事件前夜

主に映画の感想を書いていきます。

キム・ドヨン『82年生まれ、キム・ジヨン』

私の家は共働きである。子供が小さい頃は妻が育児休暇を取り、職場に復帰した後も小学校を卒業するまでは時短勤務を続けている。妻の勤務先は一部上場企業で労働組合もあるから、出産した後の女性の働き方について、ある程度融通が効く様だが、それでも職務によっては職場復帰が難しい場合もあるだろう。また、私が勤める様な中小企業だと、そもそも多様な働き方を可能にする環境が整っていない、という事情もある。私の妻が結婚後も働いているのは、私がどうしようもない低収入のクズだから、というのもあるが、彼女自身が働きたい、という意志を持っている事が大きい。だから、彼女は専業主婦に対しては時おり厳しい視線を向ける。あの人たちは家事だけやってりゃいいんだから楽なもんだなあ、といった風にである。私も、例えば昼飯を食べにファミレスへ立ち寄った際など、専業主婦と思しき人たちがランチを食べながら友達とお喋りをしているのを見て、羨ましく思ったりする。
かくして、世の専業主婦たちは男性はもちろん女性からも、楽をして生きているいいご身分、と馬鹿にされ蔑まれていく訳だ。この映画の中でも、公園で子供をあやしていたジヨンが、昼休み中のサラリーマンたちに寄生虫呼ばわりされる場面がある。彼らは、ジヨンが夫や親族からのプレッシャーによって、働く事を諦め子供を生んだ事や、日々の育児に疲れ切っている事を知らない。「専業主婦」というレッテルだけで人を判断し、ジヨンがどんな葛藤や苦しみを抱えているかを理解しようとしない。もちろん、通りすがりの他人にそこまで想像力を働かせる人間は少ないと思うが、こうした無理解が積み重なり、社会の常識や規範となって、ジヨンを始めとする女性たちを縛っていくのである。当然、善良な常識人である夫デヒョンも姑も、その常識に従ってジヨンに「母」とか「妻」「嫁」といったレッテルを次々に貼っていく。本作は、1982年生まれのキム・ジヨンという一人の女性が、全身を埋め尽くす様に貼られたレッテルを一枚、また一枚とはがしていき、その下に隠された自分自身を発見するまでの物語である。
こうしたレッテル貼りというのは厄介なもので、「家事は女性がするもの」という決めつけが常識化していった結果、例えば職場でも来客時のお茶汲みは女性社員がする、といったルールが平然とまかり通る様になる。結婚前のジヨンを描く過去パートでは、ミーティング前に給湯室でお茶を入れている彼女の姿が描かれるが、別に女性がお茶を出さなければならない、と社内規則に書かれている訳ではないのに、社員たちは誰も疑問に思っていない。未婚だろうと既婚だろうと、女性たちは職場ですら「妻」であり「母」である事を義務付けられているのだ。
こうした社会的ラベリングはもちろん、男性に対しても向けられていて、特に国民皆兵制度を敷く韓国社会では、男性中心的な価値観が日本よりも強固なのかもしれない。日本の場合は、その手のマチズモがほとんど死に絶え、その代わりに「他人は得をして自分だけが割を食っている」といった類の、嫉妬と怨念にまみれた妄想が社会的な対立を煽るという醜悪な状況になっているのだが、まあそれは置いておこう。
韓国であろうとどこであろうと、男性中心主義の社会構造の中で、女性たちは「妻」や「母」としての役割に甘んじ、その運命に抗おうとする者はいつも(ジヨンの姉ウニョンの様に)変人扱いされ、叩き潰されてきたのである。だから、ジヨンの病を単なる解離性障害の一種、と捉えてはならないだろう。それは今まで男たちに虐げられ可能性の芽を摘まれてきた女たちの、声であり叫びだからだ。今まで女たちが耐え続けてきた時間の集積を歴史と呼ぶのであれば、ジヨンの身体はまさにこの瞬間、歴史に貫かれたのである。私たちは、ジヨンの口を借りて溢れ出るその声に耳を傾けねばならない。「母」や「妻」というレッテルの下に隠された「彼女」の名前を知る事で、私たちの間に横たわる断絶を乗り越えられるのだと信じて。
最後に、本作は韓国で130万部のヒットを記録し、日本でも大きな話題を集めたチョ・ナムジュの小説の映画化作品だが、私は小説は未読の為に原作との比較ができなかった。本作のラストにはあるメタフィクショナル(というと大げさな気もするが)な仕掛けが施してあり、小説だとそこがより活きてくるのだろうな、とは思ったが、1人の女に宿った複数の女たちの姿を演じ分けるチョン・ユミの姿はまさに映画でしか味わえない醍醐味である。脇を固める俳優陣の演技も非常に良かった。

 

あわせて観るならこの作品

 

タリーと私の秘密の時間(字幕版)

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  • 発売日: 2019/04/03
  • メディア: Prime Video
 

こちらも育児ストレスに悩む主婦の物語だが、ベビーシッター文化が根付いているアメリカらしい物語となっていて面白い。以前に感想を書きました。

 

グレタ・ガーウィグによる名作小説の映画化。ラストの仕掛けが本作と似ている。以前に感想も書きました。