事件前夜

主に映画の感想を書いていきます。

M・ナイト・シャマラン『オールド』

オチの出来不出来に左右されない美点がシャマランの映画にはある筈だ

大傑作『ミスター・ガラス』で自身のキャリアを総括したM・ナイト・シャマランの新作は原点回帰とも言うべき、ラストに驚愕の真相が待ち受けるサスペンス/スリラーである。原作は、ピエール・オスカー・レヴィが著した『SAND CASTLE』というグラフィックノベル。父の日のプレゼンにこの本を貰ったシャマランがその内容にほれこみ、映画化の企画がスタートしたらしい。時間が異常なスピードで流れるビーチに誘われ、急速に身体が老いていく不可解な現象に見舞われた家族を描く、というプロットは原作に忠実だが、そこに映画オリジナルの謎解き要素を盛り込んだ本作は、いかにもシャマランらしいどんでん返しがラストに待ち受けている。
シャマランの映画はいつもそうなのだが、今作もこのオチの評判がすこぶる悪い。いわく「意外性に乏しい」「矛盾が多い」「伏線が無いので唐突過ぎる」云々。現代の観客は「納得できるエンディング」や「緻密に伏線の張られたストーリー」を映画に求めているのであり、シャマラン映画のごとき「取って付けた様なエンディング」や「いきあたりばったりのストーリー」など評価に値しない、という事なのだろう。シャマランは本作について『トライライト・ゾーン』の影響を受けたと公言しているが、本作に限らず彼は常に『トワイライト・ゾーン』の原作となったリチャード・マシスンやヘンリー・スレッサーの短篇小説、奇抜な設定や意外な結末で読者を驚かせるアイデア・ストーリーの持つテイストを長編映画で再現しようとしてきた訳で、それは今も昔も全く変わっていない。その中で『シックス・センス』の様に綺麗にオチの決まった作品が絶賛され、『ヴィレッジ』の様に脱力するしかないオチの作品が酷評を浴びる、という事をずっと繰り返してきたのである(それこそ、パルプ雑誌に掲載されたSFやホラーの短篇小説の様に)。そうした観点から見れば、今作のオチは『ヴィレッジ』に近いのかもしれない。
しかし、本作の大部分が2020年9月26日から11月15日の間、新型コロナウイルス流行下のドミニカ共和国で撮影された事を忘れてはならない。未知のウイルスとの緊張関係の中で作られた本作のラストが、昨今の新型コロナワクチンをめぐる肯定派と否定派の論争―それは論争などと呼べるものではないかもしれないが―を予見していたのは明らかである。少なからず不安を抱きながらワクチンを接種した私たちが、このビーチに迷い込んだ時、その身体はいかなる変容を遂げるのか、あるいは何も起こらずその不安が杞憂だったと証明されるのか、それは誰にも分からないのだ。
と、いうのはまさに私が取って付けただけの解釈であって、シャマランはおそらく、観客をあっと驚かせたいという子供じみた意図しか持っていなかったのだろう。結局、映画のオチなんてその程度のものなのだ。観客の教養や好奇心に応じて幾らでも深読みできるし、単なる与太話に問題意識が込められていると強弁する事も可能なのである。映画のオチを面白がったり馬鹿にしたりするのはもちろん観客の自由だが、オチの出来不出来だけで映画の全てを分かった気になり、評価を下す様な愚だけは避けねばならない。映画とはそれほど単純に割り切れるものではなく、多様な複雑さをはらんだ芸術様式の筈だ。
最後に、私が本作で最も気に入った点を述べておきたい。24時間で一生を終えてしまうぐらいのすさまじい速度で老化が進む人々を映像として表現する場合、VFX技術を駆使して急速に皺が増えたり肉がたるんだりする姿を描く、というのが誰しも考える方法だろう。ビジュアル面での特殊技術が映画のウリになる時代はとうに過ぎ去ったが、それなりの見せ場にはなる筈だ。しかし、シャマランはカメラのフレームイン/アウトという極めて単純なやり方でこの問題を解決してしまう。要するに、カメラが被写体を写していない間に老いが進んだ事にして、身体が変容していく様ははっきりとは見せないのだ(一部、『遊星からの物体X』みたいな人体変形描写が挿入されるが)。その映像的トリックを成立させる為の流麗なカメラワークと的確な構図が、本作に極めて古典的な佇まいを付与している。映画のオチの出来不出来に左右される事のない、その上品さこそがシャマランの映画の何よりの魅力だと、私は思う。

 

あわせて観るならこの作品

 

オーストラリアで実際に起きた女生徒失踪事件に材を採った小説をピーター・ウィアーが映画化。シャラマンも本作を意識していたらしいが、確かに少女達を飲み込まんとする岩山の威容は、『オールド』に登場する岸壁と共鳴している。