事件前夜

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アンソニー・マラス『ホテル・ムンバイ』

 

ホテル・ムンバイ [Blu-ray]

ホテル・ムンバイ [Blu-ray]

  • 出版社/メーカー: Happinet
  • 発売日: 2020/03/03
  • メディア: Blu-ray
 

2008年にインドのムンバイで起きた同時多発テロは、170人以上が死亡し、200名以上が負傷するインド史上最悪の事件となった。この映画は、テロリストの標的のひとつとなったタージマハル・ホテルに焦点を絞り、人質となった乗客や従業員たちの脱出劇を描いた作品である。
映画の冒頭では、タージマハル・ホテルの豪奢な内装と、宿泊客へ徹底したサービスぶりが細やかに紹介される。VIP客を迎える為の準備に右往左往する従業員たちと、通勤途中に靴を落とし、サンダル履きで職場に現れて叱責される主人公の姿がユーモラスに描かれるが、続くシークエンスでは、テロリストの少年たちが乗ったボートがムンバイに着岸する様が映し出され、映画は一気に不穏な空気へ変わる。ボートから降りた彼らはタクシーでそれぞれの目的地に向かう。世界有数の商業都市として発展したムンバイに立ち並ぶビル群を車窓越しに眺める少年たち。耳に付けたイヤホンから囁かれる呪詛に満ちた言葉。現実では、犯人グループはほぼ射殺されてしまった為に、彼らがテロを起こした理由は未だ不明のままだ。ただ、少年たちのやり取りから彼らがイスラム教徒である事、現在のインド社会に対し激しい憎しみを抱いている事が窺い知れる。
この少年たちの内に潜む憎しみが、正体不明の黒幕の言葉によって掻き立てられ、凄惨な暴力となってタージマハル・ホテルを血で染め上げる。その冷酷非道な振る舞い、躊躇なく人々を射殺していく姿と、少年たちが時おり見せる無邪気な表情との対比が本作で最も恐ろしい部分だろう。父親に電話を掛けて泣きむせんでいた少年が、そんな葛藤など忘れたかの様に、平然と人質を殺していく。決して、錯乱している訳ではない。気が狂っている訳でもない。これまで辿ってきたであろう苦難に満ちた生が、彼らを怪物に変えてしまったのである。虫か何かを叩き潰すように、ためらいなく人質を血祭りに上げていくこの映画の犯人たちは、世界が抱える矛盾を体現した存在なのだ。
最後まで宿泊客を見放さず、一人でも多くの人命を救おうと奔走したホテルの従業員たちにスポットを当てるのが本作の目的のひとつでもあっただろう。しかし、そのテロ描写の凄まじさが作り手の思惑を阻害してしまった様にも思える。映画を観終わった観客の心に残るのは、市井の人々による英雄的行為への称賛や感動ではなく、123分の間感じ続けていた恐怖と緊張からようやく解放された安堵感なのだ。もちろん、その安堵は必ず終わりのある映画というフィクションだからこそ保証されているに過ぎないのだが。

 

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