事件前夜

主に映画の感想を書いていきます。

エミリオ・エステベス『パブリック 図書館の奇跡』

安倍、総理やめるってよ。

という訳で、ここ最近メディアは次の総理大臣の話題でもちきりになっている訳だが、それはそれとして、8年弱にわたって続いた安倍政権の総括もいずれ必要な時期が訪れるだろう。いわゆるアベノミクス政策によって企業の収益が大幅に改善し、雇用率が上昇した事がその功績として挙げられるが、反面、経済格差が広がり、社会の分断を招いた、という批判も多い。ただ、安倍政権下で貧困率が上昇したという訳ではなく、貧困率はほぼ横ばいのまま、富裕層の所得が更に上昇した事によって更に格差が広がった、というのが実態だろう。こうした経済構造はアメリカも同様だが、アメリカではホームレスの増大が非常に深刻な問題となっており、全米のホームレス総人口は57万人にも上るという。いくら人口が違うとはいえ、日本のホームレス人口は1万人弱なのだから、この数字には驚かざるを得ない。当然、この状態では支援の手が行き渡る筈もない訳で、本作では、シェルターからあぶれてしまったホームレス達の避難先として図書館の存在がピックアップされている。図書館は誰でも利用できる施設だし、冷暖房は完備され、インターネットや書物で必要な情報を調べる事もできる。仮のシェルターとしてはもってこいの施設だろう。
そこで問題となってくるのが、映画のタイトルにもなっている「パブリック=公共」とは一体何なのだろうか、という問題である。エミリオ・エステベスが演じる主人公の図書館員は、あるホームレスを強制的に退去させた事から権利の侵害だとして告訴されてしまう。彼がホームレスを追い出した理由は、その体臭について利用者からの苦情が相次いだ事による。公共施設であるからには、あまねく全ての人にサービスを提供しなければならない。しかし、特定の利用者の振る舞いが他の利用者に迷惑を掛け、結果的に多くの人の権利を侵害していると見做された場合には、しかるべき措置を講じねばならないだろう。ただ、その迷惑の原因が体臭という、本人にはどうにもならない事であった場合にはどうすべきなのだろうか。

2019年、台風19号襲来時に東京都台東区の避難所で、ホームレスの被災者が受け入れを拒否される、という事態が起きた。これは避難所が区民を対象としている為、住民票の無いホームレスを受け入れる訳にはいかない、というのがその理由らしいが、それは建て前だろう。例えば、たまたま台東区を訪れていた他の区民が、避難所に助けを求めてきた場合も同じ様に追い返すのか、といえばそんな筈もない訳で、職員はホームレスを受け入れた場合に起きるであろう、様々な面倒を避けたのだと想像される。先ほど述べたように、結果的に他の避難者の迷惑になるのではないか、という懸念もあっただろう。実際、このニュースはSNSでも話題になり「税金を払っていないホームレスが避難所を利用するのはおかしい」とか、「臭くて精神疾患のあるホームレスなどには別の施設を用意すべきだ」といった意見も数多く見られた。全国民に「ホームレスなど生活困窮者を支援すべきか」と訪ねれば、ほぼ全ての人がYesと答えるだろう。しかし、そうした人々が自宅にホームレスを迎え入れるかというと、そんな奇特な人間は皆無な訳で、私だって電車で同じ車両にホームレスがいると、その臭いを不快に感じる事はしょっちゅうある。つまり「他人の権利は尊重されるべきだが、あくまで自分の権利が保証された上での話だ」という、それはそれで当たり前の考え方が事態をややこしくさせているのだ。
と、御託ばかり並べてなかなか映画の内容に入っていけないのだが、本作はこの問題について明解な回答を与えてくれる訳ではない(そもそも、そんな事は不可能である)。ここで描かれているのは、「声を上げなければ誰も自分に気づいてくれない」という虐げられた者たちの叫び―このメッセージは映冒頭に流れるライムフェスト(眼からレーザービームが出るという妄想に取りつかれた男の役で出演もしている)というラッパーの「Weaponized」という曲によって体現されている―と、その声を受け止め行動する「パブリック・サーヴァント」としての図書館員の姿である。主人公は、当初はホームレスに対する同情心から、彼らに救いの手を差し伸べようとしていた(例えば、金銭を与えるといった行為によって)。しかし、占拠された図書館の中で彼らと行動を共にし、彼らの声を聞く事でその怒りを共有し、自分にとっての「正しさ」を全うしようと決意する。その「正しさ」とは、あくまで図書館員として来館者にサービスを提供する覚悟なのである。なぜなら、図書館を訪れる人は誰しも、何がしかの困難を抱え、それを解決しようと訪れているからだ。図書館員に相談を持ち掛ける来館者の姿や声が映画の冒頭と最後に挿入されるのは、そのシンプルな事実を明確に示す為である。もちろん、人々はそれぞれ自分だけの「正しさ」を持ち合わせているのだろう。この映画に登場する刑事や検事、TVリポーターやマンションの管理人たちもそれは例外ではない。しかし、その「正しさ」がいつの間にか、独りよがりなものになってはいないか。サービスというものが、相手の想いを慮るところから始まるのであれば、皆が少しずつ他人の声に耳を傾け、ささやかでもサービスを提供する事からしか何も始まらないのではないだろうか。『パブリック 図書館の奇跡』は、いつの間にか眼の前に広がってしまった大きな溝を前に立ちすくみ、うろたえる私たちにもう1度、他者と向き合う勇気を取り戻させてくれる。
最後に、賛否を呼んでいるこの映画のラストについて少し触れておこう。当たり前の話だが、こうした「立てこもり」戦術は常に失敗に終わる事を運命付けられており、映画においてもそれは同様である。要するに、いつだって権力側が勝利し秩序が取り戻されるかたちで終わらざるを得ないのだ。だからといって、こうした戦術が全くの無意味なのかといえばそうではない。それは硬直した価値観に風穴を空け、やがて大きな変革が起きる可能性を埋め込んでいく。だからこそ、権力はこの様な行為に神経を尖らせ、一刻も早く秩序を回復しようとするのである。BLM運動にせよ、香港の民主デモにせよ、虐げられた者たちの上げる声(=Noise)こそが、閉塞した社会に穴を穿ち、風通しを良くしてくれる。本作のラストは、その開放(解放)の与える爽快さをユーモラスに示したものだと言えるだろう。ただ、このラストに収斂させる構造を採用した為に、物語がホモソーシャルな空気に染まってしまった事は否めない。こうした運動が、いつの間にか他者を選別、排除し閉塞的な状況を生み出してしまう、という問題は未だ解決されてはいないのだろう。

 

あわせて観るならこの作品

 

フレデリック・ワイズマンがニューヨーク公共図書館を題材に選んだこのドキュメンタリーでは、図書館の公共性というものを再認識させてくれる。3時間半という長尺だが、観ていて全く退屈しない。以前に感想も書きました。

 

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本作でも重要なモチーフとして扱われる ジョン・スタインベックの小説を、名匠ジョン・フォードヘンリー・フォンダを主演に迎えて映画化したアカデミー作品賞受賞作。助演女優賞を獲得した母親役のジェーン・ダーウェルの演技が素晴らしい。