事件前夜

主に映画の感想を書いていきます。

グリンダ・チャーダ『カセットテープ・ダイアリーズ』

前回扱った『サンダーロード』に続き、またもやブルース・スプリングスティーンの名が映画に登場するので驚いた。これは何なんだろう?ジョン・レノンボブ・ディランじゃ駄目なのか?まあ、単なる偶然だとは思うが…
とはいえ、『サンダーロード』ではあくまで物語のスパイスとして、ブルース・スプリングスティーンの名曲「涙のサンダーロード」を使用していた。退屈と諦めしか無い街を車に乗って抜け出そう、と恋人に呼びかける「涙のサンダーロード」の歌詞と、妻に逃げられ職も失ったまま、ただ住み慣れた街をうろつくしかない主人公の状況が対比的に扱われていた訳だ。それに対し、ブルース・スプリングスティーンの音楽に衝撃を受けた16歳の少年を主人公に据える本作は、もっと大々的にスプリングスティーンの音楽をフィーチャーしていて、数々の名曲が挿入歌として使用され、劇中には主人公たちが歌い踊るミュージカル場面まで用意されている。観客は、1987年当時の英国カルチャーをノスタルジックに思い出しながら、ストレートな音楽青春映画として楽しむ事ができるだろう。そう、この1987年という時代設定が本作のミソなのである。参考までに、当時の全英シングルチャートを紹介しよう。
 
1 NEVER GONNA GIVE YOU UP/RICK ASTLEY
2 NOTHING'S GONNA STOP US NOW/STARSHIP
3 I WANNA DANCE WITH SOMEBODY(WHO LOVES ME)/WHITNEY HOUSTON
4 YOU WIN AGAIN/THE BEE GEES
5 CHINA IN YOUR HAND/T'PAU
6 RESPECTABLE/MEL & KIM
7 STAND BY ME/BEN E.KING
8 IT'S A SIN/PET SHOP BOYS
9 STAR TREKKIN'/FIRM
10 PUMP UP THE VOLUME/M/A/R/R/S
 
このチャートを見ればわかる通り、1987年のイギリスではハウスやシンセ・ポップが未だに隆盛を誇っており、例えばマンチェスター出身のザ・スミスといったメッセージ色の強いバンドが若者に支持されてはいたものの、それもごく一部に留まっていた。こうした風潮が払底されるには、ニルヴァーナの『ネヴァーマインド』が登場1991年するまで待たねばならなかった訳である。この様な時代において、時代の歪みや労働者階級の苦しみを歌ったブルース・スプリングスティーンの楽曲は、古臭く暑苦しいものとして受け取られただろう。実際には、サッチャー政権下によるネオリベ政策によって失業率は増加し地方経済は衰退の一途を辿り、貧富による格差は拡大し続けていたのだが、だからこそ人々はただただ明るいだけのポップソングに救いを求めていたのかも知れない。音楽が単なるファッションの一部と化し、コマーシャリズムが社会を席巻していたのだ。非政治的な音楽が、であるが故に政治に取り込まれるという逆説的な事態が生じていた。
本作の主人公、1987年のイギリスに住むパレスチナ系移民の息子ジャベドは、従って二重の意味でマイノリティなのである。パレスチナ人である事、そしてペット・ショップ・ボーイズではなくブルース・スプリングスティーンを聴く事。自らが抱え込まざるを得なかったこの異端者としてアイデンティティと、社会的な抑圧の板挟みになるというこの設定は、グリンダ・チャーダのデビュー作『ベッカムに恋して』と共通している。デビッド・ベッカムに憧れるインド系の少女が、女子フットボールのプロ選手を目指して奮闘する姿を描いたこの作品においても、主人公の前に文化的、性別的差異による抑圧が立ち塞がっていたからだ。自らもインド系移民としてイギリスで育ったグリンダ・チャーダにとって、これは切実なテーマなのだろう。
という訳で、本作は社会の分断が叫ばれる昨今において、アクチュアルな問題意識を有した青春映画の佳作と言える。ただ、音楽を扱った映画としてはいささか問題がある様に感じた。例えば、主人公がブルース・スプリングスティーンの曲を聴き、衝撃を受けるシーンなどでその歌詞がタイポグラフィとして画面に登場し、その衝撃の強さを表現する為に雷が落ちる、といった演出はいくら何でもやり過ぎだろう。また、物語を通じて主人公がいかなる成長を遂げたのかを示すクライマックスにおいて、わざわざスピーチコンテストの場を用意して、そこで主人公に滔々と自分の「進歩的な」思想を語らせる、というクライマックスには失望せざるを得なかった。そこを音楽で表現しないのであれば、音楽によって人生を変える事ができる、という本作の重要なテーマが説得力を失ってしまうのではないか。
さて、この様な設定だと80年代のハウスやシンセ・ポップが能天気で頭空っぽのゴミ、として一括りにされてしまうきらいがあり、この手の音楽も大好きな私は観ている間中、複雑な感情を覚えていたのだが、その辺はさすがに(シンセ・ポップ・バンドを組んでいる友人と主人公の和解、という形によって)クリアしていた。こうした音楽ジャンルに対するフラットな視点は、やはり2000年代以降の映画だな、と思う。本作が90年代に作られていたら、こうした視点は望めなかっただろう(なぜかティファニーだけは容赦なく切って捨てられていたが)。
 
あわせて観るならこの作品

 

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本分で述べた通り、グリンダ・チャーダのデビュー作は、サッカーをモチーフに今作とほぼ同じテーマを扱っている。ただ、映画としては相当ヌルい出来栄えで、見比べると監督自身の成長の跡が窺えるかもしれない。

 

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閉鎖的な部族社会に生まれた若者が異文化の音楽に触れる事で自己を解放するきっかけを見出す、という同じ様な物語。以前に感想も書きました。