事件前夜

主に映画の感想を書いていきます。

ゾーヤ・アクタル『ガリーボーイ』

 

ガリーボーイ [Blu-ray]

ガリーボーイ [Blu-ray]

  • 出版社/メーカー: 株式会社ツイン
  • 発売日: 2020/02/19
  • メディア: Blu-ray
 

いやあ、やっぱりこういう映画は良いね。サクセス・ストーリーで一番大事な事は、観終わった後に「よし!俺も明日から何かを始めよう!」という気にさせてくれるかどうかでしょう。その点、この作品が我々に与えてくれる勇気は計り知れない。そうだ!どこにだってチャンスは転がっている!俺もガリーボーイを見習って、新しい人生をスタートさせるんだ!と、映画館を出た時は確かにこんな気分になっていた筈なのだが、1日経った今では自分の未来に全く希望が見えず絶望的な気分に陥っているのだった…
インド在住のラッパー、Naezyの半生を映画化したこの作品、主人公ムラドを含めたヒップ・ホップ・フリーク達の憧れであり、目標とされているブルックリン出身のラッパー、NASがエグゼクティブ・プロデューサーを務め、エンディング・テーマも手掛けている。
要するに、90年代に音楽業界を席巻したギャングスタ・ラップを材に採った成り上がり物語のインド版、といった趣である。アメリカであれば人種差別や貧困、それらを背景として蔓延る暴力やドラッグが、こうした音楽のバックボーンと理解されているだろうが、本作ではインドが抱える社会的矛盾、未だ根強く残る身分意識と経済的格差、厳格な家父長制に基づく家族観、宗教的な対立と差別などが物語の背景として描かれている。ちなみに、主人公の父親が妻がいるにもかかわらず、若い女を家に呼んで同居を始める、という信じられない展開が序盤にあるのだが、もちろんインドでも重婚は禁止されているので、正式には愛人という扱いなのだろう。この傍若無人な振る舞いは主人公一家がムスリムである事が関係しているのかもしれないが、正直よく分からなかった。
ただ、主人公の青年ムラドはムンバイのスラム街出身とはいえ、そこまで劣悪な環境に置かれている訳ではない様だ。スマートフォンを持ち、バスに乗ってムンバイ市内の大学に通うぐらいの経済的余裕はある(映画冒頭、親の眼を盗んで交際を続けている恋人サフィナとの距離を少しずつ近づけ、やがて隣同士に座るバス車内のシーンは素晴らしい)。スラム街に住む雇われ運転手の身であっても、苦しいながら子供を大学に通わせるぐらいの生活ができる、というのは経済的に大きく発展したインドにおいて、人々の生活レベルが底上げされた事の証なのだろう。
しかし、様々な階層の人々が集う大学で教育を受ける、という恵まれた環境が、逆にムラドを苦しめる事になる。大学で目にする生活や文化は彼が決して手に入れる事ができず、傍で指をくわえて見ているしかないものなのだ。その事を端的に示すのが、ムラドが恋人サフィアと待ち合わせる橋の上やアパートの屋上から眺めるムンバイの景色である。雲を衝く様な高層ビルが整然と立ち並ぶその足下には、貧しいバラック小屋が無秩序にひしめき合う。六本木のビジネス街と山谷のドヤ街を強引に繋ぎ合わせた様な、この異様な街並みのショットを見るだけで、ムラドと彼が憧れる生活の間に、いかに高い壁が立ち塞がっているかを観客は実感できる。
誰も超える事のできない、越えようともしない壁。それは、インドを遠く離れた私たちの生活にも存在する筈だ。その壁を打ち壊す為に、唯一与えられた武器がヒップ・ホップなのである。ムラドがボロボロのノートに書き貯めたリリックは、怒りや悲しみ、喜びがないまぜになった彼自身の言葉だ。その言葉がビートに乗った瞬間、ムラドはラッパー「ガリーボーイ」へと転生し、現状への怒りと共に自由への希求を高らかに唄う。単なる現実逃避の手段でしかなかった音楽が、自己表現そのものへと昇華されるかけがえのない瞬間を描いた本作は、スクリーンを見つめる私たちに、今すぐ何かを始める事を強く促す。そう、お前の時代はきっと来る、とガリーボーイは何度も繰り返すのだ。

 

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