事件前夜

主に映画の感想を書いていきます。

クロエ・ジャオ『ノマドランド』

本作の映像美は、ノマド・ワーカーたちが湛える美しさへの率直な驚きから導き出されている

2008年のリーマン・ショック以降、家も定職も失いキャンピングカーに寝泊まりしながら、その場限りの仕事を求めて各地を渡り歩く高齢者が増大する。彼らの中には有名企業で働いた経歴や特殊な技術や資格を持つ者も多数いたが、安定した職業や住居を手にする事はなく、21世紀のノマド(漂流者)とも言うべき生活を送っていた―
世界各地の映画賞を総なめ、本年度のアカデミー賞でも6部門にノミネートされているこの映画の素晴らしさを、どこから語り始めればいいのか…ジェシカ・ブルーダーのノンフィクションを劇映画として見事に昇華した脚本の素晴らしさだろうか、砂と岩に覆われた大地と複雑な色彩を湛える空のアンサンブルをスクリーンの隅々にまで鮮やかに写し取った、ジョシュア・ジェームズ・リチャーズによる撮影の素晴らしさだろうか。もちろん、『スリー・ビルボード』で私たちを打ちのめしたフランシス・マクドーマンドの演技は圧倒的で、エキストラとして実際のノマドを採用する、というチャレンジングな試みを成功させたクロエ・ジャオの演出にも舌を巻かざるを得ない。個人的に愛聴していたルドビコ・エイナウディによる静謐なサントラも作品の雰囲気にマッチしている。
それよりも私は、この作品にほんの少しだけ漂っているロマンチシズムについて語りたい。マネーゲームの果てに破綻した大手証券会社のあおりを喰らい、これまでの生活を奪われた人々の過酷な漂流生活を描いた本作は、確かにアメリカ社会、高度資本主義社会に対する批判が込められてもいるだろう。しかし、主人公のファーンがいわゆる「普通の」暮らしを手に入れるチャンスを2度にわたって断った事からも分かるとおり、映画の底流にはこうした漂流民に対する抑えきれない憧れが流れている様に思うのだ。このファーンは映画オリジナルの登場人物であり、ここには監督のクロエ・ジャオと主演女優のフランシス・マクドーマンドが抱く、ノマドたちへのシンパシーが反映されていると見るべきだろう。劇中で描かれるノマド同士の交流や彼らが形成するコミュニティにも、1960年代に発生したヒッピーカルチャーの残滓を感じ取る事ができる。
断っておくが、私は別に彼らが望んでこの様な漂流生活を送っているのだから、その責任は自身が負うべきだ、と主張したい訳ではない。我が国でも、ホームレスなどに対してその様な辛辣な自己責任論を押し付ける輩がいるが、それは他者に対する無関心を糊塗する為の方便に過ぎない。本作に沿って言えば、彼らはある日突然、自分たちの与り知らないところで起きた金融崩壊によって仕事も家も失い、やむを得ず漂流生活を送る事になった訳で、その様な状況に個人を追いやった責任はやはり社会全体が負うべきだろう。
しかし、である。そうして資本主義ネットワークの破れ目からこぼれ落ちてしまった人々の眼の前に、想像以上に自由で豊かな世界が拡がっていた事もまた事実なのだ。確かにある、と信じてきた現実が崩壊した結果、全てを失った人々は荒れ果てた大地を彷徨い、やがて誰も見た事のない、言わば世界の真の姿に辿り着いてしまった。それは、未だに過去にしがみつき、未来に怯えながら日々を送る私たちと比べて、何と美しい生き方なのだろうか。本作の映像美は、彼らノマド・ワーカーたちが湛える美しさへの率直な驚きから導き出されているのだ、と言っていい。
本作のラストで、ファーンはネバダ州のエンパイアにかつて存在した自宅へ戻る。かつて賑わっていた町には既に人影もなく、住居ももはや廃墟という言葉が相応しい。ファーンが家の裏口の扉を開けると、そこにはネバダの荒涼とした風景がどこまでも広がっている。そこから1歩、2歩、足を進めてみればいい。地平線の遥か彼方にそびえ立つ岩山へと向かって歩みだせばいい。いつしか私たちは、この息苦しい世界を抜け出す事ができるだろう。それは過酷で、不安で、優しいとはとても言えない厳しい道のりなのかもしれない。だが、歩みを決して止めなければ私たちが未だ手にした事のない、真の自由との出会いが待っているのだと、皺だらけの顔をしたノマドたちは教えてくれる。