのだが、つまり音は自分の作り出した物語をありのままのかたちで知る事はできず、それを記憶し語る、夫の言葉として聞かねばならない。当然ながら、その話は夫による改変や省略、といった編集が加えられているかもしれない(実際、映画では悠介が音から聞いた物語を忘れたと嘘をつき、隠蔽する場面がある)。自分の言葉が他者の言葉に置き換えられ、それを再び自分の言葉として書き直す。こうした迂回路を通って家福音の脚本は作られていく。
もちろん、悠介の立場からすれば妻の語る物語そのものが未知のテクストである。その妻が芝居の台詞を吹き込んだカセットテープを車中で聴く事が悠介の習慣となっており、それは音が脳卒中で急逝した後も続けられる。チェーホフの書いた「ワーニャ伯父さん」の台詞を、第三者である妻が読んでいるという意味で、そのカセットテープは二重の意味での他者性を帯びる事になるだろう。録音された声の中には意図的に沈黙部分が設けられており、それが悠介が演じるワーニャ伯父さんの台詞が入る隙間、という事なのだが、この空白に自分の言葉を滑り込ませる事で(これもまたひとつの象嵌である)、悠介は「ワーニャ伯父さん」というテクストを完成させていくのである。他者の言葉を媒介に自らの物語を紡ぎあげる、という意味で家福悠介と音は全く同じ立場にいるのだ。
戯曲というテクスト(=他者の言葉)を台詞(=自分の言葉)として語り直し新たな物語を作り上げていく事。それは「演劇」の本質であり、「ワーニャ伯父さん」の稽古で悠介が執拗に本読みを繰り返すのも、未知のテクストを何度も潜り抜けた先に、自分の言葉が見つかると考えているからだ。初めから「演技」をしようとする俳優の高槻を、だから悠介は厳しくたしなめる。言葉とは、物語とは、何も無いところから不意に生じるものではなく、あくまで他者の言葉との交流の中でゆるやかに織り上げられていくものなのだ。
それは俳優や演出家、脚本家に限った話ではない。他者に囲まれ、自分の姿を見失いそうになっている私たちにも共有されるべき視点である。悠介は「ワーニャ伯父さん」の演出を通じて、妻の言葉をひとつのテクストとして受け入れる事を学ぶ。妻が語った物語、妻が読み聞かせた戯曲だけではなく、何気ない日常のふとした瞬間に発せられた他者の言葉の全てが、私たちにとって未知のテクストなのだ。だから、悠介は音の言葉をチェーホフの戯曲の様に読む事で、自らの言葉を獲得していくだろう。「木野」の主人公の独白(モノローグ)が、『ドライブ・マイ・カー』では悠介とみさきの対話(ダイアローグ)として書き直されている理由もそこにある。その言葉は虚空に吸い込まれるのではなく、他者の胸に届き、そこからまた新たな言葉が生まれてゆく。映画のラストシーンが示しているのは、新たな言葉たちが織り上げた未知の物語の始まりなのである。

 

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別の意味で色々と注目を浴びた作品だが、これもまた「女のいない男たち」の物語だった。