事件前夜

主に映画の感想を書いていきます。

李相日『流浪の月』

社会的マイノリティに対するあまりにも鈍感な感傷の垂れ流し

2020年本屋大賞を受賞した凪良ゆうの小説を原作にした李相日の新作は、ある幼児誘拐監禁事件の犯人と被害者の少女が心を通わせていく様を描いた問題作である。例えば、スタンリー・キューブリックナボコフの小説を映画化した『ロリータ』など、過去にも少女に対する恋愛というテーマを扱った作品は幾つか存在した。もちろん、『ロリータ』もまたそのスキャンダラスな題材が発表当時、物議を醸した訳だが、本作『流浪の月』にはキューブリックナボコフが有していたシニカルなユーモアは一切感じられない。非常にセンシティブなテーマを真正面から扱っている点は評価するものの、その際に必要な配慮が作り手として十分だったかと言えば首をかしげざるを得ない。
事件の加害者を松坂桃李、成人した被害者を広瀬すずというスター俳優が演じている事からも分かるとおり、本作では2人の「交流」が終始、肯定的なものとして描かれていく。19歳の大学生が公園で見かけた9歳の少女を自宅に招き、保護者の同意もなく住まわせる、というのは私たちの倫理観から考えればかなり異常な行為に映るし、松坂桃李演じる佐伯文は家内更紗というこの少女にはっきりと女性的魅力を感じている訳で、人によっては映画の導入部から嫌悪感を抱きかねないだろう。しかし、本作では世間から嫌悪される佐伯文と家内更紗の関係性が、むしろその異常さ故に聖性を帯びていく事になる。凪良ゆうの原作小説を私は未読だが、10年以上BL(ボーイズラブ)小説を書いてきた作者にとって、「どこまでも世間と相いれない人たち」を描く事こそが作家的テーマであるらしい。BL小説におけるゲイが登場人物の「特殊」な関係性を際立たせる為の抽象的な概念であると同様に、『流浪の月』における小児性愛もまた、文と更紗が世界から孤絶した存在である事を強調する為に導入されている。
先日、自民党の国会議員が参加したセミナーで「同性愛は依存症」などと書かれた冊子が配布され問題となったのを覚えている人も多いだろう。もちろん、同性愛は決して病気ではないし、それを治療の対象として捉える事が重大な人権侵害である事は言うまでもない。ところが、小児性愛者については逆に「ペドフィリア」という病名を付す事によってその人権を守っているのだ。単なる性的嗜好を指す「ロリータ・コンプレックス」という言葉が侮蔑を伴った呼称として用いられている事は、本作でもマスコミを始め人々が佐伯文の事を「ロリコン」と呼び、指弾している事からも分かる。それに対し、文は自らの小児性愛が単なる「性的嗜好(=ロリコン)」ではなく、生まれつきの病から発現したものであると更紗に告白するのだが、この病が精神疾患のひとつである「ペドフィリア」ではない事に注意すべきだろう。成人になっても第二次性徴期が訪れない、という症状から、彼の病気おそらくはカルマン症候群であると思われるが、この病を物語に導入した作り手側の利点は2つある。ひとつは、第二次性徴期が訪れていないのだから、文と更紗の間に性的な交渉などある筈がない、という理屈で2人の関係性の聖性をより強調できる、という点。もうひとつは、第二次性徴期の訪れていない成人男性を少年と見做す事で、彼の更紗に対する思慕を純粋なものとして描ける、という点である。
私はこうした描き方に非常に危ういものを感じた。作中では具体的な病名がはっきり示される訳ではないが、第二次性徴期が訪れない男性には性欲が生じないとか、精神も少年のままなので少女を好きになってしまう、という説明はあまりにも短絡的に過ぎはしないか。この様な設定が本来の意味での小児性愛者が小説や映画の主人公に相応しくないから、という判断で為されたものならば、そこには二重三重の差別を呼び込む陥穽がある様に思う。
逆上して暴力を振るい、別れを告げられると絶望して自殺未遂を遂げる更紗の恋人や、常日頃から理想の男性との再婚を夢見ていた挙句、あっさりと一人娘を捨てて新しい恋人と行方をくらましてしまう更紗の同僚など、本作には様々な問題を抱えた人物が登場する。しかし、どれをとってもその描き方は紋切型の域を超えず、しかも全て佐伯文と家内更紗の関係がいかに純粋で、汚れの無いものであるかを強調する為の道具として要請されているのだ。社会的マイノリティに対してここまで鈍感な感傷を垂れ流す作品が「純愛」の物語として多くの人々に受け入れられ、全国の映画館で上映された事に驚きを禁じ得ない。

 

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ロリータ (字幕版)

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いかにもキューブリックらしい、登場人物を突き放すドライなタッチが本作の肝。何でもかんでもシリアスに描けばいいというものではない。