事件前夜

主に映画の感想を書いていきます。

佐藤快磨『泣く子はいねえが』

いや、これは良いですよ!
企画が是枝裕和という事で、まあそれっぽい静かなタッチのホームドラマなのかな、と予想していたが、本作のバカバカしいユーモアセンスは是枝作品には見られないものだ。脚本にせよ演出にせよ、本作が商業映画デビューとなる佐藤快磨監督は、既に独自の方法論をしっかりと確立していると思った。非常に将来が楽しみな新人の登場である。
この映画には、今という時代をサヴァイヴしなければならない私たちへの切実なメッセージが込められている。しかし、それを大真面目に語ってしまう事の恥ずかしさ、というのも確かにあって、それが「外し」を多用した本作の演出に繋がっているのだろう。例えば、「運動会のビデオ」のエピソードを見ればいい。今は亡き父に対する懐かしさと、その父が遺した製材店を守り切れなかった悔恨。残された息子たちが抱く複雑な感情が交錯するこの場面において、その中心にあるのは父が遺した「運動会のビデオ」のあまりにもバカバカしい内容なのである。このビデオが引き起こす笑いによって、映画はウェットな感傷に浸りきる事なく、息子たちにとって父の死がどの様なものであったのかを生々しく描く事に成功している。
深刻な話をした後に下らない冗談で混ぜっ返してしまう様な、マジにならないといけない場面でマジになりきれない態度。それは、本作の主人公たすくが妻のことねから愛想を付かされた原因でもある。確かに、なまはげ祭の手伝いに駆り出され泥酔した挙句、全裸になまはげの面だけという姿で走り回り、それがTVで全国放映されてしまった事が、彼が故郷を追われ、妻と離婚する事になった直接的な原因ではあるだろう。しかし、映画の冒頭、真剣な話をしている最中に笑ってごまかそうとしたたすくが、逆にことねを怒らせてしまう場面から分かるとおり、彼は他者との摩擦を避け、その場しのぎの対応を繰り返して、逆に相手を怒らせてしまうタイプの人間なのである。マジにならないといけない場面でマジになるのが「父」の資格ならば、たすくは最初からその資格を有していない。なまはげが子供の間違いを糺す「父性」の象徴であるなら、「父」たりえない彼がなまはげ祭で失態を犯すのは同然の帰結なのである。
たすくが既に父を喪っている事、彼の兄が未だに独身である事を考えれば、本作の「父」は常に不在である、と言っていいだろう。それでは、映画の終盤で再び描かれるなまはげ祭の意味を、私たちはどう捉えるべきなのだろうか。たすくは友人の協力を経て、再度なまはげに扮し、元妻と愛娘が住む家に押し掛けていく。それは、2年前に「父」たる権利をはく奪された男が、その権利を取り戻そうとする試みなのだろうか。そうではない。その直前、たすくはことねに再婚の意志は無いとはっきり拒絶されているのだし、忍んで出掛けた保育園のおゆうぎ会では、娘の顔すら見分けが付かなくなった自分に気づき、2年という時間の長さと重みに打ちのめされてもいるからだ。既にことねは再婚を決め、娘と共に新たな「父」を迎え入れようとしている。たすくは家族にとっても故郷にとっても、もはや部外者となってしまったのだ。
なまはげとは悪事を諌め、災いを祓いにやってくる来訪神と言われているが、監督の佐藤快磨はこのしきたりについて「子供をただ『泣かせる』ということではなく、親が子を『守り』、子を守ることで男の心を『父親にする』行事なのではないか」と取材する中で考えたという。であるなら、なまはげ姿のたすくがことねの家に押し掛けたのは、なまはげを怖がる娘をことねの再婚相手に守らせる事で父親にしてやる、つまり「父性」の移譲の為だったと捉える事ができるだろう。自らが「父」になる事を諦めた瞬間、彼は初めてなまはげになれたのだ。仮面越しに響きわたるたすくの咆哮は、来訪神=部外者たる事を運命付けられた男の痛切な悲哀に満ちている。

 

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本作の企画を務めた是枝裕和監督によるホームドラマ。「取り替え子」という古典的なテーマを現代に蘇らせる事で、父親たちが抱える困難を描く。