事件前夜

主に映画の感想を書いていきます。

レイナルド・マーカス・グリーン『ドリームプラン』

怒りと折り合いをつける事―ウィル・スミスの平手打ち

ちょうどこの文章を書いている頃、本作でアカデミー賞主演男優賞を受賞したウィル・スミスが授賞式の席上でプレゼンターのクリス・ロックにビンタを喰らわず、という騒動が持ち上がった。脱毛症に悩む妻が丸刈りにしているのをジョークのネタにされた事が原因らしい。まあクリス・ロックは2016年のアカデミー賞授賞式でもアジア人に対する差別的なジョークを披露し、アジア系アカデミー会員から抗議を受けていたのに、なぜまたこんな奴にプレゼンターを頼むんだ、と主催者側の見識を疑ってしまうのだが…それにしても、このウィル・スミスの行動を称賛する様な発言が、ネット界隈で散見されるのには本当にうんざりした。なぜ、世の中にはこんなにおっちょこちょいのバカが多いのだろうか。何も私は、暴力は絶対にいけない!などと言うつもりは毛頭ない。家族の疾病を笑いものにされて怒る、といのは当然だし、許せないからぶん殴ってやりたいという気持ちも理解できる。しかし、私たちの社会は建前上、暴力を否定する事で成り立っているのだ。その為、暴力に対する衝動は社会通念と必ず対立する。個人の衝動と社会的な規範、そのどちらを選ぶかという判断は個人の責任において為されるしかない。もちろん、社会通念と対立する道を選んだ者にはペナルティが課され、最終的には社会から排斥されざるを得ない。ウィル・スミスはあの場では個人的な怒りを優先させたが、やがて後悔し受賞スピーチで謝罪の言葉を述べた。この謝罪によってウィル・スミスは社会へと復帰する道を選んだのである。だから、部外者が「家族を馬鹿にされて黙っていたら男じゃない」とか「夫として勇気のある行為だ」とか何とか言って称賛する様な話ではないのである。自分に同じ様な状況が訪れた時に、自分自身の判断で正しいと思う道を選べばいい。無責任な言辞を並べ立てている連中は、正しさというものについて真剣に考えた事がないのだろう。
『ドリームプラン』の中に、こんな場面がある。娘たちに下品なジョークを浴びせられたリチャード・ウィリアムズが、街のチンピラに殴りかかって逆に返り討ちに遭う。怒りの収まらないリチャードは拳銃を片手にチンピラたちを追い、物影に隠れてその一人に照準を合わせる…しかし、彼が引き金を引くより早く、抗争に巻き込まれてチンピラは射殺されてしまう。その瞬間、リチャードは我に返る。もし、リチャードが銃を発砲していたら、彼の怒りがいかに正当なものであろうと、社会と対立する事になっただろう。これまで自分が生きてきた世界に背を向け、くだらない抗争で命を落としていくチンピラたちと同じ道を歩む事になる。偶然に起きた発砲事件によって、リチャードはあり得たかもしれない未来を垣間見る事ができた。だからこそ、彼は社会と対立する道を選ばず、社会を変革する道を模索し始めるのだ。
個人と社会の間に横たわる溝を埋め、折り合いを付けていく事。その奇矯な振る舞いばかりが注目されるリチャード・ウィリアムズは、この点について徹底的なリアリストだったと言える。ジュニア大会で連戦連勝を続ける愛娘ヴィーナスに対し、リチャードは謙虚になる事の必要性を繰り返し説く。彼はディズニーの『シンデレラ』を娘たちに見せ、身の程をわきまえる事が大切なのだと繰り返す。また、テニスよりも学業を優先させ、早いうちからテニスに専念させるべきだ、というコーチの意見に耳を貸そうとしない。彼の態度は非常に頑固で独善的に映り、妻や娘たちからの反発も招く。彼はなぜ、ここまで頑なな態度を取り続けたのか。もちろん、若くしてプロデビューを果たしたプレーヤーが陥りやすい燃え尽き症候群を懸念した事もあるだろう。娘たちにテニスを離れても常識や教養のある人間に育ってほしい、という想いもあったのかも知れない。だが、やはりここにはアメリカにおける人種問題が影響を及ぼしているのではないか。
娘をテニスの世界チャンプに育てる、というリチャードの「計画」には、白人社会に対する警戒も織り込まれていただろう。白人プレーヤーがほとんどだった当時のテニス界で、黒人である自分たちが成功を収める事にリチャードは非常な緊張感を持って臨んでいた筈だ。劇中においても、テニスコートに立つ黒人の少女に対してあからさまな敵意が向けられる一方、その反動として彼女をスターに祭り上げ、取り込もうとする白人たちが群がってくる。彼らはウィリアムズ一家の味方の様な顔をしているが、黒人がテニスをする事を決して許した訳ではない。ただ、飛び抜けた才能を持つ者を「例外」として認め、彼らの社会に居場所を確保してやろうとしているだけなのだ。2019年のアカデミー賞受賞作『グリーン・ブック』もまた、白人たちに「例外」として認められたジャズピアニスト、ドン・シャーリーの物語だった(もちろん、こうした構造はアカデミー賞を始めとする映画界にも存在する筈だ)。リチャードがスポンサーやコーチ達と待遇をめぐってハードな交渉を続けたのも、彼らが「例外」としての「居場所」ではなく、「地位」を獲得する為に必要だったからだ。
『ドリームプラン』とはいかにも日本らしい邦題だが(現代は『King Richard』)、その甘い響きの裏には虐げられてきた者の決死の覚悟が隠されている。

 

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